明治時代において道路は国県道および里道に区別されていたが、大正八年(一九一九)四月十一日道路法が制定されて道路の種類は国道・府県道・郡道・市道・町村道の五種になり、それぞれ認定基準が定められた。
当時、長野市に関係する国道は一〇号線(元五号線)で、丹波島橋から中御所踏切をへて、石堂町・問御所・後町・大門町を貫通し、善光寺前(道路元標前)から右折して東横町をへて、さらに左折して岩石町・新町を通過して三輪村に通じていた。大正三年から国道拡幅について市区改正委員会などで論議されていたが、水道工事優先で費用の負担ができずに先送りとなった。十二年から十三年にかけての中央道路(中央通り)の改修で一部手がつけられたが、大正町(県庁前)から丹波島橋にいたる二二九五メートルは昭和六年(一九三一)に、南県町新田町線三九二メートルは同九年に都市計画事業の一環として拡幅整備された。
現長野市域に関係する府県道は、長野甲府線・長野飯田線・長野福島線・長野大町線・長野須坂線・長野中野線・長野松代線・長野停車場線・安茂里長野停車場線・吉田停車場線・屋代松代線・松代須坂線であった。大正十二年三月三十一日郡制廃止にともない、関係の郡道のなかで府県道に編入されたものは長野戸隠線・長野井上線・長野綿内線・吉田綿内線・長野保科線・吉田須坂線・長野柏原線・篠ノ井麻績線であり、他の郡道は町村道となった。これらの道路のなかで、長野須坂線の村山橋は道路と鉄道線路の併用計画で大正十五年に完成し、長野飯田線の長野松本間のいわゆる犀川線は同十五年から昭和十二年にかけて改修工事がおこなわれた。
長野市道として大正九年四月に認定した路線総延長は五〇・一七一キロメートルであったが、十二年七月一日吉田町・三輪村・芹田村・古牧村の市への合併により、この町村道を市道に移管したところ総延長は五一一・九二二キロメートルでほぼ一〇倍となった。明治四十年(一九〇七)から大正十五年までの長野市の道路の新設・改修の状況は表40のようである。これによれば大正初期から新設道路の増加が目だつ。当時の市区改正委員会では、長野市の未来の発展と繁栄のためには道路整備が必要であると考え、市内三七線を一期・二期に分けて道路の新設・改修を立案し、道路改修委員会を組織して県の補助を得つつ道路整備をすすめていった。大正十年以降は周辺町村との合併問題もからんで、戸隠・坂中・古牧・朝陽・三輪などの周辺農山村各方面と結ぶ道路網の整備がおこなわれた。
長野市周辺の村々でも道路整備がすすめられた。柳原村では明治四十四年から県道須坂線(幅四・五メートル・長さ八五〇メートル)の改修をはじめ、小田切村では大正四年に新橋地区の落石防止の道路改修をおこない、大豆島(まめじま)村では大正五年に長野市につながる道路を新設し、同年に綿内村では町組・町田間を改修した。稲里村・御厨(みくりや)村・東福寺村では大正元年に三ヵ村道路組合を組織して、稲里村下氷鉋(しもひがの)善導寺前から御厨村をへて東福寺下居までの、幅三・六メートル・長さ約二キロメートルの直通道路を組合里道として新設した。長野保科線では大正十五年に千曲川堤防上を迂回(うかい)していたのを、牛島北沖・牛島間九五〇メートルを開削しての新設道路に着手した。
篠ノ井町周辺では、明治二十六年の篠ノ井線開通に加えて三十五年に中央線が塩尻まで開通すると、にわかに交通の要地となって新設の駅前通りに商店・旅館・運送業者などが進出してきた。さらに大正二年(一九一三)に郡役所が旧篠ノ井から移転してきてからは、更級郡の中心地として郡下各地への道路整備がつづけられた。二年から三年にかけて、小松原方面の共和線(一一三八メートル)、東方の真島線(一六九〇メートル)、八幡上山田方面の六ヶ郷線、石川安庭方面の西山線、松代方面の松代新道など、馬車や人力車の通れる道として整備された。
松代地方では信越線からはずれたため、屋代・篠ノ井・長野と結ぶ道路および真田・上田につながる地蔵峠道の整備に力がそそがれた。また、河東線開通の時期は、表41に示したように停車場と結ぶ町内の道の新設・改修が盛んにおこなわれた。屋代からの県道谷街道は、雨宮-清野-松代(馬喰町・紙屋町・紺屋町・伊勢町・中町・荒神町)-東寺尾-鳥打峠-大室-川田と須坂方面に抜けていく道であるが、鳥打峠の坂道が交通運輸上の難所であった。とくに雨天のぬかるみや冬季の凍結は、人馬を悩ませた。明治四十五年寺尾村選出郡会議員小林唯右衛門・丸山荘三郎が提唱して、県道谷街道一部変更の建議案意見書を郡会で可決して県知事に提出した。それは鳥打峠の山麓(さんろく)にそい、東寺尾-柴-小島田(おしまだ)-牧島-大室滝の口にて合するというものである。すでに里道としては開かれ盛んに利用されていた。大正六年まで毎年郡会決議を知事に提出していたところ、七年になってその要求がみとめられ、変更工事は八年から着手して十一年に完成し、ここが県道となり峠道が里道あつかいとなった。県道長野松代線は、長野が県庁所在地となってから政治経済上の関係が深まり、従来は東寺尾鳥打峠下左折-西寺尾-(千曲川)-丹波島宿西-(犀川)-長野と曲折の多いものであったのを、明治四十五年県会議員矢沢頼道の尽力で、荒神町-西寺尾-寺尾橋(のち川中島橋)-野池-丹波島-長野の、現在の直線的な道が県道として開かれた。松代真田線は、大正九年に郡道に、十二年に県道に編入されたが、改修は遅れて十五年に平林まで、昭和二年に関屋にいたる関屋川東岸の道路が貫通竣工した。松代篠ノ井間は従来旧篠ノ井や塩崎への道路はあったが篠ノ井駅との連絡がなかったため、大正二年篠ノ井に郡役所設置とともに旭町経由の新道がつくられ直接松代とつながることになった。これらの道路を結ぶ千曲川・犀川の橋や渡船場は、表42のようにまだ公営(一村または二村共同などの経営)や私営の有料のものが残っていた。