印刷出版事業の発展

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大正十五年(一九二六)には長野市域の印刷業界は工場数も一五となり県全体の約半数(県全体では三六)となった。大正期に創業の印刷所は表32のように六社あり、総従業員数一六五人(県全体六一六人の二七パーセント)になっている。また、工場の建坪も三〇〇坪をこえ、従業員数九〇人、印刷機台数も一一台という大規模なものもできてきた。これ以前の明治期には、手回しロール機とよばれる菊判四つ切り・四六判四つ切り等に対応するものであったが、体力がいり若い職工が一〇~二〇分で交代するなどしていた。省力をもとめて改良が加えられ、足で回転させる足踏みロールやお盆の形をしたお盆ロールも出現した。


表32 大正~昭和前期創業の印刷業者

 しかし、明治三十一年(一八九八)茂菅に長野電燈株式会社の発電所ができてからは、一〇年のうちにモーターによる機械運転を始めるところが出てきた。そしてだんだんに電動化がすすみ、大正期にはいり水力発電の発展期にあわせて電動化が広まった。ところが、いっぽうではそれにつれて人員削減という弊害がおこってきた。従来手回しの機械では、車まわし・紙さし・紙とり等分かれて作業をしていたが、電動化により車まわしなど人員が不要になった。それぞれ各作業には専門の職人が配置されていたが、こうして仕事を失った職人は転職を余儀なくされたり配置換えをさせられた。

 大正五年(一九一六)十一月三日付け『信毎』にはじめて写真が掲載された。これまでは記者が記事とともにつけていたスケッチを桜・なし・ほお・つげなどの材料に彫り師が張って彫刻したあと、版木を印刷機にかけて刷っていたが、写真製版の登場で以前の方法はなくなった。また、翌六年には、石版に脂肪性の材料で絵や文字を書き、水と脂肪の反発性を利用して、油性インクで印刷する石版印刷機が一般的になった。のちにこの石版をアルミニウム版やジンク版(鉛版)をロール式にして印刷する新型印刷機が、大正十五年ころから盛んに使われるようになった。これらに加えてやがてオフセット印刷(平版から直接印刷しないで、いったんゴムブランケットに転写してから印刷する方法)に移行していく。いち早くオフセット印刷機を導入したのは上田市の中沢活版所であり、長野市域では大正十二年長野市柏与活版所であった。ついで十四年には中村活版所、昭和三年(一九二八)には西沢活版所が導入した。

 大正十二年九月一日の関東大震災により東京方面の印刷所は壊滅してしまったため、その印刷の業務は他府県に頼らざるを得なくなった。とりわけ東京に近く印刷業の盛んな長野県におよぼす影響は大きかった。長野市域でも柏与活版所・長野新聞活版部・ツルガ活版製造所・中村活版所をはじめ多くの印刷所で、東京からの受注をふやした。

 この地震により、大日本法令出版株式会社の東京本社は、幸い社の中枢をもつ長野支社(長野市南県町乙三番地)が、ほぼ無傷で残り、社長田中喜重郎の弟田中弥助を筆頭に精鋭二十数人をそろえていたので、復興に役立った。『現行大日本法令』一〇〇〇部の増版を決定し入手困難であった印刷用紙も苦心の末手に入れ、昼夜も分かたず四〇日間に台本一〇〇〇部を作りあげ、自社の再建と日本の印刷業の復興につくした。こうして長野の印刷業は震災を契機に大きく飛躍することとなった。その原動力について『長野県印刷文化史』は「埼玉や群馬をのりこえて長野県に東京の注文がきたという事には、当時の田中弥助長野市印刷組合理事長の業界指導力や自己工場設備の増設、工場の拡張などの時宜を得た処置もPRとなり、これらがあずかって力あったとも見られる。」とし、『美穂田中弥助君追悼録』にも「罹災によって復興に要する印刷物の作成に悩んでいた官庁その他の諸会社は、相次いでこれを長野新聞活版石版部に持ち込むにいたり。とうてい同社だけでは間に合うべくもないので、君は、長野市内の印刷業者を挙げてこれが需要を充たすべく斡旋し、しかも足元を見て暴利をむさぼるという様なことなく、よく誠実にこれにあたったので、在来地方的存在でしかなかった長野の印刷業がたしかに帝都にその存在を認められる事となって、長野全市の印刷界もこれによって一段の飛躍を遂げる事となった。」としている。


写真48 関東大震災後発展した長野市の印刷業
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 昭和初期には、長野市域に新たに作られた印刷所等は一一社増え(表32)、今までのものを加えて一七社となった。これは、県全体が三八社に増えたことからみても、約半数であり長野市域に集中していたといえる。しかし、昭和初期の経済恐慌の波は出版界にも押しよせ、新聞が無料で配布されたり、婦人雑誌も数冊の付録をつけて数ヵ月売りだしたが、全体的には仕事の量が減り印刷料金のダンピングもおこった。