市町村の米騒動対策

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政府は米騒動を鎮静するため、国庫から米の強制買収費一〇〇〇万円を支出するとともに、天皇の内帑金(ないどきん)三〇〇万円を下賜した。長野県へは七万三〇〇〇円が賑恤(しんじゅつ)金としてあたえられた。大正七年(一九一八)八月十五日朝、県は警察電話を利用して各郡市あてに表65のように配当金額を連絡した。配当率は大正六年十二月末現在の人口を標準にし、さらに窮民のもっとも多い郡や上田、飯田などの市街地をもつ郡、長野松本などの市街地に多くを配当した。配当金の使途は郡市に一任したが、この配当金と地方有力者の寄付金をあわせ白米廉売の補償金にあてること、外米や貯蔵米の購入費用とすること、の指示を出し、さらに内務部長は天皇の内帑金下賜という「聖恩」の趣旨を一般に周知徹底させることを強調した。


表65 窮民救済御下賜金郡市別配当額

 内帑金下賜にたいして、一六八円を受けた上水内郡大豆島村では、村長西沢平作が「聖恩優渥感激ニ耐ヘス此ニ聖旨ノ存スル所ヲ奉体シ」と感激の意を表明し、村民には「其家族一人当リ一日二合宛所定ノ期間時価ヨリ一升ニツキ拾銭ノ廉額ヲ有スル廉売券ヲ交付ス」と告示し、廉売券交付による米価廉売の対策をとっている。朝陽村長丸山寅吉も村民にたいし「本村ヘ配当セラレタルニ対シ実ニ感謝ノ至リニ耐ス」「現今ノ国家ノ情勢ニ鑑ミ国威発揚ニ尽力セラルベシ」と声明、村民自ら日常業務に専念し自給の道を講じるよう精神面からの現状克服の方法をとった。埴科郡議会議長北沢直之助は「聖旨ヲ奉体シテ専心力ヲ郡民救恤ニ竭(つく)シ奉公ノ誠ヲ捧ゲ以ッテ聖旨ニ対ヘ奉ランコトヲ期ス」と奉答した。

 賑恤金下賜の通知を受けた埴科郡役所は、郡町村その他の公共団体において米穀を一定の価格で廉売すること、その買い入れ相場にたいする差額の損失を町村で補償すること、地方有力者の寄付金をもって損失の補償にあてることを具体的に指令した。寺尾村長阿部長右衛門は、県税戸数割五三等級以下のものにたいし外米の原価販売を要請、その外米購入の費用は村内有力者の寄付で補償し、不足する場合は村費で補償することを答申し、さらに東京の三井物産株式会社に外米の価格、篠ノ井までの到着日数などの照会をおこなっている。松代町長矢沢頼道は埴科郡の米価廉売の動きを「十七日米価の件で町村会を開催、翌八月十八日にも米廉売の件で町会議員・区長集会を開く、十九日から米一石三十九円を二十五円で白米廉売の実施」と「日記」に書き留めている。

 また、清野村の近藤静次郎は、九月七日の日記に「午後、村会議員等二名来たり、窮民救済米の義捐に来たり、故に金五円を義捐す」と書いていて、清野村でも村の有力者の寄付によって白米廉売をすすめていたことがうかがえる。

 各町村の米の廉売は同月二十日前後から始まった。その方法は表66のように、各町村ごとにそれぞれ独自の方法が取られている。ほとんどの町村が内地白米の廉売であったが、三輪村や吉田町、若槻村のように大麦を廉売したところや、安茂里村のように外米だけを廉売した村もあった。村内の米穀商に廉売を委託したところがほとんどであったが、柳原村のように役場が請けおったところもあった。救済の対象者の決定は村によって違いがあるが、大部分は県税の戸数等級割によって決められている。救済資金は御下賜金のほかに村内外の有力者からの寄付金によった。一般寄付金は町村の募金額によって高低があった。吉田町・三輪村・安茂里村などは多額の寄付金が集まり、古牧村・朝陽村など皆無の村もあった。


表66 窮民救済施設調べ (大正7年10月現在)

 大豆島村では村内の米穀商五人に米の廉売を委託し、店頭には米の廉売所である表札を掲げさせ、廉売渡簿を備えつけさせた。そして村内の窮民一〇六〇人(県税戸数等級五〇等以下の戸数二三一戸、家族九九四人、等級外二六戸、六六人)にたいして八月二十四日から九月十七日まで有効の「窮民一名ニ対シ白米五升」の廉売券を交付した。窮民の救済資金は六〇五円余で、そのうち村内有力者の寄付金が一一八円余、六二円が農工銀行および信濃電気の寄付金でまかなわれていた。古牧村では、八月二十二日から九月二十日までの三〇日間を廉売期間とし、内地米・外米共に一升について一〇銭の廉売をおこなった。村内の窮民は九一戸で、三四一人が対象であった。三輪村では、白米七合に麦三合を入れた混合米を一升三五銭で廉売した。一般希望者には外米を原価で販売した。吉田町では九月に入り、一升二五銭を二八銭まで価格を引き上げて廉売を実施した。町長丸山与兵衛の「民心全ク安定シタル」という判断から、廉売を九月二十日で打ちきっている。朝陽村では八月二十五日から一五日間、最困者には一升につき一五銭、次困者には一升について一〇銭の割合をもって廉売をおこない、それ以後は外米二四〇袋を購入し、村内全戸に配布した。古里村では期間を四回に分け廉売を実施し、村内三二九戸、一〇七八人を救済した。若槻村では八月十八日から二十四日まで、第一回目の廉売を実施した。村内の救済者二五二戸に、一人二枚あての割引券を発行する方法をとった。二回目は二十六日から三十日まで、県税戸数等級四一等中三五等より末等までを対象とし、米、麦の一〇銭安の廉売を実施した。三十日には村内の米穀商に村農会が資金を出し外米を購入、九月七日まで三回目の廉売をおこなった。四回目は十六日までであった。浅川村では八月二十五日から一六日間を御内帑金と中央寄付金で、九月五日からは村内篤志者の寄付金で廉売をおこなった。芋井村では八月十八日区長会を開催し、窮乏者一人に一日二合の割合で割引券を交付した。七二会村では外米一升一七銭の廉売を実施、小田切村でも外米に重点をおき廉売をおこなっている。安茂里村では廉売切符を発行し一人に三升あて、外米は一升一〇銭で販売をした。

