明治後期から第一次世界大戦の時期は、まだ商業資本で働く賃労働者たちの争議の段階で、それも散発的におこっていた。たとえば、長野県下では運送労働者や製糸労働者などの例がみられる。
交通運輸関係では国鉄長野駅の人力車夫である。明治四十年(一九〇七)から同四十五年のあいだに一七件の労働争議があり、そのうち八件が交通運輸関係であった。長野駅から善光寺参詣人を運んだり、近郊の郡部の村々と結んで運送する人力車夫は車夫組合をつくっていた。これは労働組合というより同業者組合の性格が強かった。明治四十二年二月取締役の改選をめぐって内紛がおこり、市内東之門町の山本惣八と県町の江沢春太郎の両派が、後町の十念寺で選挙会を開いたところ江沢派が急に退場し、山本派は警察官立ちあいのもと投票して大勝した。内紛の原因は不明であるが、鉄道の発達とともに人力車夫界も影響を受けはじめたのであろう。
十数年後の大正九年(一九二〇)は、戦後不況のために長野市へ移入される商品が減少し、長野駅の貨物ホームに着く荷物をめぐって「車力」の奪いあいが激しくなり、運送店では公平になるように努力したという(『信毎』)。また、上下高井郡や更級・埴科郡方面から毎日入りこむ手車挽きの「車力」や運送挽きの労働者、さらに松代町からくる「車力」も、一日一〇円以上あった収入が、三分の一以下に減ったという。浮沈の激しい運輸業界では、大正十四年二月にはまた長野市人力車営業組合で組合長選挙をめぐって内紛がおこっている。
大正十五年七月十二日長野駅構内の人力車挽子(ひきこ)四二人の代表が、長野警察署人事相談係に調停を嘆願した。不況で収入がなかったところへ、宇都宮自動車市内乗合が七月一日から昼夜運転になって、大部分の客を吸収され生活に差しつかえるので協議し、組合取り締まり岡野源吉に二通の嘆願書を提出した。その内容は、①従来納めてきた車借賃(歯代)月一四円を当分七円に引きさげてもらいたいこと、②自動車側は夜間に夜間運転の中止をかけ合ってもらいたいという二点であった。岡野取り締まりが鴻ノ巣栄一ほか二人を予告なしに解雇したため、警察に訴えたのであった。
七月二十日親方連一四人は協議し、気前よく現在の車体を挽子に無償で与え、そのかわり停車場の家賃、駅前広場の客待ちの庭代など営業の権利等一ヵ月五円八〇銭ずつを組合に提出するとして解決した。親方連は挽子は親子も同然といって、調停者福沢長野署長に報告して解決した。このあと昭和二年(一九二七)二月、長野人力車組合は市内康楽寺で幹部会を開き、自動車の発達による脅威に対策を立てることを協議し、宇都宮自動車会社に自動車の営業時間と車両制限を交渉したらどうかという意見が出たがまとまらなかった。人力車は最盛期市内に三百七、八十台あったが、昭和初期には二百六、七十台になっていた。
長野県の労働者人口の圧倒的部分は、まだ前近代的面をもってはいるものの製糸工女であった。長野市域では埴科郡松代町、および市域ではないが隣接の上高井郡須坂町の製糸工場に働く製糸工女であった。製糸業のさかんな大正十一年一月に、長野警察署管内の製糸工女は五〇〇〇人(『信毎』)であり、市内にも組合製糸があった。
明治三十五年『信毎』の報ずる松代町の製糸工女の労働と生活は劣悪であったが、製糸工女の労働状況などが大きな社会問題になってきたので、経営者もいろいろ対策を立て恩恵的な施策をしている。明治四十一年二月に松代町の松城館では、模範工女に賞状を与えて表彰したり、同四十三年二月には六工社が工女慰安会を開き、四十四年二月には六文銭会社が同じように慰安会を開いている。同四十五年五月には松代製糸会社・六文銭会社社長小山鶴太郎は、一日休業にして工男女八百余人を埴科郡清野村の妻女山に招待して園遊会を催した。山頂で遊戯・競技、処々で売店を開き、菓子・弁当などを分け与えたという(『信毎』)。
