疾病と医療

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明治後期における長野市の病名調査(表53)によると、その順位は急性慢性胃カタル、鼻加答児(カタル)、急性慢性腸カタル、トラホーム、気管支カタル、湿疹(しっしん)、結膜炎、淋病の順になっており、そのなかで眼病や性病などの伝染病が多く発生していることがわかる。


表53 長野市の病名別患者数 (明治41~43年)

 これを病類別にみると、消化器病である急性慢性胃カタル・急性慢性腸カタル・急性慢性胃腸カタルなど、消化不良症の患者が圧倒的に多いことがわかる。つぎに呼吸器病の気管支カタルも多いが、関節および筋肉ロイマチスや神経衰弱・ヒステリーなどを合わせた全身病の数はそれをしのいでいる。肺結核はこのころはきわだった数ではないが、これが大正期にいたって青年層にまん延するようになる。

 長野市の各種伝染病患者と死亡者(表54)をみると、注目したいのはジフテリア、腸チフス、赤痢である。この三つの伝染病は死亡率が高く、当時の衛生状態のなかでとくに恐れられていた病気であった。


表54 長野市各種伝染病患者および死亡者

 法定伝染病のなかでつねに長野市民をおびやかしていたのは腸チフスである。これは一つの事例であるが、明治四十四年六月に長野高等女学校寄宿舎に数人の腸チフス患者が発見され、寄宿舎の衛生管理のあり方が問われた。さらに、市内全体でも二七人にものぼる患者が発生したことから社会問題化し、李王世子殿下の行啓をさしとめよとの信濃毎日新聞の社説が掲げられたことがあった。

 この伝染病発生の大きな原因は、当時飲料水にも用いた河川や井戸の水質にあると考えられ、長野赤十字病院が水質検査を実施したところ、水一グラム中に含有する大腸菌数は南八幡川二一八〇個、北八幡川二一〇〇個、鐘鋳川四二六〇個、裾花川一四八〇個であった。これは市水道の一グラム中七個にくらべ恐るべき数であった。また、赤十字社長野支部病院の井戸水にも、かなりの数の細菌が発見された。

 大正期に大きな社会問題となった肺結核による死亡者は、全国で年々八万人以上となり、長野県では二〇〇〇人を前後している。死亡率は県下では大正四年の七八・二四パーセントを最高にして、それ以後も高い率を保持していた。そのなかで長野市は、死亡率の高い地域であった。


写真87 明治44年の種痘済の証明書
(中沢源嘉所蔵)

 眼病のトラホームは、長野県の場合、大正六年の壮丁者にたいする検査結果では、その発生率は約九パーセントであった。長野市は、大正三年から七年までの「トラホーム検診成績表」を作成している。これによってこの五年間の平均をみると、患者数は疑似症もふくめ一四三二人にのぼっており、検診者全体にたいする比率は、七・八六パーセントであった。また、長野市域を中心にした長野警察管内のトラホームのまん延の状況を地域別にみると、表55のようであった。これは受診者六万三七〇人にたいして、一万七二九六人の患者を村別にみたものである。


表55 地区別トラホーム患者数

 大正期に猛威をふるったものに、スペイン風邪(かぜ)とよばれた流行性感冒があった。これは七年八月から十年七月にかけて県下をおそったが、長野市では七年の十月から十一月にかけて流行し、小・中学校が休校した。とくに長野中学は二〇九人、市内小学校四校で八五二人の罹病者を出した。

 長野地域の医療活動は、市役所の衛生課保健係を中心とした行政的な働きと、医者の医療現場での治療活動が重要な位置を占めていた。その点長野市は、県下の医者の分布からみれば恵まれた地域であった。大正十年の段階では、県下の市町村数三九三のうち一〇一ヵ村が無医村であったが、長野市は八十余人の医師が在住して、医療活動をつづけていた。しかし、人口増には追いつかず、医者一人あたりの人口は増えつづけていた。

 長野医師会は明治四十年七月三日の創立以来、当局への医療行政上の建議や医療サービス活動、望ましい医療のあり方の研究等を活発に展開した。同医師会は四十年九月の臨時総会で、臨時未定病者収容所設置に関する建議と本市水道敷設促進に関する二つの建議がなされた。前者は腸チフスとはっきり断定できないが疑いのある患者を収容し、治療を加えながらようすをみて、腸チフスと確定したら避病室に送るというもので、その施設を当局につくらせようとするものであった。後者は腸チフスなどの伝染病予防のために、市が水道事業調査局をつくって速成するようもとめたものである。これも大きな力になって、四十二年市に水道調査部が設けられ、やがて五年後の大正四年四月、県下初めての水道による給水が開始されるようになった。

 また、貧困者の無料の診療治療についても、恩賜財団済生会の事業が先進的に貢献した。明治四十年代に長野市医師会は、トラホーム治療について貧困者の無料治療をしたり、市役所の要請を受けて小学校児童の洗眼料を割りびき、普通の半額くらいで治療を実施した。長野市医師会は大正六年、市にたいして保健調査会の設置を建議した。その内容は市民の健康に関して重要な意味をもっていた。すなわち、本市の児童の体格が全国とくらべて劣悪であること、伝染病患者がつねに多いこと、肺結核死亡者が増加していること、長野市は不健康地であると断定できること、などが述べられている。長野市医師会が、組織的に医療行政と一体となって医療の啓発活動等に尽力したのは、大正八年四月の医師会令が公布されてからである。


写真88 県医師会と県結核予防協会発行の結核予防のちらし

 大正期は、病態の複雑化等のために衛生対策の拡充がもとめられ、県や市は衛生思想の啓発に乗りだした。その一つが、結核予防の宣伝活動であった。大正十年十月十四日、長野市では一二ヵ所で講演会を開き、二六八〇人が聴講した。午前九時市役所に二一九人の衛生組合長が集まり、警察署長、市役所職員、連合衛生組合長、市医師会理事から宣伝長の説明を受けた。その後各組合長はいっせいに受けもち区へ戻って、警察官同伴で各戸訪問する。宣伝ビラは必ず各戸へ手渡し、ビラは見やすいところへはって保存すること、夜の講演会には必ず一人以上出席することを呼びかけた。講師は医師(三人)、警察官、学校職員があたった。ポスターには「結核の予防は刻下の急務 遺伝と迷ふなかれ 不治と失望するなかれ」と書かれていた。

 大正十二年十月十八日には、全市いっせいの衛生講和が開かれた。これは長野市連合衛生組合が主催したもので、尋常四年以上の児童を対象に実施し、講師は長野医師会から派遣された。

 長野市立の医療機関としての伝染病院は、当初は城山公園に隣接した地(現在の長野地方気象台の場所)にあった。それを明治四十一年に堀切沢以北(現在の動物園)に移転する計画を立てたところ、たまたま腸チフスの大流行に遭遇した。そこで応急措置の仮建築でその場をしのいでいたが、だんだんそれも老朽化してきたので、研究の結果移転改築の方針を定めて、大正十五年より城山病院を改善して利用するようにした。

 なお長野市域においては、以前から上高井郡綿内村ほか三ヵ村組合に隔離病舎の建設の問題が提起されていたが、大正五年十月三日ようやく竣工の運びとなった。場所は綿内村であった。大正六年一月二十八日には、更級郡篠ノ井町ほか四ヵ村連合伝染病舎が、篠ノ井町に落成した。