長野市上水道の設置

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長野市は、明治初年から同十年代にかけて灌漑(かんがい)と飲用を兼ねて戸隠からの瑪瑙堰(めのうせぎ)による用水事業に力を尽くしたが、結局実ることなくおわった。そして同三十年市制施行後も幾度か上水道計画があったが日露戦争による経費節約で実現しなかった。しかし、いっぽうでは市制施行により都市人口の増加がはげしく、衛生面や防火面からも上水道の設置は緊要の課題であった。

 明治四十一年(一九〇八)七月六日、市は「長野市水道調査部規程」をつくり、翌四十二年一月水道調査部を設置して本格的に調査を開始した。この調査では、すでに明治三十年代の調査をもとに水量、水質、技術、経費等の面について、さらに詳細におこなうことになった。同四十三年五月戸隠水源計画の調査をおえたが、同年八月十八日の市議会では野尻湖も調査して比較研究することに決した。これより先これらの動きのなかで同年七月五日には、信濃尻村(信濃町)や新潟県中頸城郡中江用水水利組合等からは連盟で長野県知事あてに「野尻湖水源には古来固有の権利を有し、もし引水計画が事実なら死活問題であるから、許可しないよう」との上申書がおくられていた。そしてさらに十月十五日には新潟県知事から「野尻湖は関川の水源で中頸城郡の灌漑に重大な関係があるので、出願の場合には許否に先だち当庁へ協議されたい」との照会が長野県知事あてにきた。野尻湖水源問題は最初から障害が前途に横たわり対外関係は複雑であった。このような状況のなかでも四十四年三月には両水源の調査をおわり、比較研究の結果、戸隠水源に決定した。そこで同年六月二十八日設置願いと国庫および県費補助を申請して、翌四十五年七月二日設置認可と補助の指令を受けた。このあと土地収用法の事業認定や工事実施認可などの申請があり、大正元年度は起工にいたらなかった。

 大正二年(一九一三)三月十四日工事実施認可がおり、同三月三十日起工式を往生地の浄水場予定敷地でおこない約二〇〇人が参列した。経費は、総工費八五万一〇〇円、うち国庫補助二〇万五〇〇〇円、県費補助一五万六七八〇円(『二十年間の長野市』)で、工事は全域をつぎの四区域に分けてすすめた。

  戸隠工区  貯水池工事および導水管布設工事の一部

・水源は瑪瑙沢、貯水池は中社の東谷、堰堤は中心粘土入土堰堤で長さ一九七間三尺(三五五メートル余)、頂幅三間(五メートル余)、高さ六五尺七寸(約二〇メートル)、敷幅四六間(約八三メートル)とし、コンクリート管と鉄管を用いて自然流下式で導水する。

  芋井工区  導水管布設工事

・導水路は貯水池から飯綱原をう回して上ヶ屋地内の赤渋沢南まで、以下戸隠往来に沿って長野市まで鉄筋コンクリート管(急勾配地は鋼鉄管)を布設する。

  長野工区  浄水場工事

  千歳町工場 配水管布設工事

・配水管布設の事務所を千歳町工場におき、布設係を三班に分け、第一班は石堂町方面、第二班は鍋屋田方面、第三班は加茂方面とし同時に布設する。

 工事は各所で困難をきわめた。導水管布設工事は、延長四里余り(一六キロメートル余)であったから、戸隠、芋井、長野の三区に分割しておこなわれた。長野と赤渋間はほぼ戸隠里道に沿って布設した。ただし荒安笹峰間はもっとも急勾配(こうばい)の地に延長二七〇間余(四八六メートル余)の導水路を新設した。これが竣工後俗に水道坂とよばれる場所である。この工事では一五馬力電動巻揚機を据え付け諸材料の運搬をした。赤渋と戸隠のあいだはほとんどが飯綱山の裾野で比較的緩やかな勾配であったが、林間や原野を切り開いての工事であった。戸隠と長野との交通運送機関は駄馬によるほかなく、市内千歳町工場で製造したコンクリート管や鋼鉄管は、戸隠里道を一部改修して二輪馬車で狭く曲がりくねった急勾配の道を運搬(写真83)した。この作業は危険で苦しい仕事であった。戸隠と大久保間はレールを布設して戸隠で製造したモルタル管の配置をした。それでもこの導水管布設工事が一番早く完成し、後述するように未完成の戸隠水源池から初めて往生地まで通水したのは大正三年十一月十九日であった。


