松代町の簡易水道と上水道の設置

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松代町は古くから飲用水に不足をきたしていた。松代藩時代に西条地区の新御安口にある木町抱屋敷内の水が、伊勢町・中町・荒神町・鍛冶町・肴町の用水として使われていた記録もある。明治になり、これらの五ヵ町や東寺尾では、木管を布設して簡略な水道をつくり、はじめはひしゃくで汲みあげたりしていた(『松代町史』)が、大正四年(一九一五)長野市が最初に大規模な上水道を設置すると、県下の各地で上水道や給水人口の少ない簡易水道の設置気運が高まった。

 大正六年秋、松代町字鍛冶町でも坂口俊平は御安町山浦勇太郎の所有地に水源地をさぐり、この土地を小池愛之助が買いうけ七年二月試掘の結果、水量水質ともに良好であることがわかり、近隣の肴町に交渉して積年の希望を果たすため工事の設計をすることになった。

 県はこのような水道設置への気運をふまえて、大正七年三月二十二日県令第十七号「町村飲用水改良費補助規則」を公布して、「町村ニ於テ明治二十三年法律第九号水道条令ノ規定ニ依ラサル程度ノ簡易ナル給水装置ヲ施設スル」ものにたいする補助金は「総工費ノ三分ノ一」と規定し水道設置の普及をはかった。同年四月二十七日鍛冶町と肴町では西念寺に集まり「飲料水引水に関する協議書」を決定した。それによれば、二ヵ町で水利組合をおこし組合名は松代町東部水利組合とする。組合長浅井近之助、副北村賢蔵、幹事小池愛之助ほか一四人を決定した。そして五月には工事の分担や経費負担等について仮契約書をつくり、鏡屋町へも加盟を呼びかけると、同町の三田文平ほか四人の代表が加盟の申しこみをしてきた。そこで以後はこの三ヵ町の連名ですすめることとなった(「水道工事誌」鍛冶町外二ヶ町簡易水道事務扱係)。

 大正七年六月五日県へ水質検査願いを出し、同十四日「飲料に差支ナシ」と認可があった。そこで翌十五日には三ヵ町協定のうえ「簡易水道布設県費補助」の申請を松代町役場および埴科郡役所を経由して県知事あてに提出した。そのおもな内容は、松代町字鍛冶町、肴町、鏡屋町の三ヵ町は、従来水道の設備がなく町内を貫流する雑用水をやむをえず飲用水にしていたが、近年上流の豊栄村地籍字赤柴銅山の銅鉱採掘が日々増加したため、鉱石の洗浄等による汚水がことごとく関谷川に流れこみ、当三ヵ町の田用水は粗悪となった。そのため昨年第十三師団対抗演習のさい、乗馬隊の宿営地に当てられた軍医官の水質検査により、馬料水にすら不適当である。その上夏期旱(かん)ばつのさいには、水が一滴も流下せず困却し、衛生面でも憂慮して簡易水道布設を決したので、工事施行認可と県費補助を願いたい(「同前書」)というものであった。

 この申請のさいに添付した「飲料水改良方」の要旨は、松代町御安町一一七三番地内二の小池愛之助所有地三〇坪を掘削し、横一間、縦七間の源泉池を築造し、湧出水を濾過(ろか)する。導水路土管は径四寸以下各種の土管とし延長四八〇間余(八六四メートル余)に伏せこみとする。使用戸数一三八戸、使用人口七七三人、使用料一ヵ月三銭などとなっている。この計画にたいし、水源地の御安町や銭湯業者等から反対運動もおこったが松代町長矢沢頼道らの仲介で話がつき、七年八月二十一日工事に着手した。総工費二二八二円余(決算では三二四九円余)をかけて二ヵ月後の同年十月十六日に竣工式を鍛冶町の松城閣でおこなった。この簡易水道は大正十二年と十三年の大旱ばつで枯渇したが、このあと昭和十年代まで使用された。なお、この水源地三〇坪の所有者名義は昭和九年十月十九日小池愛之助から水利組合三町の代表者名義に書きかえられた。

 この三ヵ町の簡易水道ができて間もなく、松代町の町民のあいだに上水道布設の要望が高まった。町は、これにこたえて大正十年九月矢沢頼道町長が議会にはかり、上水道設置についての調査機関として小山鶴太郎ら九人の専門委員を選任した。上田市の水道課技師長近藤俊治郎に調査を依頼し、その結果十一年七月清野村地籍字道島の千曲川伏流水を水源と定め、同年八月七日工事費二七万円の上水道設置議案を町議会にはかり全会一致で可決した。そこで十二年六月二十九日水源地の清野村字岩野で地鎮祭をおこない工事に着手したが、さらに同年十二月二十五日県および国へ総予算二一万一一〇〇円と改めて申請し認可をえた。工事の内容はおよそつぎのようである。

① 水源池工事 集水管は堤外地から千曲川流域に接近し、延長二〇〇間(三六〇メートル)、深さ平均一五尺(四・五メートル)、径一尺五寸(四五センチメートル)の鉄筋コンクリート管を埋設し新堤防外に設けた集水井に導く。

② 送水管工事 送水管は配水池まで延長九二〇間(一六五六メートル)に内径八インチ(二〇・三センチメートル)の鉄管を埋設する(写真86)。

③ 配水池工事 配水池は象山に設けコンクリート造りとする。象山への資材運びあげは、急勾配のため電動巻揚機を使用する。

④ 配水管工事 全町へ給水する配水管は延長三里一二町(約一万三〇九〇メートル)とする。


写真85 松代町の水道工事には電動巻揚軌道を使用した
(矢沢彬所蔵)


写真86 松代町の水道菅布設作業
(矢沢彬所蔵)

 工事は順調にすすみ大正十三年三月完了し、同年十二月二十日通水試験、十四年五月一日竣工式をおこなった。このとき町がつくった「松代町水道給水条令」と付記資料等によれば、当時の給水戸数は六五八戸(約三六パーセント)、料金は、①専用給水(屋内給水栓を一戸で使用)一戸五人まで一ヵ月九〇銭とし一人増すごとに九銭を追加する、②共用給水(屋外給水栓数戸で共用)一戸五人まで一ヵ月五〇銭とし一人増すごとに五銭を追加する、③牛馬を使用するときは一頭を人口二人に換算する、というものであった。