電気・ガスの供給事業

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長野電燈株式会社では、電力需要の増大(図9)に合わせて明治三十八年(一九〇五)四月には第二発電所として芋井発電所(二五〇キロワット、同四十三年には三〇〇キロワット)を建設した。しかし、開業一〇年を過ぎると、施設の維持管理も人手不足になってきた。茂菅発電所の導水路付近には、雑木があったり、また、大雨のたびに水路が傷んだりしていた。同四十五年二月二十八日午後三時ころからの増水はわずかの時間に約一メートル余りとなり、水路にたくさんのごみが流れてきて所員五人ではとても手が足りないため水番手伝いとして臨時に二人を雇っている。この二人は、その後もときどき臨時に雇われている。そのために、送電時間もときどきかわり、同年三月十六日からは午後五時三〇分から午前六時一〇分と決めたが、これもそのときの天候等により送電時間が前後している。それでも大正十年(一九二一)には、長野電燈株式会社の発電力は九八四三キロワットにのぼっている。


図9 電力需要戸数の推移
(『長野商工会議所六十年史』により作成)

 このころほかにも各地に電気会社がつくられ発電所が設置された結果、同年には信濃川水系だけでも一〇〇馬力(約七五キロワット)以上の発電所は四三ヵ所にのぼり、総発電力は二七万一〇七三キロワットになっている。その一つ越寿三郎の信濃電気株式会社(本社須坂市)は、明治三十六年に創立されたが長野電燈との競争がはげしく、東信地方に勢力を広げようとし、長野や吉田・篠ノ井にも変電所をおくなどして、長野市の東部一帯と南部・西部の町村に供給範囲を広げていった。そこで、明治四十三年ようやく知事らの調停が成立して、両者の供給区域についての協定が結ばれた。その内容は、当時の長野市において信濃電気が敷設したものおよびその権利を長野電燈に譲渡し、かわりに以後長野電燈の不足する電力は必ず信濃電気から供給を受けるというものであった。その結果、大正六年の長野電燈と信濃電気の事業報告では、長野電燈本社分の電力供給地域は、当時の長野市(七七五一戸)・芋井村(五二四戸)・安茂里村(七五二戸)・芹田村(一三四戸)・小田切村(四二戸)・戸隠村(二二四戸)計九四二七戸であり、いっぽう、信濃電気の供給地域は、須坂町を中心に現在の若穂地区・古牧・柳原・三輪・大豆島・若槻・吉田・朝陽・川中島・青木島・篠ノ井・松代の各地区等となっていた。


写真45 信濃電気と長野電燈の供給範囲図
(昭和10年『県水力発電所一覧図』の一部)

 長野電燈株式会社の合併の動きをみると、明治四十四年七月小諸電気を合併して佐久支社(管内に小諸・望月・野沢・軽井沢の各出張所)を設置、同年七月伊那電燈を合併して伊那支社を設置した。しかし、伊那支社は大正四年十月伊那電車軌道へ譲渡し、支社は廃止した。さらに大正十二年(一九二三)十二月には西毛電気・西毛電力・上信電気を合併して群馬県安中町に西毛支社(管内に松井田・富岡・下仁田の各出張所)を設置した。以後大正末から昭和七年(一九三二)二月の新電気事業法施行ころまでのあいだには、小日方水力株式会社(本社群馬県小日方村 同末年)・親川電力株式会社(本社南佐久郡小海町 同末年)・丹生電力株式会社(同末年)・東信電気株式会社(昭和初年)と合併を繰り返していった。


写真46 長野電燈株式会社社屋

 信濃電気株式会社は明治三十六年五月、米子に一二〇キロワットの発電所を建設し、四十四年には、上田電燈株式会社を併合、各地に発電所を建設しながら勢力範囲を広げていったのをはじめ、新潟県方面にも勢力を延ばしたり、カーバイド製造までおこない経営を広げていった。

 こうした電力の増大の陰には①第一次世界大戦の影響で諸工業が盛んになった、②電灯用の電力の増加、③電気鉄道の開通、④工業用石炭石油の暴騰により動力を火力から電力にかえる傾向にあった、⑤水力発電技術の向上等の原因があげられる。そのため、余剰電気を使って新しい電気製鋼などの会社をおこしたり、遠くの土地に電気を送るようになった。

 昭和十一年(一九三六)、当時としては一級の設備をもった長野電燈の里島発電所が完成する。善光寺温泉付近の対岸に取水口を設け、約三キロメートルをずい道で旭山北側まで山中をひき、五〇メートルの落差をもつ、コンクリート造りの三三〇〇キロワットの発電所が誕生した。

 ところが、昭和十二年、信濃電気の越寿三郎が製糸事業に失敗すると、長野電燈は信濃電気を同年四月に合併して長野電気株式会社となった。同時に、野沢温泉水力電気株式会社や、大日方電力(南佐久)、中外電力等も統合した。さらに、十五年の電力国策要綱・十六年の配電統制令により、十七年四月中部配電株式会社が誕生した。この配電範囲は、長野県下だけでなく隣接の諸県をふくむ、いわゆる中部圏におよぶものであった。これがのちの中部電力株式会社の前身である。

 いっぽう、電気と同様に、飛躍的に需要を広げたものにガスがある。明治四十五年、長野市にガス会社設立の動きがでていた。会社設立を出願したのは、東京の小出某・同じく東京の山瀬某・長野電燈株式会社社長花岡次郎・中沢與左衛門ほか十数人・小坂順造ほか十数人の五社であった。同年二月長野市議会でもガス会社設立について話しあわれたため、この市議会はガス市会ともよばれた。審議の内容は、おもにガス会社の設立にかかわることおよびガス料金にかかわることであった。このうち設立に関しては、小坂順造を社長として九月に開設することにした。また料金は、東京では一円八〇銭なのにたいして、長野では二円四〇銭とすることにした。こうして大正元年(一九一二)九月資本金三〇〇円で長野市若松町に本社をおき、石堂町に工場を設けた。供給戸数は六三〇戸で、おもに炊事用と灯火用に使われた。長野市と長野ガス会社との契約によると、ガス送管敷設契約期間は三〇年とし、同二年一月にはガス灯の点灯がおこなわれた。以後図10にみるように、ガス需要は年をおってのび、昭和にはいると電力需要と同じく急増し、昭和四年以降には創立当初のおよそ三倍になっている。


図10 ガス需要戸数の推移
(『長野商工会議所六十年史』により作成)

 また、ガスの灯火用と炊事用ののびの変化では、当初灯火用が炊事用をしのいでいたが、電灯の普及と同時に炊事用が灯火用をしのぎ、それにともなってガスの供給量も増大している。


写真47 長野ガス株式会社のガス貯蔵タンク
(『遊覧長野』より)

 こうして増大をみせてきたガス供給事業も第二次世界大戦の終了とともに東京ガスに吸収合併されることとなる。昭和二十年八月十五日に交わされた合併契約書によると、合併期日は同年十月十五日としここに長野ガス会社は解散することになった。この合併にともない、従来からの従業員は東京ガスに新規採用ということで全員が引きつがれた。