米価高騰と市民生活の困窮

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明治三十九年(一九〇六)から大正十年(一九二一)までの、長野市における六月と九月の玄米一石あたりの値段は図15のようである。米価は日露戦争後に値上がりの傾向を示し、四十一、二年と下降し、再び四十三年から上昇し、大正初年は下降となる。しかし、玄米一石あたりの値段は、日露戦争後よりも高い数値を示している。下降は大正四年までで、それ以降八年をピークに米価は上がっている。大正七年には七月から二ヵ月間にわたって、全国一道三府三二県で米騒動がおきている。その年の六月から九月までのわずか四ヵ月で、米価は七円も上がり、その上がり幅はどの年よりも大きかった。米価高騰の原因は産業発展による米の消費増大と生産停滞、シベリア出兵による騰貴を見こしての退蔵、日露戦争後の不況にあった。


図15 玄米上1石あたりの値段の動向
(『県史近代』統計(二)により作成)

 『信毎』は「驚くべき貨物の減少! 運輸業者は青息吐息」、「花柳界は淋しい」、「宿泊客は無い、市内の各旅舎 木賃宿は大繁昌」と不景気風の吹く四十二、三年ころの年の瀬の長野市のようすを紹介している。

 長野県の人口は明治三十三年一二四万人、四十三年一四〇万人、大正九年には一五六万人となり、二〇年間で約三〇万人の増加をみている。四十三年以降は一四〇万人から一五〇万人台の人口を保持しており、一人あたり年一石一斗の米を消費すると仮定すると、年間の米の消費量は一五四万石から一六五万石となる。ところがこのあいだの米の生産高は一三五~一五〇万石で、米の生産は消費量に追いつけず、米の移入県であった。『信毎』もこのような状況を「我信州の食糧不足を補うべく他から輸(はい)って来る米穀は三十万石、其国別は新潟・富山・岐阜の三県であるが、富山・岐阜はホンの名前に列(つら)なるばかり、九分までは新潟県独占の輸入である」と報じている。長野市も市制施行以来一〇年間で年平均約一五六戸、九一四人と人口の増加をみせ、賃稼ぎをする労働者が増える傾向にあった。

 明治三十年度の市制施行当時、市民一戸あたりの負担する市税は三円一六銭であったが、日露戦争後の市町村財政は教育費・土木費・役場費などの増加で膨脹し、四十一年度には一六円九六銭と負担は約五倍となった。そこに四十年からのデフレがまともに影響し、市民生活を圧迫させた。市税滞納者は納税義務者の過半数の五三パーセントにも達し、市では納税未納者の差しおさえのため赤塗車を新調、その整理にあたらせた。滞納者は、中流以上の階層に多かった。四十三年の予算編成当時の総戸数は七一七五戸で、そのうちの約二割が一戸平均七三円強を納めなければならない中流以上のものたちであった。「滞納の夥(おびただ)しきを以(もっ)て聞こえたる長野市の市税が全国に於いて最高位にある」とその状況を『信毎』は報じている。仮に一戸平均として市税を割りあてるとすると、四十二年の時点で一六円七五銭となる。その高いことに驚いた市民のなかには、負担に耐えられずに郡部に移住し負担を逃れようとする動きもでてきた。

 米価の高騰は、こどもたちの生活にも多大な影響を与えた。長野市内の小学校三校では、長期欠席の児童一六二人を数えている。その半数は、貧困家庭であった。

 市内の小学校に通う、ある六年生の男の家庭の事情はつぎのようであった。父は職人だけれどほとんど仕事がなく、農家の作業の雇いに頼まれて働きにでたが、日給はわずか三、四〇銭であった。それも雇われるものが多いため、毎日仕事にありつけるわけではなく、よい働き口が見つからず、父は仕事を休みがちであった。そのため六年生の男の子も学校は休みがちで、たびたび学校から就学の督促をうけても、申しわけに二、三日顔を出してすぐに行くのをやめてしまう。米の値段が高くなり三度の食事にも事欠く状態で、粉米に豆腐のからを混入したものを食べ、辛うじて飢えをしのいでいるというありさまであった。

 少女たちのなかには、義務教育を終わらないで製糸工場に入社するものたちも数多くいた。それは一家の口を減らすことにもなり、工場では食事だけは十分にとることができるからであった。