 米の廉売期間はおおむね一ヵ月と決められたが、廉売閉鎖の時期は表66のように各町村の実情に応じてまちまちとなっている。また、救済資金の十月中旬までの窮民救済資金収支状況は、表67のようである。各町村とも収入にくらべ、支出総額がそれを下まわっており、資金は各町村とも残金となっている。残金は窮民救済資金として積みたてられたり、米が少なくなる端境期の廉売資金にあてている。


表67 窮民救済資金収支状況調 (大正7年10月15日現在)

 米騒動のおこった長野市は、八月十八日から九月三十日まで内地米の廉売をおこなった。これに先立ち十七日午後三時から市役所に各区長が招集され、廉売実行委員一五人を選出、廉売方法について協議し、①廉売資金には御下賜金・篤志寄付金・市費をあてること、②米の渡し場所は東ノ門町寛喜庵・市役所内水道倉庫・後町会議所・石堂町の四ヵ所とする、毎日午後三時から午後八時まで、③米券売さばき所は米の渡し場所付近に設け、代金引きかえで米券を渡し、米券と引きかえに米を受けとること、米券売りさばきは毎日午後三時から午後七時までとする、④廉売は一回一升以上一斗を最高限度とすること、県税等級四〇等以下のものに米価特別割引券を交付することなどを取りきめた。

 横沢区長代理の高橋彦三郎は午後五時市役所から帰ると区長宅で臨時の常設委員会を招集し、夜中の一二時まで米価特別割引券交付の該当者調査について相談をおこなった。翌十八日午前八時から午後五時まで該当者の調査をおこない、夜中の一二時までかかって割引券交付簿を作製した。その日市役所からは割引券四五四枚が届き二十一日に該当者に配布した。九月に入り、県税等級四〇等以下のものと救済を必要とするものの再調査をおこなった。同月六日第二回目の割引券配布該当者名簿をつくり、七日は八四〇枚の割引券を配布した。

 長野市全体では一升二五銭の米を買う資格のあるものは県税四〇等から四四等までのあいだでその戸数は三二五六戸を数えた。また一升三〇銭で買うことのできるものは二一等から三九等のものでその戸数は四〇九五戸であった。廉売の米の購入は遠慮するようにと市からいわれたものは二〇等以上のもので二四六戸となっており、そのほとんどが廉売の対象者であった。

 『信毎』は市役所吏員販売係の感想について「午後二時半頃千歳町の売り出し所に出かけてみると二百五十人からの人数が風呂敷を小脇に抱え延々長蛇の如き陣を張っておったのにはうんざりさせられてしまった、早速売り出しを始めるとソレ二升ヤレ三升とものの三四時間は便所へ行く隙(す)きもなければ勿論(もちろん)一服煙草を吸う時間すらない、少してまどっておるようものなら女房だてらのあられもない声を出して『何ぐずぐずしているんだい早くやっておくれよ足が棒になってしまうよ』と巻舌でお叱(しかり)を受ける始末、廉売も日が経つにつれてお客様に有り難いという神妙な心が失せて、買いにくるのは当たり前だといった気に変化するのはどうしたものだろう」「長野市の廉売は連日非常に好売れ行きを呈しているが殊に内地米の一斗口を買う者が頗る多い、此分では内地米は直に売り切れとなり一般の手に渡るものが少なくなる、然るに外国米の売れ行きは内地米に比し頗る悪くて其一割位にすら当らぬ」と報じている。

 内地米に比べ外米が売れない状況や貧窮市民と市の廉売政策の関係を『信毎』はつぎのように分析している。「長野市では特別割引券を出しておる者に対して外国米一升十銭で売ることになっている。特別割引券の配布を受けた者は市の戸別等級にすれば四十等以下にある人達で月給取りにすれば月収十八円以下の者に限られている。職工にすると一日六十銭位の日当を取り得ない人達の階級だ、全市戸数の半分を占めて随分生活状態は苦しかろうと考えられるのに市で売る一升十銭の外国米がろくに売れて行かぬところをみると内地米の値段の高いのを食べておるのに相違ないのである。」と、このように長野市の米の廉売は多くの矛盾を露呈させたといえる。


写真95 大正7年米価騰貴のさいの廉売資金寄付の感謝状 (鈴木陽所蔵)