大室・保科・小松原の大火

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明治四十年以降から大正期にかけて、現長野市域においては三つの大きな火災が発生した。それは明治四十年(一九〇七)四月の埴科郡寺尾村大室の大火、大正五年(一九一六)五月の上高井郡保科村の大火、大正十五年(一九二六)の更級郡共和村小松原の大火であった。

 大室の大火は、明治四十年四月十三日午後一時ごろ発火、総棟数四百余棟、戸数一〇六戸を焼失した。この罹災人口は男二八三人、女二八七人におよんだ。出火の原因は、寺尾村字大室の某家の味噌煮の炭火の不始末であった。火元の同部落の南端から南風が激しく吹きたてたので、火はたちまち北東に向かい、長さ一八〇メートル、幅三六〇メートルばかりの空間が猛火に包まれ、灰じんに帰した。大火となった原因は、火元の居宅裏に小川があるものの、消防には井戸水があるだけという立地条件にあった。消防組は川中島や松代地区はもちろんのこと遠くは須坂、さらに稲荷山以北長野市などよりかけつけた。しかし、火災地は谷街道をなかにはさんでおり、同街道は猛火に包まれたため消火作業は困難をきわめた。郡役所からは郡長ほか郡書記、警察関係では屋代、松代から二警部がそれぞれ出張し、臨時の仮役場において消火・救助・炊きだしなどの万般の指揮にあたった。近隣の有志からは白米、手ぬぐい、見舞金などがおくられた。

 明治四十三年十月に「長水消防同盟会規約並趣意書(案)」が作成され、翌四十四年四月十五日に「消防組相互の親睦」や「組員の公務上の死傷病の弔慰救護」を主目的にした同盟会が発足した。この会は長野市・上水内郡内の消防組全員をもって会員とし、その会費で運営された。これによって会員の職務上の死亡の場合には金五〇円以内、廃篤疾(重傷でなおらない)の場合が金二〇円以内などの弔慰救護の制度が確立した。この同盟会は漸次県下に普及していった。大正五年四月九日に、更級消防同盟会が発会式をあげている。

 保科村の大火は、大正五年五月十日午後一時に出火、村内五区二五字にわたって、戸数一三七戸、棟数四百有余を焼失し、さらに人的な事故は即死二人、重傷三人(うち一人は死亡)、軽傷および内科病四〇人に達し、農村としては稀有(けう)の大災害であった。なお、この大火によって清水寺が類焼して、境内の国宝大日如来および脇立四天王と特別保護建造物の大日堂および三重の塔が焼失した。原因は老女の失火であったが、前月来降雨がなく、いちじるしく乾燥し山野の草木枯死寸前の状態のところへ、さらにはげしい風が吹くという悪条件が重なり、消防の効なく大火となったものである。この村の地勢は、三方が山にかこまれわずかに西方が開いている扇状地上にあり、扇端から扇頂にいたるほど急勾配になっている。そこで麓(ふもと)の方面で出火すると火勢は扇頂に向かって走るところへ、さらに折からの強い西風が加わり大火となった。

 この火災は同村五八八戸のうち字在家(ざいけ)六六戸、字高岡三六戸、字外山(そでやま)二〇戸、字尻欠(しっかけ)九戸、字久保六戸の計一三七戸、七六八人にのぼった。しかも火勢が早く、わずか四五分間ほどで約四キロメートルにわたる人家に燃えひろがったために、家財道具をもちだすこともできず着のみ着のままという状況であった。そこで被災者の救助は深刻な問題であった。

 村役場の当局者は、郡役所・警察署などと一体となって被災者の救助等の指揮にあたった。まず避難者の収容所に小学校・広徳寺・高岡集会所をあて、負傷者救護所を小学校内に設け、近くの医者と長野赤十字支部病院救護班の来援により応急救護に万全を期した。炊きだしの作業を十日(当日)午後四時から始め、十一日よりは臨時炊事場を設置しておこなった。

 消防隊は、近郷各町村の公私立の消防組織が動員されて消火と救護活動にあたった。村内の各消防隊は失火直後に馳(は)せつけ、その後暫時にして郡内の井上・福島・小山・川田・七ヶ郷、埴科郡の大室・柴・牧小、さらに更級郡下氷鉋(ひがの)・稲里・小島田・大綱・真島等の公設消防隊と二十有余の私設消防隊が出動した。火勢が猛烈であったために初期防火は不能であったが、午後六時ころまでには他への延焼をくいとめることができた。その夜も本村の消防隊は徹夜で警戒にあたり、翌日から翌々日までは、近村の川田村・綿内村と本村の消防隊員合計九百余人が、焼け跡の灰片づけなどを実施した。

