中央通りぞいは、古くから善光寺の門前町として大門町・後町・問御所町・新田町・石堂町というように徐々に町が発展したため、道幅の広い大門町北部では五間半(約一〇メートル)あるものの、後町ではわずか二間半(約四・五メートル)しかなく馬車二台が並行できないような狭い場所もあった。そのため交通事故もおき、大正期に増えはじめた自動車は通行禁止になっていた。また、諸行事のさいに人が集まると少しのことで雑踏し、身動きできないことがしばしばあって、市街の狭さを嘆き拡張を訴える声がおこっていた。
大正八年(一九一九)たまたま沿道の有力者が集まって会合を開いており、道路を拡張しなければ商家のみならず長野市の発展は望めないという声が高まり、国道改修実行委員二〇人を選び、十月十六日に牧野元市長に道路改修促進を陳情した。つづいて二十日の市会に西沢菊蔵ほか七人が「市内国道筋街路拡張に関する意見書及び建議書」を提出し、満場一致で承認された。この内容は、二ヵ年継続事業で末広町・鐘鋳(かない)川間を七間(約一二・六メートル)幅に広げ、中央四間(約七・二メートル)を車道に両側一間半(約二・七メートル)を歩道にして、約一〇メートルおきに樹木を植え、橋梁は土橋にする。費用は三七万円というものであった。
これにより市当局から各町へ、改修の場合の道幅についての希望を申しださせたところ、石堂町南は八間、石堂町北は六間で車道と歩道を区別、問御所町新田町は八間で西側へひろめる、という考えであった。この調査結果を参考にして市当局は、大正十年四月までに測量を終え、五月二十三日に計画書を市会に提出した。それは、石堂町から大門町までの中央道路八〇三間(約一四四五メートル)は八間幅(約一四・四メートル)とする、費用は八九万五〇〇〇円、十一年から三年間にわたって工事をする、県からは一〇年間にわたって補助をうけたいとするもので、この案は満場一致で承認された。このときの市長は牧野元死去により三田幸司にかわっていた。市会は翌二十四日、都市委員会設置を決定した。なお、中央道路の名称は、ここを改修することになってから使いはじめたもので、それまではたんに大通りとか各町名で呼んでいた。
大正十年十月二十二日、市は計画書を県に提出して、半額補助の申請をおこなった。計画書をみた竹内内務部長から「市の中央道路は将来、電車を敷設する必要が出てくるであろうから、このさい一歩進めて八間計画を一〇間計画に改正してはどうか。工事費の増加はまぬがれないが、県の調査では八間幅にたいし二一万円を増せば足りると思われる。県も補助支出を覚悟のうえであるから熟考するように」といわれた。市側では即答できないので持ちかえり、検討をおこなった。そして、十一月一日の市会において、将来の電車敷設を考慮して八間幅を一〇間幅に拡張することが得策であること、予算は一四〇万円になることを上程し、①道路は一〇間幅とする、②総工費一三五万三〇〇〇円(うち半額六七万六千余円の県費補助)、③改修年限は十年度から向こう三年間の予定とする、と決定した。
市は半額の県費補助を申請したが、六七万円以上の莫大な補助を長野市の一道路拡張に認めるかどうか不安であった。中南信出身議員が県会でついた主な点は、長野市会が八間計画を立てたのに県が一〇間計画の助言をしたのはなぜか、電車敷設の予定があれば電鉄会社にも負担させるべきではないか、松本・上田・飯田などで同様の計画が立案された場合の補助額はどうなのか、中央道路ぞいの住民の補償・福利をどう考えているかなどであった。県は岡田知事や竹内内務部長が、一〇間幅は国家的にも県的にも広すぎるものではないこと、電車は市営ということもあり得ること、他都市でも同様の計画があれば同じ補助をすること、沿道住民への福利は長野市が十分に考えていることを述べて理解を得て、大正十年十二月八日に県会を通過した。傍聴席にいた多数の市民は議決の瞬間、拍手をして決定を喜んだ。
