住まいと生活の向上

230 ~ 235

明治末年から大正にかけて、明るくモダンな住まいの象徴の一つとなったのは電灯であった。明治三十一年(一八九八)五月長野電灯株式会社による電灯が長野市の家々につくようになり、その数は千七十余灯、三年後には二一二五灯、およそ二倍に増えたが、まだ市内でも電灯のない家が多かった(旧市内戸数六三九二戸)。それが四十五年には約五万灯に急増した(旧市内戸数七四八八戸)。普及率は上々であったが、電灯のある家でも中心に一灯だけで、他の部屋はランプが使われていた(近郊の町村には未供給のところが多かった)。電灯が出現してから一四年へてもまだまだランプ屋が繁盛し、ランプと電灯の共存はつづいた。

 電灯使用戸数の増加につれ、なかには無断で電球を変更し、窃盗としての注意を受けるものもあらわれたり、電灯の光力欠乏の問題が市会で取りあげられたりもした。松代地方では信濃電気(会社)にたいし、光力不足や毎夜生じる消灯で、製糸家・商店・一般需要者の代表が協議を申しいれるまでになった。電灯は市街地にはやくひかれ、明治四十年から大正五年(一九一六)にかけ、電灯使用戸数は約六倍に増加しているが、それ以後は表51のようにそれほど戸数は増えず、一戸あたりの電灯数が増えている。

 電灯は農村部には比較的遅れて導入された。若槻地区に最初に電灯をひいたのは、明治四十五年の稲田の中山薬缶(やかん)屋(板金業)、金子居酒屋などごく一部であったが、大正四、五年ころには坂上の吉・田子方面までゆきわたっている。大正五年には全県下総戸数の二、三パーセントに普及したばかりであったから、長野市に比べれば遅れていたが、全県的にそう遅いほうではなかった。県下一般への普及は大正期も末年に近くである。電灯は農業生産の面でも活用され、とくに養蚕では夜間の給桑を容易にし、わら細工など夜業の時間の延長を可能にした。

 電灯使用料金については、五燭光で一ヵ月三〇銭が一般的であったが、長野電灯は大正七年四月電球無料引き換えとともに料金改正をおこない、五燭光が月三五銭、一六燭光が五〇銭等となった。現在とは異なり、電灯だけに要する電気料金は高価なものであった。一般家庭用は一六燭光が原則で、どこの家も多くの灯数は入れられなかったので、コードを六、七メートルも長くしておき、家のなかを移動して使用していた。

 大正五年には長野市東公園の大噴水で、土曜日夜にかぎり五色の電灯が点火されたり、十四年には色電灯で消火栓所在の目印とする工夫が考慮され、電灯が屋内だけでなく他の面でも使用されるようになった。大正十五年十二月には長野電灯が長野市域一帯に電熱供給することを決定し、一般家庭の一部では扇風機も使用(表51)されるようになった。


表51 電灯・電力使用戸数・灯数等の推移

 住宅の技術進歩とあいまって、洋風建築の手法が民間に普及し、ガラス戸の使用など、少しずつ一般へもひろがっていくことになった。都市の商家は切妻・瓦(かわら)屋根の伝統的な土蔵造りが主流であったが、防火上、耐火建築にたいする必要性が高まり、明治末年には、板葺(ぶ)きは瓦やトタンなど不燃性屋根への変更が奨励された。これは、明治四十五年五月、都市消防の観点から「屋上制限規則」が定められ、一〇年の猶予期間を設けて適用されたからである。そして、大正十年から不燃性の屋根を張ることが始まり、防火上、いちじるしい効果をあげた。


写真80 拡張された中央通りの後町付近には、洋風建築が立ち並ぶ (『写真にみる長野のあゆみ』より)

