在来工業と新しい工業の動き

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明治四十年(一九〇七)代から大正年間(一九一二~二六)にかけての工業のようすを、『二十年間の長野市』(大正六年発行)および『最近十年間の長野市』(昭和二年発行)の工産物の統計でみると、生糸を除いて工業製品の品目としては、漆器、煉瓦(れんが)、瓦(かわら)、清酒、醤油(しょうゆ)、味噌(みそ)、油類、畳糸、缶詰、粕(かす)類(油)、蝋燭(ろうそく)、元結、油、菓子、箱類、めん類、硝子(ガラス)があげられている。工場の規模では、大正五年十二月現在で、職工数は官立を除き一〇人以上の工場は一〇社を数えるのみで、長野瓦斯(ガス)、長野電燈、長野新聞、信濃毎日新聞、長野日日新聞、岡本煉瓦、柏與印刷、吉野屋酒造場、長野鉄工所、長野製綿である。

 当時の長野市の工場は、鉄道長野工場や前田鉄工場をのぞいて金属機械などの影は薄く、長野市内および長野市周辺を消費地とした食料品や酒、生活品が中心で、家内工業あるいは従業員数人の家内工業的な規模のものがほとんどであった。しかし、職工数五人以上の工場数の推移を見ると大正六年一一であったものが、大正十四年には、六九に増加している。

 大正期には、在来の工業にも設備の機械化や動力として電気を取りいれ、生産力を上げるなどの変化がみられた。また、醸造業では、地域や全県で組合を組織して技能の向上とともに品質の向上や統一化をはかり、東京を中心に他府県へ進出するなどの動きも出てきた。

 明治四十年から、昭和元年(一九二六)までの長野市の酒・醤油・味噌の生産額の推移は表30のとおりである。明治末から大正期にかけて、酒造税は四期分納であったが、第三期は二月、第四期は三月となっており、二月、三月分とつづくため三月分を五月に延期してもらうよう陳情することと防腐剤サリチル酸使用期限の延長願いとの二つの大きな問題をかかえていた。とくに、明治三十六年の内務省令による防腐剤の使用禁止については、酒の貯蔵においてほかに効果的な方法が見つからないまま七年間の猶予期限が迫っていた。「火落ち」とよばれた酒の腐敗は、大酒屋の没落や破産をもまねくもので非常に恐れられていた。酒造業者たちは、全国酒造組合連合会を組織して繰りかえし陳情を重ねた結果、無期限延長として落ちついていったが、大正六年には、県下一七万五八一八石の生産量のうち、一六九〇石という大量の腐敗酒を出していた。


表30 酒・醤油・味噌の生産額の推移

 大正六年、長野県は工業振興の一つの柱として醸造業を発展させようとして、農商課に酒造の専任技師一人、技手二人を配置した。長野県を銘醸地にしていくために、酒の品質改善を振興策として立てていたが、腐敗防止は当面の重要課題であった。技師の指導を受けて、大正七年以降は腐敗酒は多くても四〇〇石、少ないときには五〇石と大幅に減らすことができた。

 酒は大正十二年の関東大震災を機に東京進出の契機となったが、中央での販路拡大には景品つきで販売するなど、その競争は過熱気味であった。長野県の酒生産高は着実に伸び、大正十四年には一八万八五二八石を生産し兵庫、福岡、広島、京都についで全国第五位になった。

 関東の取りひき相手から信州味噌のうまさを教えられた長野の岡伊右衛門は、「醤油で先進地方と争うよりも新しく味噌を開拓したほうがいいかもしれない。」と、早い時期に味噌への転換をすすめていた。当時、都市化の発達とともに、味噌は自給品から商業品にかわりつつあり需要も伸びていた。味噌と醤油は、それまで同じ業者が兼業でどちらかといえば醤油に重きをかけ、かたわらで味噌も生産していたが、大正期にかけての醸造業界は、味噌の商品化を高めて工業化に取りくみ、味噌生産の度合いを高めていった。大正二年六月には、北信一円一市九郡の同業者組合である北信醤油醸造組合も結成された。組合長は三輪村左治木清七、副組合長は長野市藤井伊右衛門である。味噌醤油も杜氏(とじ)の力やはたらきによるところが大きいが、引きぬきを禁止したり、大正七年には、勤続一〇年になる杜氏を表彰するなどの規定をつくったりもしている。

 善光寺平では、西山産の大豆と木島平産の米糀(こうじ)とを使った味噌が最良とされていたが、桑畑への転用などで、大豆は明治三十九年以降、自家用味噌の大豆も足りない状況であった。明治三十九年中央東線の開通により、東北や北海道産の大豆が移入された。明治四十三年、韓国併合がなされると朝鮮産大豆が輸入されるようになった。長野には、主に北海道産の大豆が入り、生産も飛躍的に増大した。好況に恵まれた大正三年まで、味噌すり機や豆洗い機を中心に機械も導入されるようになり、味噌製造の工業化がすすめられていった。

