物流の進展と市場の発達

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大正期における交通運輸の発達は商品の流通を飛躍的に発展させた。長野駅の到着貨物をみると、大正初年から末にかけてその量は約二倍に増加し一一万トンにおよんだ。米をはじめとする主要食糧品や青果・魚などの生鮮食品はもちろん、酒・砂糖・煙草(たばこ)などのし好品や日用消費財などが大量に移入されている。また、農業における生産手段である肥料や、工業原料である石炭・石灰・セメント・鉄鋼なども移入され、すべて移入超過であった。移出で多いものは生糸や木炭等で、その量はわずかであった。

 このような商品流通の増大にともなって、この時期の商業の特色としてあげられるのは、卸売市場が発達したことである。

 海がなく入手が容易でない長野県での海産物は、たいせつな生活必需品として商品化され売買されていた。長野市では明治四十年(一九〇七)には三〇店舗であった魚商が、昭和三年(一九二八)には八七店舗が商業会議所に所属するようになっている。これは菓子商についで多数をしめるものであった。しかし、新潟県など生産地の魚商人は長野県を「山」と称し、悪材料の仕向け地としていた。また生産地から遠く離れていることもあり、流通過程が前近代的で生産者から消費者までもっとも簡単なもので四人、複雑になれば八人ほどの手をへるので、この間の価格は六割から一二割以上騰貴したといわれている。

 長野市に魚市場ができたのは明治三十三年のことで、株式会社長野協盛社が東町に開設したのが最初である。この長野協盛社は、大正二年(一九一三)には千歳町に移転している。ついで同年長野魚商株式会社が東町に、さらに株式会社長野魚市場も東町に開設している。東町や岩石町は鉄道開通以前、北国(ほっこく)街道を新潟県や富山県などから魚を運んできた行商人たちが、門前町へのとりかかりとして商いのより所とした場所であった。魚の知識のあるこのような商人たちのなかには、長野に魚商として居着くものもあった。長野市に最初にできたといわれる魚問屋「金丸屋」は岩石町にあったが、その後しだいに広い敷地をもとめて、千歳町方面に立地するようになっていった。長野市の荷受け機関は当初市場と称してはいたが、いわゆる問屋であったり、有力な小売商たちが共同仕入れ機関として設立し機能したにすぎなかった。

 大正三年の県水産物取り引き案内によると、長野市の仲買い小売人は二五〇人あまり、売買年額一二七万円、このうち鮮魚は四〇万円、塩魚五〇万円、乾魚三〇万円、鰹節(かつおぶし)二万円、その他五万円となっていた。取り引き方法は競売と掛け売り(十日計算)で、販売手数料は一割九分であった。この当時市場での売れゆきのよい魚はたい、さば、ぶり、いわし、あじ、かつお、かれい、ぼら、かじき、ます、かに、しいら、などであった。

 そ菜や果実の取りひきについては、その多くは小売商と生産者との直接取りひきであったり、長野市街周辺の農家がみずから町辻の市で直接販売するか、天秤棒(てんびんぼう)や背負い籠(かご)に入れて、各家庭をまわって販売する振り売りをおこなっていた場合が多かった。しかし、市場が開設されるようになると、小売商や生産者もしだいに市場を利用するようになり、市場取りひきが多くなって、青果店舗数もしだいに増えていった。明治四十年に商業会議所に加盟している青果商はわずかに五店舗であったが、昭和三年には三四店舗を数えるようになった。

 長野市街地における青果市場は、大正二年、青果商の有志が集まって問御所(といごしょ)に長野青果市場を開設したのがはじまりである。資本金三万円、敷地三〇坪ほどの小さな市場であったが、常時三、四十人の小売り業者が買いだしに集まってきた。品物は近隣の農家が生産したもので間にあっていた。そ菜生産者はおおかたは商人の家まで運搬し、商人の手によって長野市の市場に搬出していた。このため価格決定にさいして絶対的に商人に主導権があり、生産者はときに不利益をこうむることもあった。篠ノ井横田の商人は、明治四十四年にお互いの利益をはかるために商人の有志で簡易市場を開設した。これが篠ノ井横田青果市場のはじまりである。これは大正二年に一時中断したが、翌三年には再開され、毎年六月はじめから九月末まで(のちには十月二十日まで)横田公会堂で早朝競り市を開設することとなった。その後生産者も加わり、利用人員二〇人に発展した。この横田の市場は、大正十四年千曲川改修工事にともない富士見地籍に移転し、このときさらに一般栽培者の希望をふくめて三〇人の多きにのぼった。昭和四年には市場の組合員は八〇人ともなり、そのうち商人は二〇人で出資金額は一六〇〇円(八〇口)で、積立金が一二〇〇円であった。当時の敷地坪数は一〇五坪(三四六・五平方メートル)、建物は平屋づくり市場が四〇坪(一三二平方メートル)、事務所が一二坪(三九・六平方メートル)であった。そのころの取りあつかい品目は一般そ菜および果実で、取りあつかい高は一万三一〇〇円(昭和三年)、市場手数料は一〇〇分の八を納める規則となっていた。このほか長野市域の青果物市場は上徳間青果物共同販売所、清野青果市場、岩野青果市場などがあった。

 同じころ、北信常設家畜市場が妻科に開設されたり、吉田繭糸市場が創設されている。また、さかのぼって明治二十七年には権堂に長野米株商品取引所が設立され、米穀や証券の取りひきがおこなわれた。一般市民に投機熱が高まった明治後期には北信一帯から客を集めたが、その後取引所法が制定され同三十七年には閉鎖された。