日露戦争後、長野県の産業組合設置数は全国第一位となっていたが、いっそうの設置奨励と事業執行上の便宜をはかることなどを目的として明治三十九年(一九〇六)一月、長野市で大日本産業組合中央会長野支会が設立された。また、三十九年の産業組合法改正によって信用組合の他事業兼営が認められたことは、組合の発展にとって大きな意義をもっていた。
現長野市域における産業組合の発展ぶりを表29でみるとつぎのようである。大正三年(一九一四)と昭和三年(一九二八)を比較すると、設立された組合の組合員規模と事業形態別組合数の変化がわかる。まず組合員数規模では大正三年は六〇人以下のものが圧倒的に多いのにたいして、昭和三年では三〇一人以上が多くなっている。組合数の合計は、小規模組合の解散・合併と新設が繰りかえされた結果としてあらわれる。更級郡、埴科郡と長野市では合併件数に匹敵するかあるいは上まわる新設数があったと推定され、上水内郡と対照的である。
県は大正三年から小規模組合解消の方針により、事業不振の組合には解散をさとし、一村内に複数の小組合がある場合、合併して大組合とし、また新設の場合少なくとも一〇〇人ぐらいの組合員で結成するよう指導した(県内務部『勧業一班』大正八年)。ただし、この方針が村に徹底するのはもう少しおそく、大正七年六月、埴科郡長が各町村長にたいして産業組合の営業成績を問いあわせたさい、豊栄村村長は「各部落に組合を設置せしめたり。これが奨励をなさんと欲す」と回答している。すなわち県の意向が浸透せず、末端ではまだ部落単位の組合運営を推進しようとしていたのである。
大正十二年当初における組合の設置状況は、農山村部に加入者が多く、市街地においては設立がなかったり、あっても組合員がわずかで活動が不活発なものであった。たとえば長野市に隣接する三輪・芹田・安茂里の各村ではまだ設立がなく、市街地の吉田町はわずかに全住民の一割の加入率にすぎない。こうした状況のなかにあっても、その後産業組合郡部会において、組合の指導・監督の任にあたる専任職員が配置されることによって、組合の体質は全体として年をおって強化され、発展していったことは確かで、つぎのように特筆される組合が輩出した。
大正十二年、上水内郡小田切村では一村五〇〇戸農家全戸が産業組合に加入しており、郡内の模範組合として推奨されるまでになった。その模範性は組合の規模だけでなく、組合活動にもみられた。同組合では規約を一歩すすめて旧債規程を設けて負債整理に着手した。その方法はまだ県下の組合においては実施されたことのない徹底的なものであった。全組合員の負債を詳細に申告させ、調査後、申告に虚偽のないものにたいしては負債額に相当する金額を貸しつけ、組合にたいしては資力に応じて年賦償還をおこなわせた。農家の大部分は先祖伝来の借金に苦しめられているなかで、自作農「造成」として組合資金の長期融通をはかった。これは小作争議対策として同十五年に公布された「自作農創設維持規則」に先んじた施策であった。
また、上水内郡の柳原産業組合では十四年に貯金額が一〇万二四〇〇円余(組合員数二八六人)で、郡内山村部に位置する北小川村産業組合の一二万八九〇〇円余(同六六一人)にはおよばないが、組合員数から推して、同年十月に産業組合長野支会から優良組合として表彰を受けた。
つぎに、表29の組合の事業形態をみると、大正三年では信用あるいは購買のみの単独事業組合がもっとも多く、ついで信用・購買あるいは購買・生産の二事業兼営がめだっている。これが昭和三年になると、信用組合の兼営化がすすみ、信用購買販売利用組合(四事業兼営)の設立を典型として、一村一組合化指導の結果でもある各種事業の組みあわせによる組合設立が「その他」(事業形態)にふくまれている。
「その他」で、複数の事業を組みあわせたにすぎない組合を除くと、更級郡で特筆されるものに篠ノ井町の繭糸販売利用組合、生糸販売利用組合、建築購買利用組合の三つがある。埴科郡では松代町の製糸関係二組合、それに上水内郡では大正十四年若槻村に設立の信濃果実販売購買利用組合が、長野市では大正二年千歳町に設立の北信牛乳生産販売組合と同九年長野県庁内に事務所を構える高嶺購買組合と同十二年東町に設立の長野庶民信用組合(第三節二参照)と同十五年南千歳町の長野木工材料購買組合があげられる。
このうち、若槻村の信濃果実販売購買利用組合は松田市太郎を組合長として村役場内に事務所を置き、若槻、古里、浅川、長沼ほか二ヵ村を区域としている。組合設立のきっかけは、大正十三年の干害に加えて同十四年八月四日の雹(ひょう)害によって同地域の果樹栽培農家が致命的な打撃をうけたことにあった。組合では栽培方法、品種の改良、肥料・薬品の共同購入、販路の拡張を促進し、加工製品の販売にも力を入れた。加工品は雹によって大きな被害をこうむったりんご(廃果)を安価に売却するよりも、将来再びこうした惨事に見まわれる可能性があり、果樹園で働く多数の雇い人夫の失業を救済するためにも「ジャムボイルド」を製造することになった。松田組合長は、八月中に郡長からの東京市長あて紹介状をたずさえ、ジャムの販路をもとめて上京している。
