災害と千曲川治水事業

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県下の河川のなかでつねに災害に見舞われ、しかも大きな被害を出しているのが千曲川である。明治四十三年(一九一〇)八月九日、十日の降雨は、近年まれにみる豪雨であり、その雨量は二日間で上田八八・六ミリメートル、屋代九五・四ミリメートル、須坂八八・四ミリメートルにも達した。水位は驚異的に上昇し、八月十一日には真島で約九メートル、牛島で約四・三メートルにもなった。

 洪水による被害は、千曲川流域の市町村に集中した。その人的被害は、死者一六人、負傷者一九人、行方不明者五人で、家屋は全壊六二戸、半壊八〇戸、流失一一七戸にのぼった。また、家屋の床上浸水八八〇四戸、床下浸水三八一〇戸で計一万二六一四戸であった。堤防氾濫(はんらん)は三九七、橋梁流落は四一四に達した(表59)。長野市域のなかでとくに被害を受けた地域の実情は当時の『信毎』によるとつぎのようであった。


表59 明治43年の千曲川大水害

 松代町で被害にあったのは、中町・下田町・荒神町・馬喰町等で、浸水家屋四百四十余戸・半壊家屋一〇戸、浸水面積は田二ヘクタール余・畑一八ヘクタールほどであった。清野村では、流失家屋三戸・浸水家屋三九七戸、堤防の破壊六ヵ所で、道路四八〇メートル余も破損した。東寺尾村では、浸水家屋六一二戸・流失家屋六戸、堤防の破壊二ヵ所であった。

 上水内郡下でもっとも被害の大きかったのは、朝陽・柳原・長沼の各村であった。その景観は、一大湖水の上に浮上した村という状況であった。長沼村の大町にある西厳寺(さいごんじ)付近の東土堤は、この村の生命線ともいうべきもので、大町・穂保・津野の消防組員数百人が動員されて守った。同村の赤沼区は下流の堤防が崩落して濁流が逆流し、飲み水が欠乏した。この区は浸水家屋が二五〇戸で、水位は高いところで屋上に達し、低いところでも床上一五〇センチメートルを下らなかった。赤沼地区は、養蚕をもって生計を立てているが、秋桑の損害だけで六九ヘクタール余で約一万五千余円、秋蚕は三万余円である。そのほか約八〇ヘクタールの水田の、稲はすべて灰白色に変じて、その損害は一万八千余円であった。一四〇ヘクタール余の畑が被害が受け大小豆あわの類が全滅で、一万八千余円の損害となった。洪水直後に救助を受けたもの六七戸で、職を失ったもの二百余人におよんだ。これらの困窮民を救助するのに方法がなく、水害後は悪疫が流行して、隔離病舎を開設する始末であった。そこで区民は、二〇〇ヘクタール余の田畑にたいする公税免租の出願をした。

 柳原村では、堤防上につくられた中俣地籍の県道須坂街道は、二〇〇メートル余りにわたって崩壊した。そのうえ、布野前堤防が一〇〇メートル余りも崩壊したため、柳原地域がほとんど浸水したのであった。朝陽村地域も柳原村に準じて被害が大きかった。

 長野県当局もこの水害に重大関心を寄せて、内務部長をして約一ヵ月にわたって現地を視察させ、連日被災者を激励し、関係者にたいし指導助言をおこなった。県は明治四十四年度に、洪水の被害防止のための河川浚渫(しゅんせつ)費を予算化した。しかし、千曲川の洪水被害額は大きく明治二十九年から大正五年(一九一六)までの二一年間の年平均額は、一四八万五五八八円であった。また、明治四十三年の大水害の四年後の大正三年にもおおきな水害があった。

 この期の長野市域の住民の動きとしては、大正二年三月十九日の更級郡小島田村村民等の貴族院議長にたいしての「千曲川治水工事国費施工の請願」があった。請願者は小島田村の安川保次郎を代表とする一七四人であった。