 さらに、コンクリートの使用がこのころから始まり、十一・十二年に新設された埴科中学(現屋代高校)・上高井中学(現須坂高校)・篠ノ井高等女学校(現篠ノ井高校)などが、鉄筋コンクリートによる初の学校建築となった。大正十四年には、長野郵便局が鉄筋コンクリート三階建てに改築されることが決まり、電気大時計や耐火耐震設備が加わったモダンな建築として、工期約二年半、工費三三万余円を費やして昭和二年(一九二七)十二月十五日完成した。四階屋上は和風庭園を築き、三階までには電話交換室・電信室・郵便室をはじめ、浴室や撞球(どうきゅう)台・オルガンのある娯楽室まで備わっていた。さらに、県下唯一の人が乗れるエレベーターや電気ストーブ・水洗トイレまで設備されていた。

 食生活では、農山村は、伝統的な米麦食を中心に、粉物その他雑穀などを混ぜた主食が普通であった。しかし、婦人会などのあいだで、日本食・洋食の調理実習会が開かれ、上流農家にはコロッケ・オムレツ・ライスカレーなどが始まった。都市の一般住民の食生活は米食が主となり、大正半ばには中華料理が食べられるようにもなったが、大正七年八月の米騒動以後は、米の消費をおさえるため、混食・代用食の普及が奨励された。物価指数(表52)をみると、日用品が高騰するなかで、米価のみが下落し、農家は二重の惨苦を味わっている。


表52 物価指数の推移

 衣生活では、町の専門の織屋から布を購入し、女性は裁縫によって反物を着物に仕立てていたが、既製の衣料品を売る小売店もあらわれてきた。綿の自家織は減ったものの、生糸の糸とり機・機織り機は相変わらず使われていた。冠婚葬祭など特別なときの男女の晴れ着は絹物が普及し、上流では、ちりめん・羽二重などが多く、色も模様もはなやかになった。平常着では、男性は一般に縞(しま)木綿の筒袖に半纏(はんてん)、女性も木綿ものを主とし、洋服は都市を中心に流行した。しかし、洋服の値段は高く、大正中期で一着つくれば教員初任給の半分くらいはとんだという。農村の若者に普及するのは大正末期になってからである。

 洋服の着用は職業や性別によって普及に差があり、男性のうち半分以上が洋服の職場もあったが、女性はまだ圧倒的に和服中心で、電話交換手のような先端をいく職業婦人も、和服に「上っ張り」をはおるという姿であった。女学生は、明治三十二年「高等女学校令」以降定着した、「着物袴(はかま)と黒の編み上げ靴」といったスタイルである。長野高等女学校(現長野西高校)では、袴は活動性を重視し、あんどん型(スカート型)ではなく、えび茶色の馬乗り型(ズボン型)であった。しかし、大正末になると、十四年のビロード襟の制服など、洋服の制服に変わってくる傾向がうかがえ、昭和八年からセーラー服があらわれる。男子の長野中学(現長野高校)では、明治三十三年学校独自の規則を定め、すでに制服・制帽・制靴が決められ、詰襟学生服であった。


写真81 大正元年ころのこどもたち
(松下達所蔵)


写真82 大正12年4月開校の更級実科高等女学校の第1回卒業生 (昭和小学校所蔵)

 長野市域の人びとの生活の節目となっていた午砲(ドン)は、大正二年、当時の水道山平柴から、大峰山中腹の箱清水辺が移動候補地としてあげられた。このころ、毎日四、五分ずつはずれる不正確な午砲にたいし苦情が相つぎ、長野測候所の時計と合わせないことによる怠慢であると指摘されていた。大正八年には無線電信を応用し、電気仕掛で正確に打つことも検討されたが、費用がかかりすぎ無理ということになった。

 大正十四年には、午砲にかわり市役所屋上に電笛(サイレン)をとりつけ、七月から実施することになった。六月十日には、一七年間休みなく旭山に登りドンを打った戸谷直治郎(四八歳)が、中央生活改善同盟会から表彰されている。この新たな時報機では、周囲二里(約八キロメートル)四方へ聞こえる程度の音量にする予定であったが、実施後は、市の中央部でもよく聞こえないという苦情が相つぎ、電動機一〇馬力から一五馬力にかえてみたが、ほとんど変わらなかった。市民はすっかりサイレンに失望し、以前のように男性的で勢いのいい午砲の復活を望む声が聞かれた。市民に親しみと信頼をもって受けいれられるのは、まだ先である。