明治時代から近代的輸送機関として乗合馬車や人力車が利用されていたが、大正前期には自動車が現長野市域に登場した。とくに鉄道から離れた地域の人びとの必要に迫られて、長野市周辺部からの登場が早かった。
大正五年(一九一六)五月に北安曇郡大町の吉田幸作が乗合自動車の営業許可を得て、長野-高府間に乗合自動車の運行を開始した。翌年には鎌倉太弥治(大正十四年からは坂戸元一)が事業を受けついで南小川村高府に高府自動車商会を設立し、地域住民の大事な足となった。長野-高府間の運賃は大正十五年では一円三三銭(十二月~三月一円五七銭)であった。この会社は逓信省から、長野・七二会・中条・高府各郵便局の郵便物逓送の指令を受けて、郵便・新聞の配送もして沿線住民の便宜をはかった。高府自動車商会は大正十三年二月十四日に長野-安茂里-南小川-大町の運行、五月一日に長野-川中島-高府の運行を開始している。高府自動車商会は昭和九年(一九三四)二月十三日、川中島自動車株式会社に合併した。
大正七年九月三十日に、埴科郡西条村の池田荘三は自動車運輸の許可をうけて北信自動車馬車株式会社(十五年には北信自動車株式会社、代表小泉重治郎となる)を設立して、従来青木喜源太が馬車営業をしていた松代町五二一番地(今の川中島バス発着所)に営業所を置き、乗客定員六人の自動車一台で松代町-篠ノ井町間の営業を開始した。この自動車は車体の色から、「黄バス」とよばれた。会社名でわかるように、乗合馬車営業と自動車営業を兼ねていたのである。乗合馬車は大正末期までつづいた。大正八年九月二十五日許可の乗合馬車賃は表45のようであった。
北信自動車馬車株式会社は大正八年十二月には、乗合自動車の営業区域を松代町-青木島間に広げ、九年十月篠ノ井駅構内で一台による貸切自動車営業をはじめ、十年三月には乗合自動車を長野市石堂町まで延長した。この年一日の運転回数は篠ノ井まで六往復、長野まで四往復であった。料金は表46のように長野まで四五銭で、馬車の料金とほとんどかわらない。九年四月三日付けの『信毎』は「篠ノ井松代間自動車不足」と題して「篠ノ井松代間の自動車および乗合馬車不足のため、一日の如き天気悪く道路泥濘(でいねい)にて歩行困難の時には、いずれも時間前に満員となり、つぎからつぎへと順送りとなるため、乗客は非常に困却する。松代の自動車会社でもお客とお客との間に、我が先だイヤ俺の方が早く来たという争いが起こるのを、先着順に番号札を渡して、ようやくこの争いを防いでいるが、一時間も前に会社に至っても、尚次へ回ることが往々ある。篠ノ井松代間が何故にかくの如く乗客で混雑するかという一因は、松代長野間に乗合自動車がなくまた乗合馬車も少ないのにある。時間の関係上松代から一旦篠ノ井に出て、下りの汽車に乗る方が便宜であるためだ」と報じていて、河東線開通前の松代地方の困難な交通事情を伝えている。その後、会社は地元の要望にこたえて自動車を購入し、松代-長野間の自動車運行を始めた。
なお、当時人力車の松代-長野間の料金は、八田彦次郎日記の大正七年十二月十八日の項に「夕、青雲亭にて晩餐会あり、出席す。而して八時前同所を立ち、綱付人力車にて帰松す。宅へ着きしは九時前、車代二円五〇銭を遣わす」、同八年八月三日の項に「本日、河東鉄道株式会社にて重役会開催。(中略)後、晩餐あり。夜七時四〇分出立、待たせ置きたる人力車にて帰宅す。車代四円遣わす」とあるから、遠距離の場合は、人力車は馬車や自動車にくらべて料金が五~九倍にもなる割高の交通機関であり、経済的にゆとりのあるものの乗り物になっていた。また、同八年五月三十日の項に「午後、長野城山館にて河東鉄道株式会社創立総会あり。(中略)諸氏と富貴楼へ赴き、懇親会をなす。而して松代より自動車を呼び寄せ、一同引上げ帰松す。帰宅せしは一〇時なり」とある。北信自動車馬車株式会社は、大正十年三月の長野市石堂町までの乗合自動車営業前に、貸切自動車(現在のタクシー同様)としての役割も果たしていた。同十四年十月には長野-松代間は、松代発長野行きが午前七時から午後五時まで一時間ごと、長野発松代行きが午前八時から午後六時まで一時間ごとの、計一一往復の運行がおこなわれていた。北信自動車株式会社は、戦争中の国の施策によって昭和十五年(一九四〇)十二月二十六日の川中島自動車株式会社との合併まで、更埴地方の大事な交通を担っていたのである。
大正十一年に更級郡更府村の新井幸之助は宇都宮信衛とともに新井自動車会社をおこし、八幡(稲荷山停車場)-塩崎間、八幡-埴生(屋代停車場)間の営業を開始し、翌年に上山田まで延長し、さらに十四年には姨捨(おばすて)まで運行を広げた。新井自動車も昭和十五年に、川中島自動車に合併した。
