農会と農家小組合

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明治三十三年(一九〇〇)農会法施行と同時に農会が全農村にくまなく組織され、同三十八年の農会令改正とともに有資格者の強制加入規程によって、全農業者を会員とする農会が完備した。したがって、農会の設立状況は産業組合が大正期に普及したのと対照的である。また同組織は産業組合と違って、知事・郡市長・町村長が各系統農会の会長をつとめる点で、官治的色あいが濃かった点にも特徴がある。大正三年(一九一四)七月十日、県農会主催の郡市農会長協議会において、いかに町村農会を活動させるべきかという協議に入ったとき、牧野長野市長は開口一番、「農会は県費の補助を受けて郡市長を会長としている。これでは官治と同じだから廃止してしまえ。そうでなくて自発的にやれ」と過激論を吐(は)いたほどであった。

 郡および郡農会は各町村農家を上から指導するために技術者を常設して指導啓発につとめてきたが、明治四十四年度に郡技術者を五人増やして、町村に駐在させ、農業の指導にあたらせた。このとき、信田、御厨(みくりや)、稲里、東福寺の各村に配置されたが、こうした措置は県内では初めてで、各地から注目された。県・郡農会の農業技術者の指導は農業生産に向けられたが、そのうちとくに人目をひいたのは馬耕技術の向上・普及である。

 県農会主催の馬耕実習が大正六年四月におこなわれた。そのとき、四〇人の受講生は農会技手(技術員)の指導で、上水内郡浅川村西条の馬耕実習地で一人四、五回ずつ実習した。講習生のなかでも上水内郡内から出ているものは馬耕の素養のあるものが多く、古牧村の塚田藤一郎は馬耕技術員と遜色ないほどであった。しかし、ほとんどの講習生は初めてのものが多く、まっすぐに鋤(す)くことができず、だいぶ曲がったものもあった。犂(すき)の種類は松山犂、山崎犂、上田犂および抱持立(かかえもったて)犂であった。持立犂を使いこなせるものはいずれの犂も自由自在にあやつった。さらにそのおり、一時間の昼休みには同村原田萬太郎のりんごと水蜜桃(すいみつとう)の果樹園を視察したり、帰途には三輪村の和合果樹園で真鍋氏の説明を聞いたりして、講習会をより有意義なものにした。

 上水内郡馬耕競犂会が大正八年五月一日から三日間鬼無里村で開催された。畦鋤(すき)と平鋤の部にわかれ、馬の装備、使役、姿勢、耕度、遅速、斉整の各視点から採点され、成績優秀者には賞品が授与された。一等バケツ、二等はみ、三等洗面器、四等鍋(なべ)、五等包丁であった。このほか村単位でも郡農会技手を招いて馬耕講習会がおこなわれている。

 このような農耕馬は、鬼無里・三水・芋井村など上水内郡の山間部で二、三戸に一頭の割で飼っていたが、平坦(へいたん)部では飼料を得る山や原野がないため、芹田・三輪・吉田・柳原・安茂里の諸村では飼育農家がほとんどなく、古里・朝陽・大豆島(まめじま)の諸村でも各数頭の飼育にすぎなかった。そのため平坦部の馬耕はほとんど山間部農家に依存していた。

 馬耕が奨励され、技術の普及をみるようになって、更級・埴科・小県郡地方からの馬耕依頼に応ずる農家もしだいに増えていたが、いっぽうで賃金その他馬耕事業の統一的改善に関してはまだ不十分であり、そのためには馬耕組合設置が緊急の課題であった。馬耕の需要地での農家は、まま馬耕手に反別を正確に教えなかったり、期日が切迫してから依頼したり、理由なく解約し別のものに頼むなどの弊風がみられた。依頼農家と馬耕手との個人的対応にもとづくこうした諸問題をなくすためにも馬耕組合は必要であった。


写真37 松山犂による馬耕
(『信州むらの50年』より)

 農事改良によって少ない費用で多収穫を実現するためには、その地方に適応するように経営しなければならない。たんに学理や農事試験場の試験成績がどんなによい成績を収めても、それを各地に適用することができない場合がある。地味・気候・位置などの点から、適切な方法として各地に試作地を設ける必要があった。更級郡御厨(みくりや)村では計一一ヵ所の試作田がもうけられ、水稲種類試験、水苗陸苗比較試験、水稲肥料試験、選種法試験などが実施されていた。川柳村では試作田の稲小麦試作にさいして農会が費用負担して、尋常高等小学校に管理を委託していた。このような方法は今里、稲里、塩崎の村々でもみられた。

