商業会議所の活動と商品陳列所

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明治三十三年(一九〇〇)に設立許可を得て発足した長野商業会議所は、第一次世界大戦の刺激による日本経済の飛躍的な発展と、それに呼応した長野市の経済活動の発展とともに活動を本格化していった。


写真49 長野商業会議所
(『長野市勢要覧』より)

 商工業の発展に関する活動として特筆すべきことの一つに、店頭装飾競技会の創設がある。大正五年(一九一六)に中央から講師を招き、店頭装飾に関する講演会を開いたことをきっかけにして、六年十一月の恵比寿講の売りだしを中心にはじめて競技会が開催された。また、七年からは開催に先だって農務省から技手を招き、店頭装飾について講習会がもうけられ、以後恒例となった。第五回競技会は、恵比寿講のときばかりでなく季節に応じた装飾を取りいれようと、十一年三月に開催時期をかえるなど工夫をこらした。また、中央通りの整備が完成した十四年には、夜間照明を加味した競技会もおこなわれるなど、商業の近代化発展におおいに寄与した。この店頭装飾競技会は、昭和十一年(一九三六)の第一六回競技会まで実施された。

 全国に先がけた試みである店員表彰の制度も、長野市の商工業の振興に大いに役だった。店員表彰の制度は明治四十一年の総会において表彰細則を確立し、翌四十二年に第一回の表彰式をおこなった。表彰は各商業組合から、三年以上勤続し成績良好な店員が推薦され、「褒状」の記念章が授与された。一回目の表彰を受けたあと二年以上勤続し成績良好の店員は、さらに二回目の表彰を受け「銅賞」を、同様に以後「銀賞」、「七宝章」が授与された。ことに成績優秀で他の模範とすべきものについての表彰も、別に定められていた。表彰人員は表33のとおりで、これによって商店で働くものの勤労意欲がおおいに高められた。大正十年からは、徒弟にたいしての表彰も加わり、労働者の資質の向上という面から、大正から昭和初期における長野市商工業の発展と健全化に大きく貢献した。


表33 表彰人員の推移

 また、商業会議所は地方産業の振興のために展覧会を開いたり、産業調査委員会を設立して、地方産業の調査をおこなっている。展覧会については、副業製作物品評会、全国実用図案展覧会(大正五年)、広告意匠展覧会(同六年)、全国竹細工展覧会、全国木製品展覧会、輸入代用品巡回展(同七年)、全国土産品展覧会(同十二年)、長野県名産品共進会(同十三年)、文化家具共進会、あけび細工展覧会(同十四年)、ポスター展(同十五年)等が主なものである。産業調査委員会は大正六年、長野市の産業改良発達をはかるために設置された。調査委員会の活動は各産業調査から始まって金融、交通、労働問題など広範なもので、たとえば職工労働問題に関し調査をおこない、つぎのように組合(各種商業組合)に申しいれをしている。

 一 出場および退場時間  夏期 午前七時~午後七時 冬期 午前八時~午後四時

 二 休憩回数および時間  午前一回 一五分 正午一回(夏一時間 冬三〇分)

 三 器具の手いれは臨時必要を生じた場合に限り、仕事場ではおこなわない。

 四 徒弟の賃金は相当減額すること。

 大正七年からの米価および諸物価の高騰は、長野市においても米穀商の襲撃に発展した。この事態に直面した商業会議所はいろいろな対策を講じた。すなわち七年二月には、輸送の問題からくる物価上昇を防止するため、「長野市および県内の滞貨を一掃すること、到着貨物の潤沢(じゅんたく)をはかること」を関係機関に請願するとともに、炭価の調節をふくめて木炭の廉売会(れんばいかい)を催した。八月に入ると急場の対処として、長野市から価格差による損失の補償の約束を得て、内外米の原価販売をおこなうことを決定し、新潟から玄米三〇〇石を購入し、それを業者に売った利潤で白米の廉売をおこなうなど力をつくした。また、八年には引きつづき木炭の廉売をおこなったり、知事等関係機関に意見書を提出するなど対策を講じた。この意見書は、食糧問題に関して抜本的な対策を講じるべきであるとの提案であり、外米の輸入・耕地の拡張・酒類生産の制限に関する意見が主なものであった。

 商工業の発展の基礎である交通・通信の整備に関しても強い関心をもち、盛んな活動がおこなわれた。すなわち、長野市を中心とする周囲六郡内における鉄道網整備に関して、商業会議所内に促進委員会を定め、長野・須坂間電車、長野・上山田間電車、長野・北城間電車、中野・平穏間電車、須坂・山田温泉間電車の実現を促進することとなった。また、道路に関しては、中御所鉄道踏みきりの改良の建議や県道戸隠街道の改良などの運動を展開した。さらに、急激に必要性を増した電話利用についても、加入区域拡大や長野・東京間、長野・大阪間の長距離電話増設問題を積極的に請願した。

 観光開発については、善光寺の参拝客増加にともない、土産(みやげ)物の品質向上を期して会報に資料を提供したり、指導改善に努力をした。とくに、大正十二年には全国土産品展覧会を開催し、善光寺食糧土産品組合規約を制定し、品質向上につとめた。また、十五年には北信濃保勝会の創設により、従来から散発的におこなわれていた観光施策を組織化し、観光都市としての長野の飛躍をはかった。そして、長野市およびその周辺の観光地である飯綱高原や裾花峡(すそばなきょう)、姥捨山等を全国に紹介したり、戸隠・妙高を包括する国立公園の設定について請願するなどの努力をした。

 長野県商品陳列館については、すでに明治三十六年(一九〇三)に長野県会において物産陳列館を設置しようとする計画があったが、日露戦争で実現できなかった経緯がある。ついで、同四十一年に長野市で開催された一府十県連合共進会の参考館を県立物産館にあてようとする動きもあったが実現せず、そのときの参考館は以後五年間にわたって県庁(明治四十一年五月焼失)の仮庁舎として使用された。その間物産展会場に借用する許可を得て、明治四十五年の善光寺ご開帳に合わせて長野県物産展を開催した。この成功を得て商品陳列館設置の声が再燃した。これを受けた長野商業会議所ではこの経営にあたることとし、規則をもうけて七人の創立委員を専任し、農務省からの許可を受けて準備がすすめられた。

 陳列された商品は県内外から四〇〇〇点にのぼる出品数を数え、また、農務省から海外の商品を六十余点借用して大正三年七月に開館された。開館当初の七月の売りあげは約二四〇円あまりで、入場者は四七七〇人をこえた盛況ぶりであった。なお当時の陳列館の状況は表34のとおりである。


表34 長野県商品陳列館の姿


写真50 長野県商品陳列館