長野市の米騒動

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大正七年(一九一八)八月十七日夜から十八日早朝にかけて、長野県最大の米騒動が長野市でおこった。いわゆる米騒動は、七年七月十八日、富山県新川郡魚津町の漁民の妻女たちが、米の安売りや移出禁止などを要求して、行動をおこしたのが始まりである。青森・岩手・秋田・沖縄の四県をのぞく道府県の四九市二一七町二三一村でおこり、鎮圧のための軍隊の出動は一〇七市町村におよんだ。

 米騒動の原因は、①資本主義の発展による労働者の増加や都市の発達にともなう米の需要にたいして農業生産力の伸びがおそく、食糧不足となったこと、②第一次世界大戦による物価の騰貴が人びとの生活を窮迫させたこと、③ロシア革命への軍事干渉としてのシベリア出兵の動きがあり、それをみこした地主・米穀商の売りおしみや買いしめがさらに拍車をかけたことなどにあった。

 長野市の場合の米価の動き(表62)は、一升あたり五月で三〇銭をこえ、六月には約三五銭、八月にはいると四〇銭から五〇銭の高騰ぶりであった。大正七年八月一日現在、長野県下一六市町の一日の労働賃金の平均は男子で九一銭、女子で六八銭であったから、米を購入して生活する市民にとって、米価の高騰が日常生活に大きな影響を与えたのである。


表62 大正7年6月~8月米価の変動 (1升の値段)

 八月九日上水内郡役所は、郡下の村々にたいして「米価暴騰による村民の生活状態」の調査をおこない(表63)各村長に報告させた。これによれば、賃労働者の労賃が上がり、多少生活にゆとりができ、市街地のような惨状はないと報告したのは大豆島・朝陽・七二会村である。村民のなかで中・上流のもの(中農、上農)はたいした影響がないとほとんどの村が報告しているが、米を購買する農民には影響があるとしている。なかでも一番の影響を受けているのは村により違いはあるが、小農あるいは労働者、日雇いなど外米や麦を混ぜて暮らしている状況にあるものであった。したがって、この時期外米や麦の需要が増加の傾向にあったので、村の為政者は概して長野市に比べたら米価高騰は生活にはたいした影響はないととらえているようである。しかし、三輪村のように村費で米価調節をせよという声があがるなど、村により大きな影響を受けていたのである。


表63 米価暴騰による村民の生活状態(8月17日以前調査)

 長野市では七月十二日の夜、窮民七〇人が米価問題で城山公園に集まる動きがあった。しかし、当日雨のため特別な行動をおこすことなく、平穏にことがすんだ。長野県は他県の情勢や県内の動きなどから、十三日内政部長名で各郡市長に、①多数の米穀を所持する地主や商人が売りおしみや買いしめすることなく、速やかに米を処分し供給すること、②このような事実のあるときは暴利取締令を適用する、との『所持米売惜取締ニ関スル件』を通牒した。しかし、長野市ではこの指令が遅きの感をまぬがれなかった。長野商業会議所は外米直売を計画し、さらに市費補償による白米の廉売を市長に申しいれたが、市長はこの申しいれに消極的で、市会も内地米を除外し外米だけを補償すると決議しただけであった。八月十日を過ぎると米価はますます高騰したため、十五日の市会は市費の二万円支出を決議、廉売所を四ヵ所に設置し、一升三〇銭より五銭安に廉売すること、そのための廉売有資格者調査実施の対策をたてた。しかし、この対策もまた間にあわなかったのである。

 十六日夜半、市内数ヵ所に「米価引下市民大会 十七日午後六時ヨリ長野市紀念公園ニテ」と書かれた張り紙がはられた。この米価引き下げ市民大会は、『大日本新聞』長野支局主任小林哲治と『北信毎日新聞』『信濃目醒(めざまし)新聞』通信員長田(おさだ)豊作によって計画されたものであった。かれらは、米穀商が一升四〇銭以上で米を売っているのに憤慨し、市民大会を開いて米価引き下げの方法を講じようと考えたのである。十七日早朝米価引き下げ市民大会開催の張り紙をみつけた長野警察署は、警戒を厳重にして城山公園に巡査を派遣、公園の隅々まで数十人を配置した。

