河東鉄道と長野電気鉄道の開業

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明治二十一年(一八八八)十二月に信越線の直江津-軽井沢間が開通し、同二十六年四月には碓氷峠のアプト式線路が完成して、長野-東京間は全通した。鉄道敷設運動をしたものの、鉄道敷設に地理的・経済的に不利な条件であったため、この信越線からはずれた千曲川の東側のいわゆる河東地方の人びとは失望し、生活や地域の発展のうえでの大きな不安を感じていた。

 明治三十二年には須坂町の製糸業者越寿三郎・牧茂助らが屋代-須坂間の鉄道馬車を計画し、翌三十三年には松代町の矢沢頼道、西条村の岸田佐太郎らが、永島忠治郎・野中高之助・林源吉・大日方大助・金箱勘蔵らとともに屋代-松代間の鉄道馬車計画をすすめたが、いずれも架橋・道路拡幅の困難や経済上の問題などで、途中で立ちぎえとなってしまった。

 明治四十三年十二月、県会議員矢沢頼道・勝山直久・横田茂守・緑川与一郎・市川治兵衛・池田秀雄の六人が、「屋代もしくは篠ノ井より分岐し、松代・須坂・中野等をへて、越後(新潟県)長岡市に達する鉄道を敷設せられたし」の意見書を提出し、県会で多くの賛成をえて宮沢長治議長から内務大臣に提出した。このことは河東地方の人びとに好感をもって受けとめられ、各地方や各団体で鉄道に関する研究がはじまった。

 松代では十二月二十日、町議会終了後協議会を開き、製糸業地として殖産興業の発展上交通機関の完成を期するため、緊急な問題として一致協力して運動することを確認した。翌四十四年一月一日、松代公会堂での名刺交歓会のあと、ただちに臨時町民大会に切りかえ、鉄道敷設運動に尽力することを決議し、矢沢頼道・大里忠一郎・羽田桂之進・野中高之助・永島政太郎・小山鶴太郎・土屋三喜治・窪田栄三郎・中村利啓・大里孝・伴雄三郎・永島宗太の一二人を委員に指名して準備をすすめることとした。つづいて同年二月六日、松代に「信越河東線期成同盟会」が結成された。そして二月の埴科郡会では野中・伴・窪田・金箱・伊東・渡辺六議員提出の「河東線敷設建議」が決議され、県知事および鉄道院に建議された。また、三月には埴科・上高井・下高井・下水内四郡の代表者が須坂の桐屋旅館に集まり、「信越河東線期成同盟会専任委員会」を開いて河東線敷設の請願書を作成し、新潟三郡・本県四郡の郡会議長・関係町村長の連署で衆議院・貴族院へ提出した。

 大正元年(一九一二)十月二十六日、松代梅田屋に町長矢沢頼道・助役中村利啓・六文銭社長小山鶴太郎・窪田館社長窪田栄三郎・本六工社社長土屋三喜治・六十三銀行支店長永島政太郎・郡会議員伴雄三郎・町会議員永島宗太が集まって、松代-屋代間または松代-篠ノ井間の軽便鉄道出願の協議をした。そして十一月二十二日「松代軽便鉄道期成同盟会第一回実行委員会」を開き、松代-屋代間をすすめることとした。同じころ、東京市の杉井組が同線の軽便鉄道敷設の出願をしていたので、同社長石田伝衛と矢沢頼道との懇談がおこなわれた。翌二年二月、杉井組と松代軽便鉄道期成同盟会が結び、杉井組ならびに牧村真ほか六人の出願が「本年十二月六日までに工事施工願を提出」すべき条件で認可された。ところが杉井組は工事施工願を期限までに出せなくなり、三年間の延期願を提出する始末となってついに着工できなかった。

 大正五年十一月四日長野・須坂の主だったものが集まり、信越線と接続する支線連絡方法として、①篠ノ井-松代、②長野-吉田-須坂-小布施-中野、③豊野-中野-平穏温泉、などについて協議し、翌六年三月十一日長野市青雲亭に長野側から飯島政治・小林陽・花岡次郎・牧野元・諏訪部庄左衛門・西沢喜太郎・鈴木鶴治・小林久七・神津藤平・宮沢清兵衛、須坂側から越寿三郎・田中新十郎らが集まって「北信軽便鉄道敷設発起会」を開いて協議し、同三十日には一〇〇株以上の大株主三〇人が「北信鉄道株式会社協議会」において越寿三郎を委員長に一二人の創立委員を選んだ。ところが四月には総選挙にからむ内部の対立激化から北信鉄道事業は挫折した。

