職業紹介の開始と方面委員制度

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国は失業防止と労働力の需要調節が必要となり、大正十年(一九二一)四月に職業紹介所法を公布した。長野市も市役所内に同年五月五日、市立職業紹介所を創設し、七月県知事から紹介所の設備・職員定数を認可された。大正十年代後半はほぼ求人数が求職者を上まわっている。求人者の職業は商業・家事使用人・鉱工業が上位をしめ、求職者は雑業・商業が上位をしめていた。

 大正十二年九月の関東大震災の罹災者が、四〇〇人も市の職業紹介所をおとずれ、百八十余人が就職したと『信毎』は報じた。この年は平常と異なっていた。大正十四年は米価の値上がりなどで求職者がふえた。求人が保険外交員・牛乳配達人・土木作業員にたいし、求職者は事務員・書記からの転職ということで、うまく一致しないと紹介所職員が嘆いている。このころから翌十五年にかけては求人が減るのに不況のため求職者が増加し、さらに失業者が増加するという状況がみられた。

 大正十四年十一月中央職業紹介所長会議から帰った大久保長野所長は、少年の職業紹介所をおき、来春から卒業生の紹介を開始すると報告したが、じっさいには翌十五年の児童の一七人求職のうち、就職できたのはその半分にすぎなかった。昭和にはいって職業問題は、恐慌により失業が続出し、きわめて深刻な事態になっていた。

 大正十二年全国府県のうち八番目に、長野県に方面委員制度が作られた。方面委員は地域の一般篤志家が中心になり、自治体を補充して生活困窮者の相談相手・救済指導にあたり、ことに昭和初期の恐慌下に活動した。これは第二次世界大戦後の民生委員の前身である。

 長野市では、大正十三年四月一日に方面委員制度をつくり、市内の篤志家の努力により、方面委員の助成機関として長野方面事業会を設立した。事務所を市役所内におき、はじめは窮民救済・児童保護・授産・生業資金貸与・浮浪者保護などにあたった。その後、昭和二年(一九二七)一月市内北石堂町に長野保育園を設立し、同九年十二月には授産部事業を拡張して、東町の中野会館内に授産部を開設している。授産部では、生活困窮者を会館に集めて手仕事をさせ、その報酬として金を与えるものである。

 方面委員数は昭和二年度一二人であり、同六年度には二二人に増加している。二年度の委員には、三島藤七、藤井伊右衛門、中沢与左衛門、大沢長之助ら有力者層の名前があり、同六年度には武井より、宮下静野、吉沢ひさなど女性も就任している。上水内郡・更級郡・埴科郡など郡部の町村にもおかれた。

 旧長野市の方面委員事業の決算をみると、昭和二年度五九〇四円、同八年度七二九五円としだいに増加している。事業の取りあつかい状況は、昭和二年度~十一年度の累計では、保育事業が最高の一九万二千余円、つづいて貧困者救助一二万余円、授産事業四万一千余円がおもなものである。同じ年度の取りあつかい件数では、救護一万七一二一件、救療四六五九件、相談指導二五五一件、その他一万三一五六件、計四万一二三六件となっている。

 大正十三年十二月の上水内方面委員総会は、次年度に社会奉仕デーの宣伝ポスターと慈善袋の配布、慈善箱の設置と助成金設置などを実施することを決定した。長野市でも同十四年十月全市の貧民調査、助成袋の配布、年末餅と年取り魚の配布などを実施している。

 昭和五年農村恐慌が深刻となり、失業者が増加するのに対応して、長野職業紹介所を市役所内から独立させ、五年五月市内山王(長野市北石堂町)に七〇〇〇円を投じて、二二坪の和洋折衷式の建物を建てた。同年長野・群馬・山梨・新潟・富山の五県を管轄する、長野地方職業紹介事務局を長野市職業紹介所内に計画、六年七月一日から開業した。これは管内四〇ヵ所の職業紹介所を統括している。

 五年十一月、県社会課が長野市長門町に公益質屋(のち長門屋と命名)を開業、質種はやはり衣料が多かった。これはおもに零細な商工業者や俸給生活者が利用した。六年四月からは日本放送協会長野放送局(JONK)が求職・求人・就職・賃金について放送を計画した。また、十二年十二月には長野市三輪田町に市社会会館ができ、テンポは遅いが徐々に社会施設ができていった。