郵便貯金と在来金融

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明治四十一年(一九〇八)に戊申詔書(ぼしんしょうしょ)が公布され、翌年五月、政府は内務・大蔵・逓信(ていしん)の三大臣連名で地方長官(知事)に訓令を発し、おおいに勤倹貯蓄を奨励した。その結果、増加した郵便貯金は、大蔵省による地方債券・農工債券・勧業債券の引き受け、府県農工銀行・産業組合中央金庫への貸し付けを通じて地方事業の発展や災害復旧・社会事業などに運用されるようになり、郵便貯金の地方還元が実現された。

 各県当局は県内郵便貯金高の動向と政府の地方融資額とが連動するものと考え、貯蓄の鼓舞に躍起とならざるを得なかった。その意をうけた上水内郡では各村あてに、勤倹貯蓄の美風を養成し、奢侈(しゃし)(ぜいたく)の風俗をただすよう指示している。その後、第一次世界大戦中の好景気につつまれた農家は自然にぜいたくに流されたため、冗費(じょうひ)(むだ)を節約し、余った資金を積んで生産資金の増殖につとめることがいっそうさけばれた。大正期には県が独自に「入るを計って出ずるを制する」としたちらしをつくり、県民に予算生活の実行と余裕金の貯金をうったえている。

 大戦好景気のため労働者の消費がいちじるしく高まっていたので、多数の労働者を雇用している会社工場にたいしては、貯金の払い戻しにきびしい制限が加えられている規約貯金が勧奨(かんしょう)され、また郵便貯金の「どこの郵便局でも預け入れ、払い戻しができる」などの利便特長が喧伝(けんでん)された。

 埴科郡では、郵便貯金を推進する郡の奨励委員は村長、郵便局長、郡長、郡視学からなっていた。委員はその受けもち町村の委員の会合をはじめとして、多くの会合に出席して勧誘したり、規約貯金組合が成立している場合には健全な発達を督励(とくれい)した。豊栄村牧内青年会貯金部の「共同規約貯金規則」(明治四十三年五月制定)によれば、各人の積みたてた貯金は、満三五歳になって名誉会員に編入されたり、他市町村へ転出したときか、本人の死亡したとき以外は払いもどしができなかった。

 長野郵便局でも貯金奨励のため管内の二等、三等郵便局にたいしてつぎのような訓示を発した。各種の集会にはできるだけ出席し、講話につとめること、効果的な貯金方法として簡易保険を奨励すること、規約・据置・出張取扱貯金などの主旨方法の周知につとめること、会社・工場・団体などにたいして極力、規約貯金を奨励することなどであった。

 郵便規約貯金についての当局の努力の成果を市郡別にみると、その組合員数と貯蓄総額は大正三年(一九一四)十二月末日現在でそれぞれ、更級郡七一七七人・五万二〇七円、埴科郡三六四八人・一万七一七七円、上高井郡四四一三人・一万三四一八円、上水内郡八五五六人・三万八〇四七円、長野市一六一三人・二万七三九〇円となっており、金額において更級郡が、組合員数では上水内郡が目だっている。

 更級郡青木島村大塚郵便局では、三村にまたがる六つの大字を営業区域としていた。大正十二年における区域の戸数と人口はそれぞれ二〇六戸、一一五二人であった。大字大塚には川中島銀行本店が、また隣接の小島田村には更級銀行本店が開設されていた。このような環境のもとで大塚郵便局の年間預け入れ高は表36にみられるように、明治四十一年の二七八九円から大正九年の六〇八七円に増大している。その後は景気の低迷とともに預け入れ額は停滞しているが、一件あたりの平均預け入れ・払い戻し額は増大している。


表36 大塚郵便局の郵便貯金の預け入れ額と払い戻し額 (単位:円)

 郵便貯金はあまりに低利(大正四年三月まで年四・二パーセント)であったので、豊栄村では貯金額の少ない初めのうちは少しでも利息を増やすために六十三銀行松代支店など、銀行あるいは会社に預けいれる傾向があった。また大正二年一月の豊栄村甲区(赤柴)貯金組合では本六工社へ、同村平林青年会貯金会では松代郵便局のほか、村内産業組合にも預けていた。

 ところが、しだいに貯金額が増えてくるなか、郵便局が安全な貯蓄対象としての側面もみられるようになってきた。長野郵便局の大正九年五月中の貯金額は一万二六〇〇円余増えた。金融梗塞(こうそく)、金利高騰のおり、金融業者が貸し出しばかりで預け入れがなくて困っている最中、年四・八パーセントの低利率となっている郵便貯金がこのように増えるのは奇妙であったが、これは繭価格暴落による戦後恐慌(不況)のため、銀行から預金を引きだして安全な郵便貯金に預けがえをしたためであった。