 つぎに河東鉄道敷設熱に火がついたのは、第一次世界大戦の経済活況を背景にした大正八年のことである。十月十九日屋代に関係者百余人が集まって「信越河東鉄道期成同盟会」の発会式をおこなった。会長小山田栄太郎、副会長若林忠之助、幹事に関係四郡県会議員・郡会議員一一人、常任幹事に関係四郡町村長から八人、相談役に有力者六人を選び、われわれが多年熱望した河東鉄道速成を期するため同志は結束してあたる、という内容の決議文を採択して、積極的な鉄道敷設運動をはじめた。ちょうどこのころ、佐久鉄道株式会社が河東鉄道敷設計画を発表した。同年十一月二十三日佐久鉄道の大井社長・木内常務取締役が松代町に来て、同盟会の矢沢頼道町長ら幹部と佐久鉄道支線河東鉄道敷設について懇談し、さらに同月二十九日長野市富貴楼に、埴科・上高井・下高井・下水内の県会議員・有力者・小田切代議士を招待して、河東鉄道敷設計画に関しての了解をもとめた。それは屋代-松代-須坂-小布施-飯山-十日町という路線で、一期工事は屋代から下高井七ヶ巻まで、資本金五〇〇万株募集して別会社を創立するというものであった。ここにおいて両者は急接近し、翌三十日に河東鉄道期成同盟会が開かれ、九年一月十八日には佐久鉄道と期成同盟会の第一回協議会がもたれ、二十二日には両者が集まって、会社名称・資本金・役員数から発起人総代・創立委員・株式募集期日・停車場および停留所の敷地寄付などが決められ、一気に鉄道敷設の機運が熟した。

 大正九年五月三十日長野市城山館において、河東鉄道株式会社の創立総会が開かれ、ここで正式に佐久鉄道から鉄道敷設権を譲りうけ、役員を表43のように決めた。同年六月十二日には、新しい河東鉄道株式会社が正式に発足した。一〇万株のうち一般公募四万株も順調で、用地買収も地元町村や地主の積極的な協力で順調にすすんだ。七月には屋代-須坂間の鉄道敷設権を譲り受け申請、須坂-七ヶ巻間と七ヶ巻-十日町間ならびに中野-平穏間の鉄道敷設免許申請を鉄道大臣に申請し、屋代-須坂間の鉄道敷設については九月六日に認可を受けた。


写真63 河東鉄道設立の関係書類
(長野電鉄所蔵)


表43 河東鉄道会社役員 (大正9年5月30日選任)

 創立一周年の大正十年五月三十日一一時から、屋代駅構内で起工式をおこなった。第一期線の屋代-須坂間二四・四キロメートルは六月一日屋代駅整地工事からはじまり、北山・離山・関崎の三トンネルや百々川・鮎川・保科川などの架橋、井上の泥湿地の線路敷埋めたてなど数多くの難所をひかえていたが、佐久鉄道からの人の応援もうけて、翌十一年六月七日ほぼ一年間で完成することができた。

 六月十日八時三〇分、会社関係者・来賓で満員の列車が屋代駅を出発し、各駅で大歓迎をうけつつ一〇時ころ須坂に着いた。駅構内で開通祝賀式をおこない、式後園遊会も開いて町あげての祝賀行事は夜までつづいた。重役のひとりである松代の矢沢頼道は、日記につぎのように記している。

十日 曇後雨

一、本日午前十時、須坂町に於いて河東鉄道開通式を挙行に付き参列、十一時頃より雨降り来り、須坂町協賛会主催の園遊会も雨のため殆ど丸潰れとなれり。午後六時よりは松代町公会堂に於て、鉄道会社社長神津藤平松代町協賛会長矢沢頼道主催の夜会を開催す。雨全くはれず、故に招待員百八十名の内百二十名ほどの出席なり。宴会場の装飾万端遺漏なく、すこぶる盛会なりし。午後八時散会。

