交通の利用と普及

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明治四十三年(一九一〇)ころの、長野駅に着荷する生活物資の移入状況は、東京方面からビール類・砂糖・綿花・綿布・パン粉・醤油類等の衣食関係、北越方面からは米穀・石油類等の主食・燃料関係が大部分を占めており(『信毎』)、災害等で鉄道が不通になると、長野の日常生活に与える影響は大きかった。

 駅からの交通手段や運送は、人力車や馬車・荷車等が使われ、人力車については、「いかなる風雪の夜にても、十五台以上は必ず出かけ居りて旅客の用を弁ずる様」(『信毎』)にと駅長の配慮がみられる。大正中ごろから末年にかけての長野市の人力車の台数は三〇〇台前後、荷車は一〇〇〇台を超し、自転車も大正の末年には五〇〇〇台近くに達している(表48)。


表48 諸車数の推移


写真75 長野駅前に並ぶ人力車

 大正期にはいると鉄道利用も盛んになり、大正三年(一九一四)の長野駅旅客数は、一・二月が少なく、三月には八万七千余人である。これには、東京上野の大正博覧会(大正三年三月二十日より開催)参観者の途中下車による増加分もふくまれている。四・五月は旅行季節となり一四万余人、六・七・八月は半分以下に減り、九月には彼岸や旅行の季節とあってやや増え、十・十一・十二月は減少傾向であるが、十一月えびす講の乗降客数は、平日の七〇〇人内外のおよそ二倍であった。

 大正七年四月の善光寺ご開帳では、乗降客多数のため、一時間から二時間の列車の遅延が続発し、信越線・中央線ともに、各駅で乗り残しを多数出すありさまであった。長野-直江津間は、二、三等車を連結した臨時混合列車が運転されたが、所要時間は四時間弱であったので、遅延による旅客の不満もあった。このご開帳での長野駅の乗降客は、前回のご開帳にくらべ一日で一〇〇〇人以上も多いという盛況ぶりであった。

 通学生の利用も盛んで、長野中学(現長野高校)では汽車隊とよばれる通学生も多く、ことに川中島駅の新設により、同駅から乗車する学生は三〇人ほどであった。その他篠ノ井駅が四〇人、屋代駅が二〇人、上り臨時列車が二〇人ほどいたので、その総数は百数十人に達していた。大正九年八月長野・篠ノ井間の複線化にともなって、篠ノ井駅、川中島駅の発展が目につくようになった。


写真76 川中島駅前での開駅式
(『北信濃の100年』より)

 大正後半には、長野駅の乗降客数はさらに増え、正月の初もうでなども近くの寺社だけでなく、篠ノ井線を使い稲荷山の八幡神社まで出かけるものも出はじめた。大正十三年の善光寺ご開帳では乗降客が一〇〇万人を突破し、不景気にもかかわらず、前回(大正七年)より約四二万人多くなっている。明治三十九年から大正末年にかけての長野駅乗降客数は、明治四十一年の連合共進会開設時の五〇万人突破や、ご開帳のたびに増減の波があるものの、年ごとに伸び、大正後半には八五万人以上、大正末期には一〇〇万人以上となり、鉄道は特別な行事のときの利用増だけでなく、住民の足としての重要性を増していた。

 いっぽう、昭和初期までに開通した長野市周辺の私鉄各社の経営は、輸送力の弱さもあって苦しいところが多かったが、線路のつけかえ、軌道・車両の改善などの努力を払ったり、電気事業を兼営するなどして業績の向上をはかった。長野電鉄の権堂・信濃吉田間の乗降客数は表49に示したように、大正十五年六月の開業と同時に年間総計一三〇万人近い利用者を出しており、官線と私鉄線によって結びついた鉄道網は、産業経済や教育・文化、日常生活の向上に大きく影響した。


表49 長野電鉄旅客乗降人員

 大正の後半、住民の交通手段として盛んに利用されるようになったのは自転車である。明治末年には自転車は輸入品が主で、価格はまだ高かったため、商店によっては分割払いで販売するものもあった。自転車は手軽で便利なうえに、各地の愛輪倶楽部等の主催により、長野中学や松代旧城跡等で競走会が開かれて人気が高まり、急速に普及した。また、郵便物の集配には、なくてはならないものとなった。

 通学生の自転車隊もこのころの特色であり、頻繁な自転車は、狭い長野の道路ではよけ違いができないほどであった。長野中学(当時は西長野にあった)の自転車通学生のなかには、遠く屋代・松代・須坂・長沼方面のものも少なくなかったが、約三里(一二キロメートル)を限度として自転車が盛んに利用されていた。最盛期の自転車数は七、八十台に達し、全校生徒の一割余となり、これらの自転車は学校にほうっておくと皆に乗りまわされるので、途中の文房具屋などに預けられていた。


写真77 大正中期のサイクリングに集まる青年たち

 また、長野市周辺の若槻村へのひろがりのようすをみると、同地区で最初に自転車を買いもとめて乗ったのは、東条の医師花岡四郎と徳間の中条正松であり、いずれも二円ずつの奢侈(しゃし)税を払っていた。米一升一五銭の時代なので、自転車はぜいたく品のひとつであった。それが急速にひろがって、長野に通う学生や勤労者のあいだではかなり使われるようになり、昭和十年ごろには、全村で総世帯数七八〇前後のうち五百余台を数えるにいたった。