第一次世界大戦後から慢性化した恐慌は、地方農民や庶民を疲弊(ひへい)させていった。銀行の主な業務は融資・債権の処理・預金であるが、多くの地方銀行が創設されても、この時代の融資や債権の処理の対象は、一部の実業家で、その中心は製糸家であった。また、銀行への預金者も相当の資産家であり、中小商工業者や農民・庶民にとって、銀行はほとんどかかわりがない存在であったともいえよう。こうした時代のなかにあって、金融面からとりわけ中小商工業者や庶民の経済更生に大きな役割を果たしたものが、産業組合のひとつである信用組合であった。
明治三十三年(一九〇〇)、中小産業者救済のために産業組合法が設立された。このとき県下の産業組合数は六であった。以後県下において産業組合は急速に発達していき、明治四十三年には組合数四〇五に達している(『長野県統計書』)。産業組合には、信用、販売、購買、生産、利用などの事業があるが、当初、信用組合は他の業種を兼営できなかった。しかし、明治三十九年の改正以降は、購買や購買販売、さらに購買販売利用を兼営した信用組合が増えていった。このような信用組合も、組合員は農家を主体として成立してきたために、市街地の中小商工業者や庶民はその恩恵をこうむることができにくかった。
大正六年(一九一七)七月、産業組合法の第三次改正がおこなわれ、組合の業務範囲が拡大された。また、金融面では、新たに市街地における信用組合がみとめられた。さらに、特定市街地の信用組合においては、他種事業の兼営が禁止されるかわりに、手形の割引と一定限度内での組合員外貯金がみとめられた。
大正十一年、長野県の米倉竜也産業主事は、丸山弁三郎市長に会うたびに、市街地信用組合設立の必要を申しいれていた。長野市は、大正十二年の町村合併をひかえ世帯数一万二千余戸、人口六万一千余人を擁して市街地化が拡大しつつあり、そのため、中小産業者や庶民のための相互扶助的金融機関設置の必要性と気運は一段と高まっていた。なお、松本ではこの年二月に松本信用組合、上田でも同年十二月には上田信用組合がいち早く設立されていた。
要請をうけて、市長は、大門町の宮下友雄(当時、長野市連合青年会長・長野中学校同窓会長)に設立準備の推進を要請した。こうして、大正十二年三月、長野実業銀行頭取であった小林久七を筆頭に宮下友雄ら一二人による創立準備委員会が発足した。そして、同年四月、若松町の長野市役所本庁舎裏の建物に事務所が開設され、創立に向けて組合員の募集に動きだした。市長から各区長への協力要請や在郷軍人分会の協力もあった。委員は、各町を分担し募集に努力した。
長野市民信用組合設立趣意書によると、同組合は「真に長野市の発展をはかるには共存同栄の精神により本市の商工業の発展をはかり市民全部の生活安定と幸福増進の途を講ずる為に市民を基礎としたる市街地信用組合(別名庶民銀行と称す)を設立する。」とある。そして、差しあたって、組合員二〇〇〇人以上、出資金三〇万円以上を目ざしていた。組合長理事には小林久七、専務理事には宮下友雄があたることになっていた。
栗田勝治ほか二三〇五人による県知事あての「信用組合設立申請書」は、大正十二年七月五日付けで受理され、同七月十八日付けで許可書が出された。その後、新たに長野市に合併した吉田町、芹田、古牧、三輪の各地区にも募集をおこなっていった。創立総代会に向けて各区組合員の総代も選出され、ようやく同年八月二十七日、蔵春閣において創立総代会が催される運びとなった。総代会には、県知事本間利雄、市長丸山弁三郎、県産業主事米倉竜也らが臨席し、一〇二人の総代が出席しておこなわれた。
大正十二年九月一日、有限責任長野市庶民信用組合が開業し、開設準備を進めた事務所が、そのまま事務所として使われた。職員は当初四人、まもなく九人となった。組合の地域は、当初は長野市で、四三の区域に分けられていた。開業時の組合員数は二三六六人、出資金は五〇万三〇〇〇円であった。同年次の全国の一信用組合あたりの組合員数は六一九人、出資金は八万六〇〇〇円であるので、大きな基盤を確保していたといえる。そして、十三年二月二十一日には、事務所を東町一四九番地四号(通称鐘鋳端(かないばた))に移転し、同年五月二十三日には、この土地と建物を長野実業銀行から購入している。
庶民信用組合は、政府・県の監督保護奨励により活動する公益団体ということで所得税や営業税等を課せられなかった。また、政府から低利の資金も受けられた。規約の主な内容はつぎのようであった。
出資金は、一口五〇円で、一組合員は五〇口まで所有できた。総代は、各区ごと二〇人に一人の割合でおいた。信用評定委員は、各区に一人で、総代会において組合員のなかから選出され、年二回の定例会で組合員各自の信用程度表を作成した。貸し付けについては、返済期限を六ヵ月以内(特別な場合は二年)において定め、割賦償還(かっぷしょうかん)とした。貸付金には、定期貸付・割賦貸付・手形貸付・手形割引・当座貯金貸越の五種類があった。貸付では、相当の保証人または担保を要したが、信用程度評定の内規には、「自己ノ分度ヲ守リ勤倹貯蓄ヲ実行スルヤ否ヤ」「酒色ノ為メ素行ヲ紊(みだ)ス風アルヤ否ヤ」「父母ニ孝養ヲ盡(つく)スヤ否ヤ」「配偶者ノ有無、夫婦和合ノ良否」のように個人の生活にかかわるような細かな項目もあった。貯金については、組合員以外も対象としており、普通貯金・当座貯金・定期貯金・据置貯金・定額貯金の五種類があった。
貯金は広く一般からもうける。資金の融通は組合員のみであるので取りあつかいが軽便である。また、加入の払いこみは、一口五円で翌月から一円ずつ払えばよく、利益は組合員に配当される。このような庶民の実情に合った趣旨が受けいれられていき、また、「三記念貯金」(新長野市の建設、信用組合の設立、京浜地方の大震災)や大正十三年の「皇太子御成婚記念貯金」、同信用組合が市民の経済上有益であることや貯金奨励の標語を募った開業一周年記念の懸賞標語募集など、機に臨んだ取りくみも同組合の経営発展に功を奏して、創立後順調に経営をのばしていった。
大正十三年二月には長野市の税収納事務を開始した。そして同月、組合の地域に前年長野市に合併した三ヵ村の古牧・三輪・芹田と上水内郡小田切村大字小鍋の百瀬、湯山、地蔵平を正式に加えた。十四年十二月には、石堂町に第一出張所を開設している。さらに、十五年六月桜枝町に第二出張所を、昭和三年(一九二八)十一月、吉田町の旧町役場跡に設けられていた保育園と同居して第三出張所を開設、昭和四年十一月には、長野県庁舎内にも第四出張所が設けられた。
創業時から五年間で、組合員数は一・五八倍、出資金二・三九倍、預金一九・四二倍、貸出金は八三・八四倍に増加している。