 大正七年には、長野県は、味噌移出県となった。大正十二年、関東大震災の折には、長野からも被災地に向けての出荷で生産が増加し、東京での販路をさらに拡大することにつながった。大正十五年、醤油造石税が廃止されたが、これにより、とくに農山村で醤油の自家醸造の気運が盛りあがり、長野地域でも醤油醸造家は大きな打撃をうけている。北信醤油醸造組合は、その後、大正五年小県埴科醤油醸造組合、大正十二年長野更水醤油醸造組合と各郡市に同業者組合が誕生したので大正十二年には解散し、十三年に長野県醤油醸造組合連合会を結成して経営を高めていった。

 柴石は、松代町柴の金井山から産出する安山岩の一種で、青紫色の密度の異なった部分が散らばっているのが特徴であるが、比較的柔らかく加工しやすいことから、すでに藩政時代から利用されていた。明治二十年ころから、墓石や土台石、積み石、敷石などの建築材として使われるようになり、従事するものも増えてきた。他町村からの業者も入り、採石地も金井山南斜面表山から北斜面裏山へと拡大していった。さらに、第一次世界大戦後の好景気のころには、コンクリートがまだ一般的でなかったために、尺角とか五八とよばれる長尺の角石が家屋の土台や社寺参道の敷石、階段等の材料として重宝がられ、松代だけでなく長野市周辺で多用されるようになった。


写真43 大正2年の寺尾村金井山での柴石採石場 (旧宮林石材所蔵)

 柴石全体としては、主な取引先は松代町の松浦慎二郎をはじめとして長野、須坂、中野などの個人業者を通じての家庭向け個人消費が中心であったが、若槻小学校、松代商業学校、安茂里小学校(小市分教場)、青木島村役場、蚕糸試験場等の公共施設の建築材としても使用されている。長野市中央道路の舗装資材としても使われており、大正十一年七月十四日から二十七日までに五六六一本(一八〇四・七尺)の石材を送っている。しかし、柴石の採石業は、人件費がかさんだこと、製品の規格統一化が困難で大規模化ができにくかったことなどから、経営が個人化していき昭和の恐慌以降はなりを潜めていった。

 松代には、城下に紺屋町があり、城下町が形成された時期にはここに業者が集まっていたが、発展するにともなって排水が城堀に流れこむことから城の水上においての染業が禁止され、明治期には、伊勢町七軒、鍛冶町、荒神町、中町、肴町などの町内に分散している。松代の染物業は藩政時代から江戸や京都等との交流によって、手描き友禅技法を取りいれるなど技術を一段と向上させてきた。こうした基盤のうえに、明治以降も、松代には絹物を扱う染色業者が集中して存在し、製糸工業につぐ重要な物産にもなっていた。染め物は、呉服を中心とした「絹物」と、暖簾(のれん)・法被(はっぴ)・幟(のぼり)などの綿製品に染める「太物」に分けられ、絹物は染め屋だけでなく、糊屋・模様師・紋屋・刺繍(ししゅう)屋など、複数の加工業者があって成立できるものであった。

 鍛冶町の「松屋」は、真田家出いりの染め職人で、領主から「州濱館(すはまかん)」の号を拝領していた。明治二十四年の松代の大火で全焼したあとは、間口一〇間の総二階建て瓦葺(かわらぶ)き土蔵造りとなった。絹物、太物両方を扱い、一般向けには、留袖や絵羽織りなどの模様染や帯などの染色をはじめ、洗い張り・色抜き・色揚げ等の仕事をし、また、羽二重・縮緬(ちりめん)・七子(ななこ)などの紋付きの染色を中心に洗い張り等の仕事もしていた。町内の八田呉服店は大きな取りひき相手であったが、大正年間には、十数人の職人が働き、おもに松代周辺を中心として善光寺平一円を取りひき地としていた。


写真44 松代町松屋の太物の染め加工作業
(松下達所蔵)

 大正年間には、長野県機染業組合連合会主催による県下の織物、染物の品評会や、中部六県の品評会が催されているが、そこでの上位入賞を果たすなど、松代の染め師の技術の高さがうかがえる。大正六年には長野県工業試験場(十年、県繊維工業試験場に改称)が松本市に設置され、染色部門が置かれてその後の発展に寄与してきた。しかし、松代においては、洋装への生活の変化や製糸業の衰退による需要の減少もあって世代交替のたびに染め物業者がかわったり、減少していった。