大正十年十二月二十八日付けで、竹内内務部長から金六七万五〇〇〇円の補助を、大正十一年度は二万円・同十二年度~十九年度は各七万五〇〇〇円、同二十年度は五万五〇〇〇円に割りあてて補助する通知書が届いた。県の補助の決定によって、市理事者および関係者一同は安堵(あんど)の胸をなでおろした。つづいて県から査定設計書が届いて、市をあげてこの大事業に向かってすすむこととなった。さっそく市会を開いて、改修費継続年期および支出方法案をたてた。大正十一年度には四四万四三一五円、同十二年度には五一万五九五一円、同十三年度には五〇万八一三七円の継続支出を決定し、市債六八万円を同時に三ヵ年に分割して借りいれることも決定した。総工費の内訳は表38に示したが、移転料や買収費が約八四パーセントを占めていた。
ときの市会議長松橋久左衛門ほか七人を準備委員として、中央道路改修委員会規定および中央道路改修部職制などについて協議を重ね、成案を得て市会で決定した。ただちに委員(参事会員二、議員五、市民五)・分掌委員(各町から計三八)の選出をすすめ、改修部を水道事務所の二階に設置し、技師の選任、技手・書記などの任命をおこなった。中央道路改修のかなめである技師は、福岡市の道路改修をはじめ各地の土木事業などで力量を示した吉田光を招聘(しょうへい)した。吉田技師は、大正十一年三月五日に着任した。
大正十二年四月、長野市長は丸山弁三郎になった。五月七日競争入札会が開かれ、二〇人ほど集まったなかで開票の結果、東京府の嶋崎福松が九万八千余円で落札人と決定し、十一日に工事契約の締結をした。
起工式は五月十七日、石堂町の起点において県・市の関係者八十余人が参列して挙行した。つぎにつぶれ地・家屋切りとりや移転、電柱その他の支障物の移転の難問題にとりかかった。沿道の払う犠牲の程度の公平を期し、つぶれ地は沿道が道路改修の結果今後長きにわたって利益をうけるという理由から、土地は石堂町起点から大門町終点まですべて平均して、一坪(三・三平方メートル)一〇四円で譲り渡す形式で国に寄付し、家屋切りとりのみに移転料を支出する方針で、地上物件の移転期日をつぎのように決定した。①十二年六月十日までに、石堂町起点から新田町南八幡川まで、②十二年十月三十一日までに、南八幡川から相生町分岐点まで、③十三年六月十日までに、相生町分岐点から大門町終点まで、と三段階にした。移転の進捗状況は表39のようであった。家屋移転補償料については、支障家屋は切りとり料としてつぶれ地内にある部分を調査する、調査した家屋は下家・平屋・二階家・三階家・四階家の五種とする、という二原則のもとに測量調査し、さらに各種別については材料の善悪・構造の優劣・腐朽程度などを考慮して、甲・乙・丙・丁(てい)・戊(ぼ)の五段階に分け、切りとり単価を決定した。補償額の最高は一万三〇〇〇円、最低は一〇〇円くらいであった。
長野市の家は比較的奥行きの深い家が多かったのが幸いして、裏へ下げやすいところが多かったが、なかには大改修によって宅地を失って狭くなったので、沿道には店舗だけとし、家族の平生の生活のために郊外に別の住宅を構えようとするものも出てきた。そのため中央道路改修のあおりを受けて、周辺の土地の価格も高値をよぶようになった。家屋移転改築には、東京方面からいくつもの土木建築請負業者が続々と入りこんで、引き屋・改築・新築などの設計・工事請負をしている。商家の人びとは町内で集まり、各家の経済上のこともあって強制はできないものの、できるだけ道幅一〇間に相応した高さの家を建築すること、火災予防のため庇(ひさし)境を拡張し六〇センチメートルの空間をおくこと、建築は塗り屋または鉄筋コンクリートにするなどを申しあわせた。工事のあいだ、各商店は一部休業するところもあったが、多くは他の場所を選んで借家で商売をしたり、家の切りとられたあとへ露店風の店を出して商いをつづけた。