写真83 戸隠里道を二輪馬車で水道管を運搬
(長野市水道局往生地浄水場保管)

 往生地の浄水場工事(写真84)も、市街地から二〇〇余尺(六〇メートル余)の高地で道路も険悪のため、材料運搬には、延長二〇〇余間(三六〇メートル余)を開削して道路をつくり、頂上に一五馬力電動巻揚機や一〇馬力モーターを据え付け狐池材料置場から、濾過(ろか)用砂利や工事用諸材料を運搬した。濾過池に使用の粘土は良質のものが近傍にあったが少量のため城山のものを併用した。またセメントに混ぜる割砂利やその他必要な石材は郷路山石切場のものを使用した。大正四年六月には予定どおり市内への配水管布設や往生地浄水場工事がほぼ完成した。


写真84 往生地に浄水場建設
(同前保管)

 戸隠工区での瑪瑙沢水源貯水池の築造は、もっとも難工事であった。冬期約四ヵ月半は寒気と降雪のため作業が不能となり、そのうえ僻遠(へきえん)の地で材料の運搬や労力の供給にも予想外の困難をきたし、予定年限内の竣工ができず工期を一年延長してすべてが完成するのは大正五年六月以降であった。そのため前年の竣工式当時、水源池には水がためられておらず未完成のまま通水していた。

 導水管布設、浄水場、配水管などがほぼ整い、給水が可能になった大正四年十一月二十四日竣工式を往生地浄水場でおこなった。この日は各町から練りだす踊り屋台や俄(にわか)物類でにぎわい、昼夜七〇〇発の煙花が打ちあげられた。三日後の二十七日には戸隠水源地でも清祓(きよめばら)いをおこない、大神楽(かぐら)を奏して祝った。

 市ではこの竣工に先だち、大正三年六月牧野市長は区長会議を開き、水道使用のいろいろな特典を付したり利用効果について区民に普(あまね)く勧誘を依頼した。しかし、市民はまだ水道の利益を知らず依然井戸水使用のものが多く、八月中の申しこみはわずか五五〇戸で全戸数の約七パーセントであった。翌四年六月には水道水と井戸水との細菌学上からみた比較や衛生上の利益等を平易に示した「水道案内」を全市民に配布するなど普及奨励につとめた。それでも大正七年の使用戸数は平均五四パーセントにすぎなかった。料金は一戸一ヵ月八〇銭であった。

 この上水道の完成は、単に日常生活面での利便にとどまらず、衛生面で伝染病の減少や防火面で消火栓の効果による延焼の激減などのほか、往生地浄水場、戸隠水源池など観光面での効果も大きかった。また市では翌五年五月には城山に新公園を整備し、公園の中央部に水道を利用した大噴水が初めて設置された。これは当時としては東洋一のものといわれ人びとの目を楽しませた。

 ところが、竣工後わずか七、八年で、大正十二年には近隣一町三ヵ村の合併があり、そのうえ市民の衛生意識の向上や産業の発達、とりわけ鉄道の消費量が多大に増加し、断水や給水制限の状況をきたした。そこで大正十四年から二年がかりで戸隠鳥居川流域の越水沢から水源池へ引水補給しようとし、いったん県の認可が出たが、柏原村(信濃町)ほか八ヵ村から行政訴訟の提訴があり中止になった。そのため大正十五年には市内中御所岡田地籍の裾花川堤塘(すそばながわていとう)内に井戸をほり動力装置で揚水し、おもに鉄道関係へ送水して一時をしのいだ。また昭和五年四月には現安茂里地籍太子河原で犀川(さいがわ)の伏流水から夏目原の浄水場(安茂里平柴)へ揚水する犀川上水の工事を完備した。昭和十年には先に中止となった戸隠越水沢からの引水補給が双方話し合いで協定が成立し、その工事を実施するなど、水源の確保は都市の発展にともなう課題であった。