 その内容のあらましは「信濃川の上流の千曲川沿岸の地域は毎年のように大きな水害を受けている。そして、農作物の損害はもちろんのこと、耕地は荒れはて、家屋は流され、人畜の死傷など実にみじめで、そのため住民は離散しようとしている。しかもその利害に関係するものは、一県の区域だけではない。その工事は大変むずかしく、工費も莫大(ばくだい)である。現在、信濃川の下流の排水工事はようやく進展して、近く完成しようとしている。ついてはこのさい、千曲川流域にたいして国費をもって測量設計に着手して、速やかに改良工事を施し地域住民の苦しみを取り除くよう一同連署して謹んで請願いたします。」というものであった。

 同じ時期に、小県郡以北の千曲川沿岸の各郡県会議員を発起人とする千曲川治水会が結成された。会長に小坂順造衆議院議員が推挙された。また大正三年八月には、花岡次郎県会議員が中心になり信越連合治水会を開催している。このような情勢のなかで長野県会は同年に「千曲川治水に関する意見書」を内務大臣あてに提出した。大正四年、長野県会において千曲川河川調査費が可決されたので、県は流量測量・水位観測などの調査をすすめた。そのほか、埴科郡屋代町の若林忠之助ほか一〇人は「千曲川治水に関する請願」を貴族院議長に提出した。貴族院はこれを議決のうえ、内閣総理大臣に意見書を送付した。請願の趣旨はさきに記した小島田村の請願とほぼ同一の内容であった。

 大正五年赤星典太長野県知事は、県庁内に長野県治水調査会を設けてその推進に努めた。その結果、大正六年十一月三十日の閣議で、大正七年度より千曲川の改修が実施されることを決定した。これは実質的には国の直営事業であった。長野県は千曲川改修総工費八七六万円のうち、国庫負担の二分の一を差しひいた県費負担四三八万円の捻出に苦慮した。けっきょくは地租割を四銭増徴して県税賦課額を増やすこと、そして県債二四一万円と、受益者である沿岸町村からの寄付金の四八万円をこれにあてることで県会の議決をえた。

 しかしその後、地元負担額を増やせという県会の決議や水門費などの増額などの決定で地元負担額は増額されたが、当初の各郡の負担額は表60のとおりであった。地元負担額増加の問題では、南北信議員間に激しい対立があり、前途はきびしい情勢であったが、地元選出の花岡次郎県会議長の斡旋と努力で解決されたという。


表60 千曲川改修費地元寄付金額

 千曲川改修計画の工事区間は、小県郡城下村小牧(現上田市)から下高井郡高丘村立ヶ花(現中野市)にいたる五六・五キロメートル、その下流下高井郡倭村(現中野市)から下水内郡大田村(現飯山市)間一二・六キロメートル、支流犀川(さいがわ)の共和村(現長野市)両郡橋から千曲川合流点までの約一〇キロメートルの三区間、合計七六キロメートルであった。


写真91 千曲川改修起工碑上部の拓本
(矢沢彬所蔵)

 このあいだは水害のもっとも激しい区域であり、改修工事は洪水の疎通と水害の防止を目的としておこなわれた。その方法は、千曲川流域の湛水(たんすい)地である雨宮・篠ノ井付近・寺尾付近・長沼沖・延徳沖・木島沖・常磐沖などと、両郡橋の下流の犀川流域に強固な堤防である連続堤防(別名内務省堤防)を築き、洪水を遅滞なく流過させようとするものであった。そのために、従来の堤防で利用できるものはこれを利用し、河道の狭いところは掘削して拡大し、きわだった屈曲部はゆるやかにする。支流については、勾配(こうばい)の急なものには堤防を築き、勾配がゆるやかで本流から逆流するおそれのあるものには、水門を設置して洪水の浸入を防ごうとするものであった。