この中央道路は石堂町起点から大門町終点までの路線を大体一直線とし、起点において見通せば広々とした路面と家屋は一瞬のもとに終点・仁王門までのぞまれる情景を理想とした。それまでは、道路の広狭のふぞろいに加えて、七ヵ所で屈折・湾曲し、傾斜もまちまちであった。そこで道路の縦断勾配(こうばい)は二〇分の一より急な勾配にならないように、高い場所は削って低いところを埋めてでこぼこをなくし、家屋改築の便宜をはかるようにした。
路面築造工事においては、工事用セメントは改修部から嶋崎組に交付し、栗(くり)石・礫(れき)石は犀川(さいがわ)の丹波島付近および郷路(ごうろ)山から、砂利は裾花(すそばな)川から貨物自動車や砂利運搬馬車で運びこんだ。貨物自動車やコンクリートミキサー、六トンのスチームローラーなどの土木機械は市が買いいれて嶋崎組に貸与した。工事は、左側・右側・中央の三部分に分けて道路を掘りあげ、土砂は適当な場所へ搬出して、車道下には栗石を二〇センチメートルくらいの高さに敷きつめ、その上部に礫石をやはり二〇センチメートル厚さに敷き、さらにその上に割栗(わりぐり)石や山砂利を六センチメートル厚さにおいて、歩道両側の止め石敷設の終わるのを待ってローラーをかけ、さらに篩(ふるい)砂利を三回ほどかけて一〇センチメートルほどにし、ローラーをかけながら平らにした。歩道は各町で舗装材料(花崗石板・鉄れんが・混凝土板など)を選択して、それぞれ特徴ある歩道となった。
中央道路を横切る鐘鋳(かない)川・八幡川・古川などにかかる橋は五橋ある。これらの川はいずれも大切な用水堰(せぎ)のため、用水組合にはかったうえで五月と十月に二回に分けて都合のよいときに停水して作業をした。橋材はいずれも鉄筋コンクリートで橋上はアスファルトで固め、電車敷設にも耐えるようにした。そして、これらの橋名は各関係町にはかって、末広橋・石堂橋・蓬莱(ほうらい)橋・鶴賀橋・初音(はつね)橋と命名した。
この工事中の支障となった大きなものとしては、まず工事が始まってまもない九月一日の関東大震災によってセメントなどの諸材料の供給が途だえ、他から集めるのに苦労したうえ、諸材料の価格高騰に悩まされたこと、長野郵便局の移転先と電柱の移転条件がまとまらず、逓信省との折衝がぎりぎりまでつづいたこと、善光寺御開帳が十三年三月から始まることになっていたので、予定どおりおこなうか一年延期するかもめたうえ、工事のまっさいちゅうに予定どおりおこなったことなどであった。また、契約では、全工事は十四年三月三十一日をもって竣工になっていたが、冬季のコンクリート工事の不安と工事中断のおそれ、歳末をひかえての沿道商家への悪影響が心配されたため、市は十一月末日までに完成すれば一万円の奨励金をだすことに決定した。これが効を奏して、昼夜兼行の工事遂行によって、三ヵ年にわたる大事業も竣工をみることとなった。なお、街路樹はプラタナスに決定し、名古屋から六〇〇本購入して植えつけた。
竣工式は、大正十三年十二月五日に終点である仁王門前で挙行し、式終了後は城山グラウンドで祝賀会を催し、八〇〇人の招待者はここに会して竣工を祝った。市民は俄物(にわかもの)・屋台を出して祝意をあらわし、夜は恵比寿講におとらない煙火を打ちあげた。
なお、中央道路への電車敷設は、善光寺参詣者が停車場から善光寺へ運びさられると、沿道の商家の死活問題になること、一直線になった道路は善光寺境内の延長と考えて公園道路のように美的価値を高めたいことなどの理由から、電車不要論が強まって保留となった。