市町村民の移住

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この時期の移住に、国内ではあるが北海道をふくめてみると、県内からの移住者は、北海道へ移住するものと海外へ移住するものがあった。このうち、北海道についてみると、明治の後半からだんだん増えていき、明治三十九年(一九〇六)三〇四人、同四十年四九八人と急増しその後は減少しているが、大正七年(一九一八)四〇〇人、同八年四二八人と再び急増した。前者は日露戦争後であり後者は第一次世界大戦後にあたり、両戦の終結による影響が働いていたものである。このうち、明治四十年長野市からの移住者は計二二人であった。このころの移住先は札幌周辺の石狩地方はすでにおおむね入植されていたので十勝・釧路・北見など、気象条件のきびしい土地がほとんどであった。

 いっぽう、県内からの海外移住は明治四十年代になると、アメリカ・ハワイ・カナダを中心におこなわれていたが、大正になるとその数もだんだんに増え、また、地域的にもひろがりを見せている。くわえて、大正三年九月更級郡長津崎尚武が県の学務課長に就任すると、信濃教育会にたいして、植民思想の養成に関し教育上いかなる施設をなすべきかという諮問を発した。これにたいし信濃教育会では、三村安治・中村国穂らを委員に委嘱し植民教育調査をおこない、その結果を県に報告している。

 これを受けて県は大正四年七月に、その結果を「移民に関する調査」と題して発表している。ここでは「植民教育の主張」として、「帝国の使命と植民教育、植民に冷淡なる思想と最近三十年世界植民思想の発表、主張の要点として、長野県の人口、耕作面積、一人当たりの耕作反別の増減、農村の救済と農民一人当たりの耕作反別の増加、植民思想の普及、余論として、植民の利益」を述べている。また、「植民すべき方面」として「朝鮮、満州蒙古、樺太、台湾、シナ、フィリピン群島、セレベス、ボルネオ、マレー半島、スマトラ、ジャワ、モラッカ新ギニア、オーストラリア、その他南洋諸島、インドシナ地方、北米合衆国、カナダ、メキシコ、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジル、その他諸国」等の国や地域について土地のようすや生産性の将来像、鉱産物資源等々について特徴をあげている。

 また、信濃教育会は大正五年六月、第三一回総集会において、海外発展促進について宣言をおこない、さらに、同年十月には「『海外教育指針』と称する百余ページの冊子を希望者に配布し、大正八年には当時南洋および南米移民の熱心な唱道者だった中村国穂の著書『南米ブラジルに雄飛せる長野県人』を発行し、外地移民の奨励と渡航案内」(『信濃教育会五十年史』)につとめた。こうして各地小学校教員による世論形成と各郡市教育会の呼びかけや働きかけがあり、殖民思想や、海外発展の運動に刺激されて海外移住者が増えていった。

 なお、大正七年に、県が千曲川の改修工事を決定すると、沿岸農家のうち家屋や農地を失うものは北海道十勝に移住することになり、更級・埴科両郡で五二戸が八年三月に移住し、さらに九年には四〇戸ほどが移住することとなった。移住団長は塩崎小学校首席訓導に決まり着々準備をすすめていたが、五二戸を更級郡と埴科郡にどのように配分するかが問題になった。両郡ともできるだけ多数を得るための折りあいがつかないのである。そこで、両郡の協定会を開き、更級郡では栄村横田地区があるから三七戸とし、埴科郡では杭瀬下村や稲荷山町寄りの高場、雨宮県村の土口、清野村の岩野および屋代町などの関係地区があるとして一五戸とするなどを取りきめることもあった(『信毎』)。

 長野市からの海外移住者は、大正四年には表47のように全体で一一八人があり、朝鮮半島へ五四人(四五・八パーセント)、ついで関東州へ二七人(二二・九パーセント)となっており、県全体では二番目に多いアメリカへは八人で五番目となっている。また、同六年には朝鮮半島へは一〇三人とふえ、長野市からの全移住者の五三・一パーセントになっている。同九年の記録では、五〇人と減りはしたものの、六九・四パーセントで移住の中心は長野市の場合朝鮮半島への移住が多かった。全県的には、大正六年から八年にかけて海外渡航者は五〇〇人から八〇〇人余と増加したが、以後二五〇人前後に減少している。


表47 長野市からの海外移住者数

 大正十一年南米視察から帰国した日本力行会長永田稠(しげし)は国勢員総裁小川平吉と貴族院議員今井五介の紹介状をもち、県知事岡田忠彦にあい、信濃海外協会の設立をとりつけた。そして、同年一月二十九日に長野市の城山館で設立総会が開かれ、同協会が設立された。この協会は全国で七番目のものであった。当日決められた規約では、本部を長野市、支部を必要に応じ内外各地におくとし、事業内容は、①海外発展の方法の立案、②発展地の調査と結果の紹介、③在外県民との連絡と指導後援、④海外投資の研究、⑤海外発展に必要な人材の育成、⑥雑誌出版物の利用と発行、⑦講演会の開催、⑧各種参考品および統計の収集、⑨同じ目的をもつ他の機関との連携等であった。

 四月には機関紙『海の外』が創刊され、月刊誌として毎月五〇〇部が満州・北米・南米に発送された。十二年二月からは今まで東京の日本力行会で印刷されていたものを信濃毎日新聞社で印刷するようになり、十五年には発行部数が二六五二部と増加していった。それとともに海外への渡航者数がブラジルを中心に増加してきている。


写真74 信濃海外協会発行の海外発展PR誌『海の外』2号・3号
南アメリカ・ブラジルの地図が載る