 明治四十年(一九〇七)二月、信濃電気株式会社は、吉田工場で電気を用いてカルシウム、カーバイドの製造を始めている。同社は、大正八年(一九一九)九月には、柏原に工場を増設している。また、金属加工の工場として、岡田に前田鋳造所(明治三十九年四月創業、諸機械および鋳物製造)、千歳町に長野鉄工所(大正元年十二月創業、金庫・ポンプ製造)ができ、民間においても鉄工・機械や化学工業が動きはじめた。

 いっぽう、国鉄長野工場は、明治二十三年(一八九〇)直江津-長野間の鉄道開通にともない、内閣鉄道局長野出張所長野器械場として発足した。明治三十九年、鉄道国有化により新たに国内の幹線網をもつ一七社が国鉄に加えられることになった。そして明治四十年八月には、北越鉄道(新潟-直江津間一六三・六キロメートル)が信越線に編入された。さらに、明治四十二年国鉄長岡工場を廃正して長野に併合した。明治四十四年五月中央西線の全線開通、大正三年第一次世界大戦等により長野工場での工事量は、飛躍的に増大した(表31)。長野工場では、拡張計画と動力改革により設備の充実がはかられ、大正四年には、六七六人が働く当時長野においてもっとも近代化がすすんだ機械工場となっていった。


表31 国鉄長野工場の工事量の推移

 その第一は、蒸気機関によるベルト駆動から電力への動力の転換である。少ない電力のなかで供給を受けられるようになり、明治四十一年からすすめられ、四十二年には旋盤、鍛冶工場の電力化が完了している。

 第二は、新しい機械設備の導入である。組みたて職場には二〇トン天井走行クレーン、機関車用トラバーサー(遷車台)や大型の客貨車用トラバーサーが設置され、これらは電動であった。併合された長岡工場の諸機械も移設されている。

 第三は、鉄材の切断、溶接作業における酸素アセチレンガスの技術の導入である。これは、それまでのたがねによる切断やリベット接合にとってかわり、加工技術や作業能率を大幅に改善させた。

 また、大正七年、米価暴騰等の混乱したなかにあって、職員の生活救済として生活必需品を安く供給するために共済組に購買部を開設した。はじめは、米・薪炭を扱っていたが、生活品一般におよんでいった。平均して市価より二割ほど安く、売り上げも五年で一〇倍にまで増加した。大正十二年六月からは食堂も開設している。

 明治三十八年岡田町に鋳物鋳造所が設立された。設立者は前田弥市である。前田は富山県で生まれ育ったが、一二歳から一〇年間ほど上田、東京、川口、長岡、函館などで主として鋳物や鉄工・硫黄製煉所などに勤めた。明治三十七年鉄道省長野工場に入所し、汽車や機関車用鋳物を研究して一年で退職、上高井郡米子鉱山に工場をつくり、同鉱山の硫黄製煉機製作を引きうけた。そして同三十八年独立して長野市では最初の民間鉄工場として鋳物鋳造所(長野工場)を設立した(ただし、会社では設立記念日を三十九年四月としている)。ここでは、硫黄製煉機、生繭乾燥機、架空索道のほか一般諸機械の製作と販売をした。この間に木炭吹鋳造(コークスでなく木炭を使用)を創始し、煉鉄の廃物やくず鉄を利用し原価を下げて良品の製作を可能とした。その後この木炭吹は広く知れ渡った。

 大正初年第一次世界大戦の好況期には、日本鋼管のインゴットケース(鋳型)の鋳造を引きうけた。大正八年(一九一九)六月には、岡田町前田鉄工所(長野工場)を合名会社組織に変更した。そして注文の増加と輸送の関連から同年東京府足立区に分工場(東京工場)を増設し、鋳型、水道用鋳鉄直管、異型管、その他一般諸機械の製作販売を開始した。『信毎』によれば、当時会社は職工一八人、手伝工四二人を雇っていたが、同年六月十七日手伝工(てつだいこう)が米価高騰を理由に日給二割の増額を要求して同盟罷業(ストライキ)をし、結果的に要求がいれられるという事態もあった。

 大正十二年の関東大震災では、東京工場の大部分が倒壊し約六万円の損失をうけたが、翌十三年には復興建築に要する暖房用放熱機の販売を開始した。当時の暖房用ボイラーはほとんど輸入品であったが内地産の燃料に適さなかった。その点を改良して特許権をとり、十四年前田式暖房用ボイラーの製作販売を開始し需要の急増を得た。このボイラーは、昭和四年(一九二九)商工省から「国産品前田式ボイラー」として真価を認められ工業研究奨励金八〇〇〇円を授与された。

 同社では昭和十三年一月、吉田東町に吉田工場を創設し、同十四年十二月株式組織に変更して前田鉄工所吉田工場とした。同十八年九月上高井郡須坂町に前田鉄工所須坂工場を設立し、同二十年十月株式会社前田鉄工所に改名した。