第一次世界大戦は、大正中期にかけて未曾有(みぞう)の好景気をもたらした。あわせて中央通りの拡張完成をはじめとした道路交通網の充実や交通手段の進歩は商業の飛躍的なのびをもたらした。その状況を職業別人口で対比すると、大正九年(一九二〇)の商業人口は五三三三人で全職業人口の三二・二パーセントであったが、昭和五年(一九三〇)には九〇七八人(二九・四パーセント)に増加した。この間に吉田町をはじめ一町三ヵ村の合併を考慮に入れてもたいへんな増加である。また、商業会議所の選挙有権者数(一定額の所得税納入者)も明治四十年(一九〇七)には二八二人であったものが、大正期をへた昭和五年には一一二一人と、四倍を数える発展ぶりであった。さらに小売りの業種も飛躍的に増加した。明治末期に約五〇種ほどであった業種が、大正四年には六〇種あまりに拡大し、さらに昭和三年には九〇種をこえている。
大正期をへて商店数が増加したものは、印刷・旅館・履物・料理・和洋酒・缶詰・菓子・洋物・洋服・書籍文具・青果・肉・魚などの業種で、都市の商業のいっそうの発展と、そこに住む人びとの生活をささえる商業基盤の充実がみられる。また、夜具布団・請負・運送・農具・折りづめ・料理仕出し・弁当・度量衡・こんにゃく・めん類・種物など、商業分化による業種の拡大もみられた。さらに写真・理髪・蓄音機・西洋料理・電気器具機械・自転車・西洋洗濯・牛乳・ガラス・砂糖・新聞などの、生活の西欧化にともなう新たな業種の出現も特色であった。
長野市中心街の変貌について、明治三十年と大正五年を対比した町別人口の増減をみると、善光寺門前の古くからの商業地域である大門町や東町、西町、旭町などはこの間に人口減少をみているが、その周辺地域の人口の増加が目だっており、はやくもドーナツ化現象を呈している(図11)。とくに長野駅に近い南部の商業地域である石堂町や千歳町の増加はいちじるしい。また南県町や妻科・南県町・箱清水は県庁や学校が集中し、新しい住宅地として発展した。
商業地の発展状況をみると、古くから商業の中心地であった大門町や元善町、横町、東町、東之門町は、依然として商店の集中がいちじるしく、旅館や料理屋、土産(みやげ)店、菓子商などあらゆる種類の商店を集めて、長野市における商業の中心地として位置づけられていた。しかし、大正期には商店数の増加はほとんどみられず、善光寺参詣人への土産を中心に商い、にぎわっていた元善町をのぞいて、商店数は減少している。
これらの地域とは対照的に、周辺の問御所町・西後町・東後町・千歳町・新田町・鶴賀町・南県町などは飛躍的に店舗が拡大している。とくに千歳町は明治四十年には二九店舗であったものが、昭和三年には九三店舗に、新田町は二一店舗から五二店舗に、鶴賀町は一四店舗から二四店舗に、南県町は二店舗から四二店舗に増加するなどいずれも大きなのびをみせている。周辺部に拡大した一回り大きな長野商店街に成長した姿が浮きぼりになる。発展で特色のあるのは石堂町や末広町で、新交通機関の要衝である長野駅の影響をうけて、石堂町が四八店舗から一三五店舗に増加し、旅館・菓子店・魚商などを中心に多種にわたる商店が軒をつらねていたことである。また、末広町はせまい地区に旅館九軒(昭和三年当時)が軒を連ねるなど駅前らしい発展を示している。桜枝町・西之門町などは相かわらず麻商が多く立地し、鬼無里村・戸隠村・柵村など西山地域の谷口集落としての性格を色濃く保ちつづけている。
権堂町は歓楽街としての繁栄をみせ、とくに料理屋が二〇軒、旅館が七軒、魚商六軒、青果商三軒などが特色である。
新興の商業地として異色なのは、東之門から城山にかけての歓楽街の発展である。明治四十年にはまったくみられなかった料理屋が、大正三年には東之門に七軒、城山に八軒になっている。これらは明治四十一年の一府十県連合共進会を契機として生まれたものである。