十一日 晴

一、午後八時より、鉄道開通祝意を表する為め、本町協賛会主催青年会計画の提灯行列挙行。停車場集合、最後同所にて解散す。同夜七寸以下の煙火打ち上げり

 松代町では全部軒提灯(ちょうちん)を点じ、駅前の大アーチにはイルミネーション、河東鉄道出張所には投光器を放って祝い、夜会に集う人々を迎えた。十一日の提灯行列は、駅-殿町-清須町-馬喰町-下田町-肴町-鍛冶町-駅というコースでおこなわれ、このほかに伊勢町の汽車・田町の大小の達磨(だるま)・鍛冶町の大灯籠(とうろう)、改良組のひょっとこ行列などがにぎわいを盛りあげた。近隣の各製糸会社は臨時休業にして開通を祝った。


写真64 「河東鉄道線路案内 附長野電気鉄道」図(部分)
(矢沢彬所蔵)

 この日から営業にはいった屋代-須坂線の停車場は屋代・松代・金井山・町川田(のち信濃川田)・綿内・須坂の六駅、停留場は東屋代・雨宮・岩野・井上の四駅で、蒸気機関車に引かれた列車は一日七往復片道一時間二四分で運転した。旅客運賃は二本建てで、屋代-松代間は並等二四銭・特等(大正十四年八月廃止)三六銭であった。この開通により、上田-須坂直通の生繭列車も走るようになり、繭・生糸・硫黄・石炭・薪炭・竹細工・蔓細工・日用雑貨の搬出入経路を大きくかえたので、繁栄をつづけていた吉田-須坂ルートは打撃を受けてさびれてしまった。

 第二期線の須坂-中野間一三・一キロメートルは、大正十一年七月十日に起工し翌年三月二十日竣工し、第三期線の中野-木島間一二・九キロメートルは、大正十三年八月に起工し翌年七月十二日竣工して営業を開始した。

 河東鉄道では創立当初から電化を考えており、十年七月二十九日に電化比較調査機関を発足させて、敷設・車両などに将来を見越した方策をとっていた。十四年七月十五日に電化工事の認可をうけて時代の最先端をいく設備を配慮した工事に着手するとともに、十四年に下高井郡上木島村樽川に二つの発電所建設を計画し、第一発電所(最大出力六五〇キロワット・常時出力二八〇キロワット)を十五年一月に完成させた。そして、一月十四日に試運転を開始し、二十八日には電化による運行の準備を整えた。二月六日の時刻改正で、二時間四〇分かかっていた屋代-木島間は一時間四〇分に短縮されて、一時間のスピードアップがはかられ、電化の成果の大きいことを示した。

 河東鉄道の電化とかかわりの深い長野電気鉄道は、大正十年長野市都市計画による吉田町・芹田村・三輪村・古牧村との合併問題のなかで、吉田町が合併条件のひとつとして市街電車敷設を要求したことに始まった。長野市と吉田町と取りかわした文書には、十一年十月起工して一年間で完成すると書かれていた。ところが長野市側では、市営か私設経営か、吉田町で止めるか須坂まで延長するか、起点は長野停車場にするか県庁東側にするかなどの論議でてまどり、中央通りの改修や緊縮財政の政府方針の影響もあって、鉄道付設許可申請にいたらなかった。ようやく大正十一年九月市は私設経営と決定し、神津藤平を発起人総代として、資本金二五〇万円(市一五〇万円・町村一〇〇万円)の「長野電気軌道株式会社」を発足させ、内務省・鉄道省へ申請をした。しかし、こうした電車敷設遅延にいらだった吉田町の有志が、十二年一月に合併延期の陳情を本間県知事におこなうということまでおこったので、翌月には吉田町への丸山市長の説明や市長と神津藤平との懇談がもたれた。同月、市協議会では地方鉄道条例による電車敷設にたいしてとして、一五万円の補助決定がなされ、翌月には市議会で補助は一七万六〇〇〇円に増額された。この補助はのちに二〇万円に増額され、十二年から昭和七年まで一〇年間にわたって会社に支出された。

 大正十二年四月三十日の「長野須坂間電車敷設」申請は、同年六月二十二日に許可指令が出た。五日後の六月二十七日長野市城山館で長野市電車会社発起人会(西沢喜太郎ほか四十余人)が開かれ、株式二〇〇万円の募集方法や会社の基本構想を決めた。同年十一月二十五日、城山館で「長野電気鉄道株式会社」創立総会が開かれ、表44のように社長神津藤平ほか取締役一一人・監査役九人・相談役一一人が選ばれ、ここに資本金二〇〇万円・総株数四万株の会社が発足した。