 長野市農会では大正四年度から市内茂菅青年会と付属小学校茂菅分教場に委託して一反五畝歩の蔬菜(そさい)、桑樹試験地をもうけ、五年度にはさらに長野県師範学校関谷教諭、農事試験場笠間技手に指導を託して試作をおこなった。

 このほか、町村農会の事業としては、大正十三年度埴科郡豊栄村で苗代害虫駆除、麦奴(ばくど)予防実施、稲多収品評会開設、稲麦採種圃の設置、各農家組合に農蚕業の講話会・農産物品評会を開催するよう奨励することをはじめとして、新規事業として田稗(たびえ)抜とり、稲架(はざ)干設置の励行、籾(もみ)種子塩水選の実施によって、米の生産量と品質を向上させた。副業奨励のため屑繭整理講習会を開催し、三四人の受講生が玉繭製糸の技術を習得している。

 上高井郡川田村農会では明治三十三年の創立以来、事業として稲立毛品評会、農蚕(一〇回)、玉糸製糸(三四回)講習会を開催してきたが、ことに玉糸講習は好結果を奏して、三河からの座繰器械の購入が八〇台におよび、蚕業の福利を増進することができた。

 米騒動にみられる食糧問題の浮上と小作争議の展開を背景にして、大正十一年四月の新農会法公布(十二年一月施行)によって、農事は農業と改められたうえ、農会の事業は農業者の福利増進から小作争議の調停・仲裁にいたるまで幅広いものとなった。しかし現長野市域の農村では争議の発生にはいたっておらず、農会の新しい事業としては食糧問題が重視された。大正十三年五月、埴科郡役所で開催された町村勧業主任吏員・町村農会技術員会議の「指示注意事項」には「主要食糧農産物改良増殖督励ニ関スル件」がもりこまれている。これは、十年に知事の発した告諭第一号と訓令第二二号にもとづいて、奨励品種の普及や自給肥料の施用による生産費の削減・所得の増大をうったえたものである。労賃と肥料は生産費の大部分をしめるから、この節約は重要である。また、米価高騰の基本的原因は需給関係、消費量にたいする国内産米の不足にあるとして、豊産多収をはかることが肝要としている。同時に、長野県内では年々二、三十万石の米を他県にあおぐ状況にあるので、米不足の現状にかんがみて節米の必要性を自覚し、埴科郡農会では「混食の奨(すす)め」というパンフレットを配布して、米七雑穀三の混食をするか、代用食に甘んずる国民的自制の心得が必要であるとといている。

 農会は生産指導だけでなく、農産物需要に応じて、その販売にも尽力するようになった。まず、市街地での簡便な青物市場が定期的に開設されるようになった。長野市農会主催の青物市場は元来営利を主目的とせず、主として物価の調節をはかるためのものであり、市内の商人が自覚して商品を吟味し、適切な値段で売ることをうながした。その結果、農会主催の青物市場に対抗して、長野市青果物商組合では大正七年七月三十日夜から市内仁王門東の空き地に青物市場を開設したが、そのときの中澤同組合長は「長野市農会で青物市を開設して、いちじるしく安い値段で売れるが、市内の同業者二〇〇余人は非常な打撃をこうむり、小資本の者などはほとんどいきづまっているので、その救済法を講ずると同時に模範的な商売をして、従来からの弊風を矯(た)める考えである。したがって値段は時価にふさわしいものとし、品物は吟味してできる限り新鮮なものを供給するつもりである」(『信毎』)と語っている。ここに農会主催青物市場の意義を読みとることができる。同様の農会による青物市場の開設を大正十一年度の現長野市域についてみると、篠ノ井、芹田、長野市の三農会が夏から秋にかけて果実・蔬菜などを販売し、それ相応の販売実績を得ている(表28)。


表28 農会主催の青物市場 (大正11年度)

 長野県をふくむ一道一七府県農会の連合によって、大正八年に東京と横浜に販売斡旋(あっせん)所が設けられた。その前年からは大阪、神戸にも同施設が開設されている。産業組合がまだこの分野に進出していなかったときだけに、青果物や副業品の販売斡旋などにみられるように、農会は進展する果樹・蔬菜の商品化にきわめて重要な役割をはたしていた。