 当夜城山公園には午後七時ごろから市民が続々おしかけ、午後一〇時には一〇〇〇人を数えたといわれる。長田豊作は集まった群衆に向かって「米価は全国で長野市が一番高い、内地米一升四十二、三銭を三五銭に、外米は二一銭に引き下げるのが相当である。市民大会の決議を新聞に発表して米穀商を反省させよう。」と演説した。つづいてひとりの男が「米屋に押しかけよう」と演説、それにつづいて五十嵐寿米雄が「長野市会が救済費として議決した二万円支出は不当で、富豪者の寄付金を頼み、市長・市会議員らを訪問して決議の撤回を頼もう」と呼びかけた。

 その後集まった市民は、米の廉売を要求する行動に移った。『信毎』はそのようすを「群衆は件(くだん)の男を先頭に牧野市長宅に押し掛くべく園内より雪崩(なだれ)いでたり、一方市長宅にては逸早(いちはや)くこれを聞知し門前には正服角袖巡査十数名詰め寄せて警戒せり、されど公園を出でたる群衆は市長宅方面には進まず元善町を下りて警察署に押し寄せ、小時は同所を囲みたる。」と報じている。

 いっぽう群衆の一部約五、六百人は、権堂町・西後町・南石堂町・伊勢町などの米穀商二〇軒(二七軒ともいう)の格子戸をたたき板塀をたおし、投石をくりかえし、米の廉売を要求した。米屋は一升三〇銭を主張したが、しかし群衆は一升二五銭を要求し、最終的には店の表戸に「手持ち分白米一円に付き四升」の張り紙を掲示させた。権堂の穀屋の女主人は、その状況を新聞記者に「何だか面食らってしまってこんな事は生まれて初めてだ、何せ大勢の中から腕組で出た人達が三〇銭で売れ、それは高い二五銭で売れ、それでなければ火を付けるというんで私と爺さんは奥へ逃げこみ、女子一人出しておいた」と語っている。米穀商のなかには、桜枝町の米屋のように群衆の動きを敏感に察知し、「明日より一升二十五銭」の張り紙を出し、群衆の機先を制する動きもみられた。

 『信毎』が「穀商は何れも二十五銭廉売を承諾しその旨張出たり」と報じていることから、市民大会および群衆の廉売要求の行動は民衆側の要求がとおったといえる。この夜突然群衆の襲撃を受けた米穀商は、「恐怖と混雑に漸く眠りに就いたのが大概午前四時ごろ」だったという。

 ところが二時間後の午前六時ごろ、約束の一升二五銭で米を求める買い手がはやくも米屋の戸をたたいたのである。買い手のほとんどは、窮民層であった。しかし、買い手への米穀商の対応は「買い手一人に米一升しか売らない」措置をとり、なかには「今日は何(ど)うぞ一升だけで御勘弁を願いたし」と買い手に断る場面もみられた。ある米屋は当日売った米はわずか四、五俵にすぎなかったという。

 廉売のあった十八日の夜も、再び市民大会が開かれるといううわさがたった。長野警察署は管内巡査を非常招集し、須坂警察署からも応援をもとめ、午後六時半ころから城山公園入り口や善光寺付近に十数人の私服巡査を配置し、警戒態勢をとった。午後九時ころになると厳重な警戒にもかかわらず東公園には三〇〇人ほどの群衆が集まったが前日のような動きはみられなかった。この日、長野中学校では長野にいる生徒を臨時招集し「市内群衆の運動するさいには外出するなかれ」とさとしたり、長野警察署では秋祭りを中止したりした。

 日本弁護士協会の長野市米騒動の調査によると、長野市では十七日夜中に四〇人ばかり(『信毎』は「五十六名徹夜の取り調べ」と報道)、十八日に二人、二十二日に一人の計四三人が検挙されている。報告書のなかの長野警察署長の談によれば、検挙者四〇人のうち二七人が裁判所に送検、うち四人が収監、残りの二三人は略式命令処分となり、一二人が警察犯処罰令で拘留処分、取り調べののち釈放された。収監者四人の職業は新聞記者二人、職工一人、屠殺業一人で、いずれも年齢二〇歳から三〇歳であった。日本弁護士協会は、この騒動の一連の警察の取り調べにたいし、「検挙者の数に比べ、釈放者の数の少ないのは警察が被検挙人必罰主義をとり釈放を惜しんだり、拘留者が正式な裁判を仰ごうとするのを警察が多少妨げている」などとうわさや風説がおこっていることも『報告書』のなかで記録している。