表44 長野電気鉄道会社役員 (大正12.11.25選任)

 測量は大正十一年十一月から京浜電車敷設にかかわった生駒技師を招いて、長野-吉田-須坂の実測調査をすすめていたが、十二年七月からは東京の磯貝工務店によって測量図がつくられた。十三年四月からの路線用地の買収は、関係市町村の協力もあって長野側と須坂側から着々とすすめられた。十一月十六日に長野-須坂線の起工式が吉田停車場予定地で盛大におこなわれた。線路の敷設・駅舎の建築・電線の架設などは順調に進んだが、最大の難関は千曲川への架橋であった。

 全長八一四メートル・幅一〇・八五メートルの村山橋は、工費節減につながる道路と鉄道線路の併用という計画で、県と会社が歩みより、予算は県六〇パーセント・会社四〇パーセントの負担とした。十三年五月三十一日に県と会社の共同架橋が認可となった。緊縮財政下の県の事業のなかで、犀川線の道路や架橋を遅らせての村山架橋は、一部県会議員の反発をまねいたが、知事の断行する熱意によって例外適用がなされた。同年十二月十三日、橋脚の建設は京都の矢野組が請けおい、鉄橋架設工事は川崎造船所が請けおって架橋工事が始まった。着工一年五ヵ月後の十五年四月完成し、六月二十八日には権堂-須坂間の開通の運びとなった。


写真65 道路と線路共用の村山橋
(『思い出のアルバム長野』より)

 権堂止まりとなったのは、長野停車場とつなぐ構想の路線が鍋屋田小学校運動場にかかることから問題となり、教育と交通の軽重を問う論議となり、賛成反対入りみだれて紛糾し妥協困難になったためである。この権堂-長野間の問題が解決して、電車の通ったのは昭和三年(一九二八)六月二十四日のことであった。

 長野電気鉄道開通式は大正十五年六月二十八日、権堂駅構内で来賓として鉄道大臣代理伊藤課長・梅谷知事・丸山長野市長をはじめ一二〇人ほどの臨席をえて盛大に挙行した。芸妓の手踊りや大神楽を演じ、花火一五〇発を打ちあげて、全市をあげての祭りで開通を祝った。このあと、来賓や関係者は電車四台に分乗して須坂に向かい、芝宮公園と臥竜山の園遊会に臨んだ。電車は一日三〇往復、権堂-善光寺下-本郷-桐原-吉田町-朝陽-柳原-村山-日野-須坂を三〇~三一分で走った。この開通により、長野市では権堂駅を中心にした市の東部の発展が急速にすすみ、新築家屋が増えるとともに地価も高騰した。


写真66 大正15年6月長野電気鉄道開通祝いの権堂駅
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 この年に長沼村では柳原-村山-大町-穂保-津野-赤沼-豊野という路線の、支線運動を展開したが実現にはいたらなかった。また、会社は善光寺平環状線鉄道の構想をもって、屋代-八幡間、長野-更級村(川中島線)の申請をしたが、これは昭和恐慌にはばまれて行きづまってしまった。

 開通に先だって大正十五年二月長野市商工連合会のなかから、長野電気鉄道株式会社(資本金二〇〇万円)と河東鉄道株式会社(資本金五〇〇万円)が合併したらどうかという声が高まり、会長小林久七が両社合併要望書を出した。両社の社長は神津藤平であり、重役にも兼務の人がおり、社屋は同じ場所にあり、長野電気鉄道の業務は河東鉄道の助けをかりているという実態から、合併の障害は少なかった。三月十一日両社の重役間で合併契約が締結され、三月三十日長野市城山館で、午前一〇時三〇分から長野電気鉄道、午後一時四〇分から河東鉄道それぞれ臨時株主総会を開き、満場一致で合併賛成を得た。そして新聞に「両会社臨時株主総会において本年七月一日を以て長野電気鉄道株式会社を河東鉄道株式会社に合併する事に決議致候」と合併公告を出し、翌三十一日ただちに鉄道大臣に合併認可申請をおこない、四月九日認可となった。九月三十日の株主総会で社名を「長野電鉄株式会社」と改められた。