 工期は当初は大正七年から大正十六年(昭和二・一九二七)までの一〇ヵ年計画であったが、政府は工事の進捗状況により、大正二十年(昭和六年)まで延長するものとした。その後、関東大震災に遭遇して、さらに五年間延期して、大正二十五年(昭和十一年)度までとなった。

 工費の町村負担は、改修計画の変更や物価の変動等により増額されていくが、被害反別に応じて寄付金を分担した。当初一六ヵ年賦で納めた現長野市域の更級郡の町村の寄付額は、塩崎村一万五九六〇円、西寺尾村九三〇〇円、栄村九一〇〇円、東福寺村八四五〇円、真島村六九五〇円、川柳村四〇八〇円、小島田村二〇五〇円、青木島村一一五〇円、笹井村二七〇円、共和村二五〇円であった。

 大正七年十一月二十三日に改修工事の起工式が、千曲川・犀川合流点牛島地籍(若穂)の河原で盛大に挙行された。改修工事が始まった前後の景況を新聞記事の見出しによってみると表61のようである。千曲川改修工事は、長野市域の二、三ヵ所を例にとると、つぎのようにすすめられた。


表61 千曲川改修起工前後の新聞記事

 塩崎地区では現在の更埴市粟佐から塩崎の唐猫にいたる千曲川の屈曲部分が治水のために重要な地点であった。そこで、杭柵によって水を制御し、河岸に石張りを施工した。また、支流の対策として暗渠方式を採用したりして難工事であったが、大正七年に着工して昭和七年(一九三二)に竣工した。


写真92 千曲川の河川改修工事の唐猫地区杭柵
(『目で見る塩崎120年』より)

 栄村横田地区(長野市篠ノ井)の堤防は、千曲川が唐猫から直角にまがって笹崎に向かう蛇行した流路に沿って築かれていた。

 新堤はこの堤防とは無関係に横田の中心部を貫き、移転家屋九八戸、村社一、寺院一、堂宇一、共同墓地二、耕地および宅地五〇ヘクタールにおよんだ。これにたいして住民は反対し、千曲川治水費寄付取りけしのための、反対請願書の件を協議した。栄村村長は辞表を提出した。県議会はこの問題に関して善処方を内容とした意見書を知事に提出して紛糾した。しかし、各方面の努力の結果、川幅を最大二〇間(三六・八メートル)に短縮する計画変更で妥協が成立して、大正十二年に新堤防工事が着工して昭和初頭に竣工した。

 西寺尾地区の新堤防も川幅を広くとる設計であったので、両岸の家屋三九戸と小学校一校の堤外地(堤防と河川のあいだの土地)が堤防敷の下になることが判明した。そして小学校の移転料が全額支払われたが、移転先が決まらないうちに両岸に新堤防ができて小学校は堤外地に取りのこされた。しかしその後当事者間の話しあいが成立して、昭和六年十二月左岸の役場近くに小学校が移転して問題が解決した。


写真93 土砂を積んだトロッコを馬に引かせて運搬した千曲川改修工事 (『思い出のアルバム長野』より)

 長沼地区では明治四十三年の大水害の直後から当局への請願活動をおこなったり、改修工事の寄付金三万九千余円を一括納入したことなどにより、新堤防の築堤工事を大正十年ころから始めて昭和七年に完成した。築堤工事を上流の大町より始め、穂保・津野・赤沼へとすすめられた。大町から津野までは、旧堤防の上へ一気に約二メートル嵩(かさ)上げする方法をとった。赤沼の旧堤防は自然堤防を利用して築かれたために屈曲し、しかも河川敷がきわめて広かった。そこで河川敷を狭めて堤内農地を広くするために、四〇〇メートルから二〇〇メートルも旧堤防より川寄りに直線に築堤した。

 千曲川改修工事がじっさいに終了したのは、昭和十六年(一九四一)のことであった。長野市城山の神社境内には、大正八年四月後藤新平篆額の千曲川改修起工の記念碑が建てられている。