 各販売斡旋所からは東京・横浜における市況通報が有償配布されているので、市町村農会は定期購読して随時市況を明らかにしておくよう、郡農会から勧奨されている。大正八年八月、りんご(なるこ)は目下市場において品薄でもっとも有望である旨の通知が東京販売斡旋所からあった。郡農会は町村農会に、栽培農家が至急出荷するよう伝達している。

 更級郡信里村は郡内で経済的に基盤の弱い村であるため、大正末期の行きづまった経済状態を打開するよう、全村的出荷組合をつくって農産物の販路を拡大することになった。主として柿と麻(各年産三万円)、栗(同一万円)の品質改良をはかるとともに、従来、小さな仲買人の言い値で売らざるを得なかったものを共同で関東、関西方面に出荷するようになった。

 大正十三年度に二八支部をもって設立された更級郡出荷組合では十四年度に組合員八七八人のりんご出荷額が三万余円にも達し、生産者の利益ははかりしれなかった。さらに十五年度からは更級農学校と連携をとってりんごジャムと福神漬けやトマトソースなどの農産物加工工場を建設することになった。

 町村農会は法規上、農家の利益を代表する最小の団体であったが、指導の内容によっては予期したように活動できない場合があり、単に奨励機関としての存在にすぎないこともあった。農会のもとに最寄り農家が一〇戸以上四〇戸ほど協同して、農家経済(農業経営)改善のための実行団体として組織された小団体が農事小組合(農家組合)である。大正二、三年のころ、上水内郡農会が米作改良組合の奨励をおこなったのが始まりであった。長野県農会は大正七年に農事改良奨励規程をもうけ、同年度予算にはじめて奨励費を計上した。その金額を九年度には一万二〇〇〇円に引きあげ、小組合指導主任技師を設置することによって、小組合の普及改善につとめた。


写真38 県農会の信州りんご登録商標 (中沢源嘉所蔵)

 上水内郡長沼村農会では大正十三年三月に農家小組合奨励規程がもうけられ、毎年度の農会予算から奨励金が交付されて、小組合は農業の改良、農村の改善にかんする諸事業の実行など、九項目のうち五項目以上を実行するよう、義務づけられている。

 当初、一つの町村で米麦作の改良は農事改良組合があたり、桑園の改良は桑園改良組合が計画し、養蚕の改良は養蚕組合がとりおこなってきたが、地域によっては、経費節減のために統合する場合もみられた。県農会から表彰された更級郡篠ノ井町柳沢農家組合を例にあげると、大正十年三月まで地区内に農事小組合のほか、納税組合、養蚕組合、桑園改良組合、園芸組合、養鶏組合が分立していた。これらを統合して各部制とし、それぞれに主任を置いて、全責任を負って競わせたところ、分立時よりも好成績をおさめることができた。

 豊栄村農会は大正八年度の産業奨励策として、農事小組合にさまざまな事業を実行させたが、そのうちで興味深いものは、害鳥駆除のため雀のひな、卵、親鳥などの買いあげをしたことである。卵二〇二個、ひな五七九羽、親鳥一七羽捕獲の成果があげられた。

 長野市においては、農会が農家組合を通じて生活必需品・農具などの調達の便をはかっていた。市内八四農家組合の大正十四年度の活動状況によると、各組合とも消費事業がいちじるしく発達し、改良農具をはじめ蔬菜類、苗木、生活必需品(盆暮れ砂糖や魚類など)の共同購入が盛んにおこなわれた。改良農具は吉村式桑株抜収機が流行し、川合の五台を筆頭に上高田、瀧、湯谷(後者の二地区はいずれも現上松)では荒廃桑園の桑株抜収に使用され、それぞれ相当の成果をあげた。また、共同購入は市価にくらべて二割から五割安で全市の各組合へ普及していった。各農家組合では日用品・生活必需品をいずれも生産地から共同購入することによって、安く手にできたうえ、市価との差額の一部を積みたてた。それによって中越第一組合(三輪)、宇木第一組合(三輪)、南高田組合(古牧)ではそれぞれ一〇〇〇円ほどの基本財産をつくることができた。


写真39 大正14年10月農事小組合員が県下の80%に達したことを報じた『信毎』