写真57 青木島・大塚両郵便局の諸書類

 郵便貯金業務を統括する地方機関として、長野貯金支局貯金課が大正十年九月二十一日から開業した。前日、東京本局から分送されてきた七二万の貯金原簿・カードが運びこまれた。二四〇人ほどの事務員は、県外の六三人を除いて、長野市(三二人)、上水内郡(二四人)、更級郡(九人)などの出身が多く、また学歴別では高等小学校一六二人、高等女学校一六人、実科高等女学校一一人、その他中学商業の卒業生などによって占められていた。事務員の採用は面接試験だけにとどめ、東京から経験のある熟練女子事務員を連れてきて、当分のあいだ、そろばんの練習をさせていた。

 貯蓄に関しては、こうして上からの直接的な督励策のほかに、つぎのような間接的な方法でもおこなわれた。①労力をもってするもの(貯蓄田、植林、養魚(埴科郡東条村))、②物品をもってするもの(籾(もみ)・繭・麦など、夜業藁(わら)細工)があてはまるが、より間接的なものとしては、①矯風(きょうふう)改良を目的としたもの(納税組合、滞納矯正、虫害駆除、農事改良、副業奨励)、②学校教育、各種団体の指導(夜学会、婦人会、報徳会)もあげられる。

 豊栄村桑根井地区では、在来の「勤倹報徳社」の定款を明治四十三年四月に改訂し、同地区全体に適用するようにした。社員八五人の社団法人で、役員は社長、副社長、理事三人、幹事八人で構成され、任期三年、無給とされている。

 同規則によれば農家の道徳を推しすすめ、勤倹の徳義を奨励し、慈善・公益事業をおこない、実業の発達を目的としている。同社の資金は、①土台金、②善種金、③貯蓄金の三種にわかれている。①は社員入社時の寄付金(三五円)と篤志者の寄付金で同社の基金として銀行預金または有価証券購入にあてられた。②は毎月、社員が集会したとき、節約したものや社員が夜業で得た金銭物品を差しだした篤志金(四七二円)である。この使途は救済慈善献金社費などにあて、余ったものは銀行預金または社員の生産費として貸しだした。③は社員が毎月五円以上貯蓄したもの(一六一七円)などである。貯蓄金は災害をこうむったとき、冠婚葬祭相続不動産購入などにさいして請求があった場合、通帳に記載のある貯蓄額の半分までを払いもどすことができた。貯蓄金は普段、銀行へ預けいれ、または興産の目的をもった有益な事業の資本として貸しだされたが、この場合には担保をとり、保証人を立てるなどして確実な方法をとった。

 在来の金融業のうち、長野市西町のある質屋の「質貸台帳」により貸し付け状況(表37)について、第一次世界大戦をはさんだ大正二年と同十四年を月別に比較してみると、大戦中の物価上昇によって、戦前の貸し付けの月額が数百円強であったのが、戦後は二〇〇〇円ないし三〇〇〇円へと飛躍的に増大している。貸し付けの月別では、もっとも多いのは六月であり、盆暮れ勘定の時期とは一致していない。一件あたり貸し付け額ではおよそ三倍弱になっている。さらに貸し出し額だけでなく、件数は二〇〇件から三〇〇件ちかくへと大幅に増えていることや、貸し出しのうち流質件数と同金額が大幅に減少している。これは市民生活に不可欠な庶民金融としていっそう定着してきたとみることができる。


表37 ある質屋の月別質貸状況

 借り主はおもに市街地在住者(しかも女性)であり、質種(ぐさ)としては衣類・ふとんがほとんどである。大正十四年の帳簿で自転車、ミシン、人力車などがまれに質いれされているが、しばしばみられる金縁(きんぶち)懐中時計または金腕巻き時計で一〇円、銀(ニッケル)縁懐中時計で三~四円がそれぞれ貸し付けられている。貸し付け限度額は各種債券や公債の場合、その額面のちょうど半額である。まれに質種として盗品が持ちこまれるらしく、「警察署提供」との注記も目につく。

 無尽(むじん)・講については、いずれも「講規」にもとづいて運営されているが、大正十三年六月の『庚申講(こうしんこう)連名簿』(長野市箱清水)によれば、一八人の講員が月一回、一円ずつを持ちより、そのうち一〇銭を講金として積みたてた残り全額を競争入札にかけて、高札者に落札された。積立金は毎月、長野郵便局に貯蓄し、世話人が管理した。講員の家族に不幸があった場合、そのなかから葬儀人夫料として三円が給付された。

 明治三十二年九月、更級郡共和村岡田(長野市篠ノ井)では、無尽「岡金融会」が組織された。発起人は岡澤周三郎で、一株または半株をもつ「株主」三一人の計二六株をもって構成されていた。同会規則によれば毎年一回、九月二十六日に希望者による入札がおこなわれ、高札者が翌年(次回)の取番を手中にした。落札金額が高額であるためか、それを受けとるさいの手つづきは厳重で、証書と担保(土地や銀行会社の株券)を入れ、登記をうけるものとされた。

 この無尽は株数により、明治三十二年から大正十三年まで二六回の長期にわたってつづいた。発会当初、六〇〇円から始まった落札価額は毎年二~数パーセントずつ引きあげられ、大正十一年には一二〇〇円の大台にのっている。