市町村の教護と救護事業

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明治四十三年(一九一〇)五月、海津学舎は埴科郡西条村(現長野市)の白鳥山麓に移転新築して実業を重視する感化教育を推進した。移転直後に学舎を見学した『信毎』の記者は、そのようすをつぎのように報じている。

 「僅(わず)か一年余りの経過であるから、成績云々は見る能(あた)わざるも、記者の見たる処によれば、舎内はあたかも一個の家庭の如く、児童は年長者を兄さんと呼び、年少者を何々さんと呼びて、その間情愛のきたすべきものがある。何(いず)れも能(よ)く教師に従い、学業に励んでいる。かつて一度ある女教師に対し反抗した事があったのみであると。先(ま)ず地方感化院の成績としては好成績と言わねばなるまい。」

 大正十年(一九二一)五月十日、海津学舎は創立十二周年記念式を挙行した。この日は一七歳の少年二人に喜びの退舎証書が授与された。両人は不良少年として入舎以来精進努力して、社会人として職につくことになったのである。A少年はかつて放火犯であったが、長野市内の某理髪店に就職が内定し、B少年は某商店の店員に内定していた(『信毎』)。

 海津学舎の教育課程の特色は、実業を重視することであった。畑(一九八〇平方メートル)、原野(六万二七〇〇平方メートル)を借り、それを農林業の実習地として利用し、養蚕業を主体にした労働教育を実践した。この時期の非行少年は、家庭的に貧困者の子弟が多く、その教育方法は社会から隔離して懲治(ちょうじ)するという空気が濃厚であった。

 大正期になってから非行少年が増加したため、大正五年ごろからその拡張が叫ばれたので、同十年に東筑摩郡波田村(波田町)に分院波田学院ができ、十二年に海津学舎は廃止された。翌十三年には小林喜十が信濃共済会をつくり、その建物と敷地を引きうけ、私立の感化事業をつづけた。


写真96 松代町の海津学舎全景
(『思い出のアルバム長野』より)

 このような少年を対象にした感化事業のほかに、長野県では明治四十三年から、刑期を終わって出獄したもの、刑余の釈放者(免囚)を保護する免囚保護事業を実施していた。

 信濃福寿園は、明治四十二年七月上水内郡安茂里村(長野市)に設立され、民間の司法保護団体として、釈放者の直接保護をはじめた。この施設はのちに長野市西長野に移転した。仕事の中味は出獄者を保護し、その自立と社会復帰を助けることにあった。

 善光寺の大勧進養育院は、明治四十年代にはいって収容者が多くなり、幼年者と老年者を同居させていた。

 当時の養育院の実態について、明治四十二年五月の『信毎』は大要つぎのように報道している。収容するものは現今三七人、このうち老年者が男女各一〇人で、院児の方は男が一〇人、女が七人である。老年者は一番の老人が八一歳のお婆さんであるが、なかなか達者で同院の病人の看護婦役である。院児一七人のうち三人は当人の希望で奉公に出て、三人は里子からまだ帰らず今は一一人いる。このうち小学校へ進学するのが八人で、四年生が二人、三年生が二人、二年生が四人でいずれも学校の成績はよい。毎朝五時に起きて、良家のこどものようにだだもこねず殊勝にも如来様の前にぬかずく、夜は八時になると世話もかけずに黙って寝るが、とにかく温かい家庭のようにできないのは仕方のないことだ。

 この同居生活が幼年者の訓育上好ましくない状況となったので、老幼分離の問題が浮上してきた。そのようなとき、明治四十三年十二月、内務省嘱託生江孝之が視察に来院し、児童室新設の要望もあって、四十四年大勧進内の真田邸に育児部一棟を増築することになった。そして同年五月二十三日これが落成した。この児童棟は桁行(けたゆ)き七間半(約一三・五メートル)・梁間(はりま)三間(約五・四メートル)で玄関と便所を合わせて二六坪一合(約八六平方メートル)であった。これによって児童・幼児の収容室を分離して保育することができた。このときから専任の保母をおいて保育できたので、以前に比して児童・幼児の保育は格段の進歩をみた。

 経理の面では慈恵米と称する白米の寄付の勧誘をおこなったので、これも養育院の運営に寄与する点が大きかった。また、収容者を売り子として、山門近くや大勧進前に土産品の売店を出して、年平均五二八円の収入をあげた。その後、さらに保育の充実のためにはせまい現位置を離れて、幼児部の移転新築の必要性が叫ばれるようになった。


写真97 大勧進養育院内の老人のお茶の会
(依田康資提供)

 そこで、大正四年十一月、大正天皇即位記念事業として、育児部三帰寮の新設方針を決定した。敷地を西長野加茂神社裏にもとめて、購入・建築資金の調達などをして、昭和三年(一九二八)十一月十八日、三帰寮の開寮にこぎつけた。

 長野市域にはこのほか更級郡更府村の真龍寺(長野市)経営の養育園があった。明治四十五年には布施村春日慈恵院が解散されたため、同院収容の孤児四人を引きうけて院児は一五人となった。院主の三輪師は熱心に檀家を説得して賛同を得た上で、将来さらにより多くの孤児等を収容しようとしていたという。


写真98 石渡青年会「矯風会」の養育院への米の寄附に対する感謝状
(石渡区有)