写真94 大正7年8月19日付け米騒動を報じた『信毎』

 この時期の全国におこった米騒動は、社会の秩序を乱した騒擾(そうじょう)事件とされたところに特徴があった。日本弁護士協会は動乱の原因、騒擾の情態、鎮圧の方法、人権問題の有無等について全国各地の米騒動を調査しているが、長野県下の米騒動を「長野県下では松本・上田・上諏訪・伊那町等に不穏な状況はあったが、警察が民衆の大衆行動をさせないようにかなり厳重に警戒したため騒擾事件にはならなかった。そのなかにあって長野市の米騒動は最たるものである」と判断している。

 『報告書』のなかでの十七日夜の米価引き下げ市民大会や米穀商への米の廉売の要求の状況は、①八月十四、五日ごろより不穏の文字を記した張り紙をするものがあらわれる。②十七日夜なんとなく公園に集まるもの少なからず。③一酔漢が酔に乗じて米屋の悪徳を挙げたり、市役所の救済金支出は誤りで富豪が寄付すべきであると過激な口調で演説。④群衆のなかから「米屋、米屋」と叫びがあがり、約一〇〇〇人ばかりが隊をなし、市中の米屋に殺到し廉売を迫る。⑤米屋の「一升二十五銭宛廉売」の張り札に群衆は満足し、暴行することなく市中を練り歩く。⑥張り札を出さない二、三の米屋には投石をする。⑦米屋以外にも投石された一資産家があるが、これは平生高利貸しを業とする不徳家である。⑧暴行者の検挙について群衆の反抗を招き、警察署に投石があった。⑨群衆は夜一、二時ころには全部退散し、十八日以後市中はまったく平穏となった。⑩暴行者は土地在住のもので他から入りこんだものはいない。知識階級に属するものは詢(まこと)に少ない。などであり、全国の騒擾事件のなかでもその規模は小さいほうだとみなしている。

 長野警察署は、公園に集まり騒擾に加わった群衆の約三分の一は郡部から来たものであると判断し、十八日午後三時には郡役所にたいし、しかるべき注意を与えるよう指示を出している。上水内郡役所では芹田・安茂里・大豆島・古牧・三輪・吉田の各町村にたいし、四、五人で連れだって長野市に行くことを控えるよう指示を出したり、青年会や消防組、軍人分会にも警戒にあたるよう協力をもとめている。吉田町の町長丸山与兵衛は、青年団長の立場から青年たちの市内の徘徊(はいかい)、騒動参加をしないよう吉田町青年団員に異例の訴えを出している。

 長野市の米価引き下げ市民大会や米穀商への廉売要求に呼応するかのように、周辺農村でも同様な動きがみられた。十八日、篠ノ井町では「今夜米騒動が持ち上がる」とのうわさがだれいうとなく流れた。管内巡査は非常招集され、また消防組も動員されて徹夜で警戒にあたった。十九日夕七二会村でも村民大会開催のうわさが流れ、柵村(上水内郡)からは村民が大挙して長野市に押しかけるといううわさがたった。また二十二日には大豆島村でも、村民大会を開くなどの風説がたった。騒動後の周辺農村への影響も大きかったのである。

 いっぽう長野県は、内政部長名と警察署長名をもって八月十八日、治安を維持し、騒擾の未然防止のために、機会を逸することなく自守自衛のための対策をたてるよう市町村にたいし内示を出した。それから一ヵ月後、上水内郡会は郡下町村にたいして「米価暴騰ニ基因スル騒擾防止ニ関スル件」を通知し、町村からの騒擾防止の対策を報告させた。その目的は「各地方ニ於ケル人心動揺、或ハ自町村ニ波及スルモ計リガタク、警察署、駐在巡査、在郷軍人分会員、青年会員等ト計リ、其町村ノ状況ヲ観察シ、万一不穏ノ兆シヲ系セル場合ハ互イニ通報ヲ発シ之等団体ノ集合ヲ求メ速ニ鎮圧」させることにあった。その報告は表64のようである。これによれば、その方法は町村によって大きく違っている。柳原・浅川・芋井・安茂里村は特別な対策はとっていない。それにたいし大豆島・若槻・古牧の各村と吉田町は、郡役所の指示どおりの防止策をたてている。また吉田町や朝陽村のように、騒擾の未然防止を訴えたビラを全戸に配布したところもある。なかには七二会村や小田切村のように騒擾罪を学んだ村もあった。


表64 各村の騒擾への対策 (大正7年)