 この惨状がひとたび新聞紙上に報ぜられると、各方面から義援のための金品が寄せられた。その合計額は六七一五円余に達し、それが復興のための諸経費や被災者の救援資金にあてられた。

 小松原の大火は、大正十五年四月二十日である。この日は早朝から風が強く、午後になって烈風となった。そして南北二~三キロメートル余の長蛇のような更級郡共和村小松原地区に火災が発生し、午後二時すぎからわずか二時間で一五六戸、数百棟の家屋が焼失した。被害状況の内訳は表56のようであった。これは保科村の大火を上まわる大火災であった。


表56 小松原火災の被害状況

 幼児の火遊びが原因で部落の南端から発し、風速二六メートルという折からの烈風にあおられて、県道篠ノ井安茂里線にそって南北約一〇キロメートルにわたって家屋がたち並ぶ当地区は、たちまちのうちに猛火に包まれた。早速近隣各地から駆けつけた消防隊も危険で部落へはいれず、そのうえ北部の犀口組が消火水確保のために上中堰をせきとめたので、下流への水は遮断され消防活動は不能となった。そのため火勢をくい止めるためには家屋を取り壊す「破壊消防」に頼るほかなく、被害をさらに大きくした。

 村は失火と同時に役場職員のほとんどを現場に派遣し、郡役所の応援指揮のもとに災害を免れた岡田区、段ノ原組の各戸に米二升あての炊きだしを依頼、さらに不足分は役場で補い、罹災者・消防隊等に支給した。なお、救護事務所を南組野口高之助宅と北組の村社付近に設け、罹災者の避難斡旋(あっせん)や食料品の配給等を実施した。負傷者の治療には、郡長の申請による赤十字社長野支部病院から医師一人・看護婦三人の来援をえて応急措置を実施した。

 来援した消防組は川中島平を中心にして南は屋代、北は長野までひろがり、二七組におよんだ。当時の消防車は大部分は、大八車に手押しのポンプを乗せた簡単なものであった。この火災で問題になったのは、消防手に犠牲者が出たことであった。それは篠ノ井警察署の出動命令を受けて駆けつけた塩崎消防組の消防手が、帰村の途中乗っていた自動車が列車と衝突し一人は即死、他の二人も重軽傷を負うという事故であった。また、川中島消防組の消防手二人は、消火活動中雷管が破裂して顔面に大火傷を負った。さらに共和消防組の消防手は、消防に尽力中目を打ってついに失明した。


写真89 小松原大火の1週間後
(『小松原火災記念誌』より)

 この大火災にたいして四月二十一日信濃毎日新聞と長野新聞は、連名で「共和村災害の義捐金募集」の記事を掲載して大規模な募金を開始、県内外の個人・団体の有志が賛同して五万四千余円の同情金が集められた。

 長野市は義援金三一九二円五銭、白米二石八斗余、衣類三一七点、日用品四二二点、金物二七点、雑品十数点をとりまとめて寄贈した。

 この時期に発生した長野市域の火災は表57のようであった。


表57 長野市の火災発生原因と罹災状況

 消防組の整備は、組織の改善と消防活動の改善が主であったが、消防士の公務災害の問題も大きな関心をよんだ。長野市消防組の組織はおいおい改善されてきたが、道路の拡張や人口の増加や建築物の大型化にともない、大正十五年中に「消防組織改正案」がまとまった。

 施設面では、スウェーデン製蒸気ポンプを新しく購入して善光寺を火災から守るために善光寺保存会に無償で交付することにした。なお同保存会は、非常時にたいして自警機関を設け善光寺を保護すると同時に、市内大火の場合は消防に尽力することが義務づけられた。この時期の長野市消防組の規模と施設の整備状況は表58のようであった。また、一般非常時および火災等の場合に、みずから守りかつ警察当局や消防組の活動を援助するために、大正十四年十一月に連合青年会会員や在郷軍人分会会員が集まって警護団をつくった。団員数は三二一人であった。


表58 長野市消防組の規模と施設の整備状況


写真90 善光寺の消防用スウェーデン製蒸気ポンプ