高嶺購買組合は大正七、八年の物価高騰のころ、県職員が米麦薪炭などの共同購入をおこなった結果、好成績をおさめたので、県内務部長の指導によって、同九年二月、市内所在の官公庁各種団体・学校・病院・銀行・会社の給与生活者およそ三三〇人が組合を組織した。市内千歳町に倉庫を置き、生活必需品を組合員の家庭に配給した。同十二年には洋服裁縫の設備をもうけ、洋服の月賦販売も始めた。また、同年に長野市各学校職員を組合員とする旭購買組合が同組合に合併した結果、組合員は六百有余人にふくれ上がった。
しかし、こうした発展しつつある産業組合の陰で、事業に失敗して解散を余儀なくされた組合も少なくなかった。大正二年に設立された松代町ほか五ヵ村真綿信用販売組合は同五年五月に解散した。組合員の生産者は従来から相当数の顧客をもっていたが、新設の組合は売り先の信用を得ることができないため、その売り値は各自の売却価格にくらべて安くならざるを得なかった。同十一年二月設立の松代家禽(かきん)購買販売利用組合は設立後、数年にして組合員が養蚕その他有利な事業に続々と転業したため、事業の目的遂行が困難となり、同十五年七月に解散した。安茂里信用購買販売生産組合(上水内郡)は同六年中、組合長と組合員の意志の疎通を欠いたため一時経営不振におちいり、そのてこ入れのために購買事業を拡張して特産物杏(あんず)ジャムの加工等をおこなったが、翌九年の物価暴落にともなう在庫品の下落によって多大の損害をもたらした。また、三輪信用購買販売生産組合(同郡)では、同八年中に購買品を多量に仕入れ、翌年物価暴落のため多額の損害をこうむって、存続することができなくなった。
現長野市域で昭和三年に活動している組合のうち、もっとも早い設立は真島信用購買販売利用組合(明治三十三年十一月・『市誌』⑤)であり、それにつぐのが川中島村の今里信用購買組合(同三十四年四月)であった。明治三十六年の第二回出資金払いこみの「登記書類」によれば、後者の組合は当初、今里村で(有限責任)今里信用組合として、更級玉四郎組合長ほか組合員六三人で発足しているが、大正四年十二月に三五人増やし、昭和三年末で一一四人となっている。そこでこうした沿革をもった同組合の帳簿にもとづいて作成した図7から、大正期の経営動向(資金運用)をみるとおよそつぎのようである。
まず、大正初年までは、貸付金の原資となる出資金、準備金ともとぼしく貯金もわずかであった。ところが、第一次世界大戦中の好況下では出資金と準備金にくらべて、貯金がいちじるしい増加をみせた。これによって同組合もようやく貯金組合の役割を果たすことができるようになり、貸付金は貯金に依存するようになった。年末に貸し付けされない余裕金は「預ヶ金」として長野県信用組合連合会(信連)に預けいれられた。信連が大正二年三月に創立されると、同組合は早速、出資金を払いこんで加盟している。同七年時点では信連と六十三銀行中津支店への預ヶ金があい半ばしていたが、十年代に入ると信連のみに預けられるようになった。信連加盟組合にとっての利点は信連から低利資金の融資をうけられることにあるが、同組合の場合、貯金が潤沢なため、年末融資残高があるのは大正四年(三〇〇円)のみである。翌年の組合借入金は年内最高時で八〇〇円あったが、年末には全額返済されており、経営面からみても組合の堅実な発展ぶりをうかがうことができる。
低利資金にかんしては信連のほかに、産業組合は長野農工銀行からの低利資金融資を受けいれる機関として機能していたことも重要である。大正五年五月に解散をした寺尾信用購買販売生産組合(組合員一七人)は明治四十三年の千曲川水害による低利救済資金(二〇〇〇円、一五ヵ年賦返済)を翌年三月に農工銀行より借りており、解散時の未償還額は同年十一月末日までに全額返済するとしている。
大正四年度、耕地整理組合や産業組合などによる、生産上もっとも必要な事業費に限って、政府は地方貸付金(三万円以下は年利六・三パーセント)の融通をすることになった。長野県内の当資金需要は朝陽村、川田村における耕地整理(組合)や西寺尾、塩崎、三輪、吉田などの産業組合から総額五七万二七〇〇円におよんだが、査定の結果、長野市域では唯一、古牧信用購買販売生産組合の五〇〇〇円が決定した。しかし、支給が決定しても同組合では態度「保留」とし、さらにほかの四分の一の組合が受給「拒絶」を表明している。県が精力的に資金需要を掘りおこした結果とみられる。