政府は明治四十四年三月二十九日に工場法を公布し、大正五年九月一日施行した。工場労働者の保護政策として、労働時間・賃金・福利厚生などに広くわたった。しかし抜けみちが多く不徹底なものであった。松代町の北信製糸懇話会は大正五年十二月に工場法第一五条により、工女扶助規定を制定した。内容は、工男女の疾病のとき三ヵ月間は一日賃銭の半分、四ヵ月目から賃銭の三分の一を与えるとか、一生涯自活できない障害者になったときは扶助金を与える、といった大体は工女の立場を考えた規定であったといえる。
松代町では製糸家保護のため後援会をつくっていたが、他地方からの運動員が工女の争奪にくるのを力ずくで追い返すといったこともあった。大正九年に後援会をなくしたが、その理由は腕力で防禦するより工女をいたわって長くとどまらせるのが得策と考え、各製糸場では工女優遇の方法を講ずるようになったのが理由らしいという(『信毎』)。
長野市域での労働者の争議的動きとして特異なものは、明治四十一年四月十二日におこった日本赤十字社長野支部病院の看護婦助手の同盟脱走事件である。四二人中三四人が脱走して更級郡稲荷山町まで行き、支部書記の説得により帰院した。病院側は助手に無期停学を命じたが、原因は庶務課や看護婦長への不満が爆発したこと、助手から看護婦への選抜にたいする不満があったという(『信毎』)。
大正期にはいって長野県下では大正七年の米騒動期に争議件数がふえ、同七年九件のうち五件は米価暴騰に端を発していた。業種も製糸・木材・元結・新聞・印刷など多方面にわたっていた。大正期の長野県下の争議件数は表70のようである。
労働団体では大正八年十月十九日長野市若松町に設立された同友会は、会長に弁護士官沢要次郎、副会長に職工黒岩正義が就任し、印刷工を組織した。同友会は同十二年二月長野市内の柏与印刷の争議に関与しており、県下でも本格的な組織として早い時期のものである。いっぽう印刷業者は大正十三年四月上水内郡役所内に県印刷業者大会を開き、長野組合提出の同業者大会を組織する件を承認し、信濃毎日新聞工場の見学の研修、懇親会を開いている。
長野市およびその近郊に住む自由労働者・半農労働者は合計して約一〇〇〇人近くいたが、大正十四年末になると、かれらの労賃は一日一円一〇銭~一円二〇銭、高いものでも一円五〇銭というもので、一ヵ月二度の支払い日を待てず請負い業者から前借して生計を維持していた。しかし、請負業者(親方)は一人あたり二円~二円八〇銭で請け負うので、労働者一人あたり一円余の頭をはねることになる不公平な労賃の分配方法を改め、自由労働者の生活を向上させるため労働組合設立の機運が大正十四年末からおこり、大正十五年原山猛雄・井出弥作ほか一三人が同志糾合につとめた。組合組織の趣意概要は、①今や労働者は資本の暴威と機械力との応用により著しく労働能力の範囲を蚕食され為めに失業者が続出して益々窮境に陥らんとしつつあり、②然るに無産者たる吾々は未だ何等の対策をも講ぜず徒らに拱手傍観の状態にあるが如きは座して死命を待つに等し、③されば如何にして活路を求むべきかは焦眉の急に属す故、労資協調の精神にのっとり信越地方の労働者を糾合して組合を組織し労働者の自覚を促す、④時あたかも労働組合法案が帝国議会に提出されようとするのにさいし法の保護のみに依頼すべきではない、というものであった。
こうして大正十五年四月三日信越労働組合が長野市城山の城山館に開かれた。長野警察署から渡辺警部補らが臨席、折から犀川筋が増水したため不参加者が多く、自由労働者はわずかに四十余人にすぎなかった。開会は原山猛雄が開会の辞、井出弥作が議長になり、二九ヵ条の規約を満場一致で可決、組合長の選挙では井出が当選した。組合長の指名により役員一八人を決定した。役員は、小林・原山・中瀬・泉・斎藤・立岡・笹川・岸・相場・柳沢・山田・宮沢・池田・石田・白田・北島・平坂・小林らであり、組合旗樹立後、来賓に鈴木雄次郎(市会議員)の祝辞、顧問林廣吉(信毎記者)の労働問題に関する講演があった。