長野市内では、大正十二年六月に宇都宮信衛が宇都宮乗用自動車商会を設立して、南県町を基点に乗合自動車営業を開始した。大正末期から昭和初期にかけては、市内の自動車は長野駅の乗降客を中心に動き、①駅-千歳町-権堂-三輪-吉田、②駅-中央通り-大門町、③駅-県町通り-岩石町、というコースがあった。市内には乗合自動車のほかに末広自動車(末広町)・長野自動車(県町)・ゴンドウ自動車(権堂町)・曙自動車(権堂町)・畑山自動車(上千歳町)などの小規模の自動車会社があって、貸し切り専門に運転されていた。十三年には中央道路が一〇間幅で完成するが、この道路の乗合バス営業をめぐって長野市営バス計画が浮上して、宇都宮乗用自動車との権利委譲問題が生まれた。そこへ北安大町の吉田幸作・県町の久保村修一などが市内バス営業を申請してきて紛糾したが、五月にいたって電車敷設問題もからんで、市営バス営業計画は中止となった。
市外とは、①長野-須坂、②長野-川中島-戸倉-上山田、③長野-松代、④長野-大町、⑤長野-鬼無里などで、いくつかの会社が運行をしていた。長野-須坂間は大正十三年には、宇都宮乗用自動車が一〇往復運行していた。また、長野-鬼無里間の場合は、昭和三年九月三十日から裾花自動車会社(宇都宮信衛と鬼無里村和田和馬が創立)が営業を始めたもので、一日五往復、運賃は茂菅まで一〇銭、善光寺温泉まで三五銭・土合まで一円・鬼無里まで一円六〇銭であった。裾花自動車は昭和八年には長野-戸隠宝光社間、柏原-戸隠豊岡間の運行も始めた。しかし、翌九年十月一日には、川中島自動車に合併した。
大正十四年十二月二十三日には、三十余人の自動車関係業者が長野警察署に集まって、長野県自動車協会長野支会を創立し、会長に福沢長野署長を推薦して、会則・予算などを決め、発会式をおこなっている。
大正十四年十二月二十五日に、宇都宮信衛が川中島村で川中島自動車株式会社の自動車営業を申請し、翌十五年三月二十日に許可を受け、六人乗り一六台・一〇人乗り八両計二四台の自動車を用意して、四路線の営業を開始した。それは①川中島村-七二会村間(県道川中島停留所小松原線・篠ノ井安茂里線・長野大町線)六人乗りで六往復、②篠ノ井駅-水内村新町間(県道松代篠ノ井線・篠ノ井水内線)六人乗りで五往復、③塩崎村-信田村田の口間を六人乗りで三往復、④長野市淀ケ橋-上山田村上山田間を一〇人乗りおよび六人乗りで八往復であり、運賃は夏期の場合は川中島-笹平間三四銭・篠ノ井-新町間一円四〇銭・稲荷山-田の口間二五銭・長野-上山田間一円五二銭であった。
大正十五年四月四日、大型幌自動車五両・赤塗り箱型自動車五両の一〇両に分乗した会社関係者や招待者の試乗を上山田までおこなった。この初乗りに参加した『信毎』記者は、つぎのように報じている。「四日の折から晴れ上がった昼少し前、春の光の中に赤く黒く延々長蛇の列を作って行く、試乗自動車の乗心地も格別な味をあじわう。国道十号線を真直に長野から篠ノ井に来て、旧篠ノ井追分五区停留所から県道五号線に入って、塩崎村から稲荷山を経て、さらに八幡の八幡様の傍から一路上山田に入る。長蛇の自動車に沿道の人民、スハ何事ぞとはだしで飛び出す。県知事様のお通りでもかくやと思わせる自動車の行列に再び驚く。延長十九哩(マイル)その間に十ヶ所の停留所を設けて、起点より約一時間十分を要する。途中下車の便を計ったり、八幡から屋代へ行く自動車と連絡を取って、乗客に対する切符購入の煩雑を避けて貰ったら、えらい便利だと思った。午後一時三十分、試験を終えて上山田温泉柏屋旅館に於ける招宴に臨み、午後六時頃散会した。」
さらに同年五月十五日に篠ノ井駅-田ノ口-新町間、稲荷山-田ノ口-新町間の乗合運行を始め、翌昭和二年九月二十日に長野-高府間、同年十一月一日に川中島駅-小松原-篠ノ井駅間、上山田-姨捨間の運行を開始した。同三年六月十六日には長野-真島-篠ノ井駅間・長野-下氷鉋-川中島駅間を運行して、しだいに路線を広げていった。路線拡張とともに路線各社との競合路線が増加して、乗客の奪いあいや運賃などをめぐって紛糾もおこった。こうしたなかで川中島自動車株式会社は中小の自動車会社を統合・合併して、昭和十五年には北信一帯のバス路線の大部分を占めるにいたった。
川中島自動車株式会社は大正十四年の乗合自動車のほかに貸切自動車(現在のハイヤー)の営業を、六人乗り自動車六台用意して、長野市南県町・篠ノ井・川中島駅前・稲荷山の四営業所で開始した。貸車料は三〇分二円五〇銭・一時間四円・五時間一八円・一〇時間三二円、待車料三〇分五〇銭・一時間一円であった。十五年七月一日に河東鉄道・長野電気鉄道が合併して発足した長野電鉄株式会社も、翌昭和二年六月二十二日に六人乗り自動車二台で貸切自動車営業を始めた。貸車料・待車料は、川中島自動車の場合と同じであった。
こうした自動車の増加にともない事故も増えて社会問題化してきたので、県は昭和四年三月一日「自動車取締規則」を定めた。このなかで運転資格のないものとして①性向不良なもの、②飲酒の習癖あるもの、③視力聴力身体にいちじるしい障害のあるもの、④関係法規の処罰を受け改心の情がないもの、をあげている。