大正期に入って小作人組合が長野市域に組織され、小作争議がおこりはじめる。第一次世界大戦の影響により日本の蚕糸業が繁栄し、農村好況をもたらしたため、日本有数の蚕糸県である長野県でも農家戸数が大正九年(一九二〇)には二一万戸を上まわった。しかし、大戦後の戦後恐慌のあおりで二〇万戸台に下がり漸減する。
長野県の一戸あたり平均耕地面積は、明治四十四年(一九一一)には八反一畝一五歩(田三反六畝一八歩・畑四反四畝二七歩)にたいし、全国平均は一〇反五畝歩で、県平均は二反三畝一五歩せまい。また、大正九年でもやはり県平均の八反三畝二四歩(田三反六畝一二歩・畑四反七畝一二歩)にたいし全国平均は一一反二七歩で二反七畝三歩全国よりせまい。また、明治四十三年から大正八年にいたるあいだ、専業農家が増加して兼業農家は減少した。自小作別では自作兼小作がもっとも増加し、小作農がそれにつぎ自作はわずかに増である。耕地所有別階層は表68のようであり、最近一〇年間では中農層がやや減少し、三町歩以上の大農がやや増加している。
大戦末期の大正七年には、労働者の労賃や日雇稼ぎの労賃も小作よりよいというので、小作の廃業が話題になってきた。大工・石工は一日二円近く、労賃の安い田の草取りでも一円、夏秋蚕の労賃でも一日一円前後という。小作人は換算すると一反歩につき一年に二〇円くらいにあたる程度で、高い肥料を使っては大変だということであった(『信毎』)。また、農村の二、三男は都市へ移り、農村の労働力の欠乏を補うのはむずかしい状況であった。
大正期になると、第一次世界大戦後から全国と同じく長野県でも小作争議が少しずつふえはじめ(表69)、それまでの一けた台から二けた台となった(大正十一年度一五件)。長野市域の上水内郡・更級郡などの村落にも、小作争議がみられるようになった。
この時期、小作契約の実例をみると地主に有利に結ばれている。大正十一年六月の上水内郡各町村の小作契約を『信毎』でみると、従来大部分は口約束であったのが、このごろ小作争議が頻発する傾向にあるので、証書契約が多くなりつつあるが、しかし、地主に有利である。上水内郡吉田町の例では、小作人は籾(もみ)一俵一六貫目の割で年々十月二十日までに、必ず納めるとし、約束どおり納められない場合は、保証人が引きうけて代弁する。なお地主が土地入り用の場合はいつでも返却する、というものであった。
この証書では不作の場合でも別に規定はなかった。上水内郡北小川村の契約例でも不作といえども減免の請求はしないとあり、南小川村でも豊凶に関係なく契約どおり納めるとして、総じて小作人は割引を要求したりしないとしている。
しかし、長野市域の平坦(へいたん)部で、大正十二年小作料減免の小作争議が活発になってきた。上水内郡安茂里(あもり)村では、同年三月農産物価格低落と小作料引き上げにたいし、小作人の死活問題だと小作人組合を設け三割の軽減を農会長に陳情した。農会長は地主を招集して伝えたが、地主側は一割軽減を主張してゆずらず、けっきょく小作人側がおれて解決した。この交渉中に小作人側は小作地の返還と村消防手の辞職の戦術も出している。上水内郡古牧村では大正十二年に地主・小作人申しあわせて二割引きに決定した。同郡三輪村では小作人たちは同村時丸寺に集まり大正十三年三月一〇俵取りにたいする一日一人の労働収入は一三銭五厘に過ぎないとして四割引きを要求、地主の出席は少なく協定にならなかった。小作側は土地返還をきめた。
更級郡西寺尾村では長期にわたって小作争議が紛糾した。大正十三年十二月、当年の旱(かん)ばつ、人夫賃の上昇などを理由に二百数十人の小作人が減額を要求、農家組合長ら六人の小作代表が地主を訪問し、地主側は将来の例になるといって拒絶した。仲介に入った村長は、人夫賃などの費用は見舞金の形で円満解決を斡旋(あっせん)した。大正十五年四月西寺尾村水沢の典厩(てんきゅう)寺で、三〇〇人が小作組合を創立して交渉し、反あたり籾八俵半以下の収穫のものは地主と折半することを承認した。これに力を得た小作人側は小作争議の決定に立ち会うことをもとめた。
このほか更級郡栄村(篠ノ井会(あい)区)でも小作人百七十余人が集合。五〇坪一俵を六〇坪一俵に減額をもとめた。同郡御厨(みくりや)村でも小作人二百三十余人が結束して、籾一俵五斗五升を五斗三升に引きさげをもとめた。なかには小作人のほか小地主も加わっている(大正十二年)。同郡東福寺村でも小作組合が創立された(大正十五年十一月)。
こうして埴科郡内川村や南条村の激しい小作争議に呼応して、県下に小作人組合連合会の組織化が準備され、大正十五年十二月一日前記西寺尾村に第一回準備会が開催されるまでになった。
全国・長野県の小作争議の発生件数は表69のようである。前述のように大正十年代から増加しはじめたが、長野県はそれほどまだ多いほうではない。全国的にみると、小作争議について政府が対策を講じたのは大正十三年であり、同年七月二十二日小作調停法が公布され十二月一日施行された。その前年各府県に地方小作官が設けられ、長野県には農商課農務係に窪田清市地方小作官が就任した。大正十三年の争議件数は二二件で、うち不作等によるものが一七件であった。昭和二年(一九二七)には、本格的な小作組合連合組織が東北信中心に結束される。