信濃同仁会の設立と活動

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明治四年(一八七一)のいわゆる「えた・ひにん等廃止令」以後も明治・大正期を通して、被差別部落の人々は、さまざまな面で差別を受け人権を侵害されつづけてきた。そうしたなかで、大正元年(一九一二)に奈良県に大和同志会が「同族ノ一致団結ヲ主トシ且ツ向上発展ヲ図リ延イテ全国ノ同族ニ及ボス」を目標に掲げて設立され、県の改善政策が被差別部落の努力のみに押しつけてきたことを批判し社会啓発と融和運動に取りくむと、その影響で各府県にも同志会が組織された。この中央組織として三年に帝国公道会が結成された。七年夏の全国の米騒動に被差別部落の人々が参加したことに驚いた政府は、融和政策に力を入れはじめた。同年八月の長野市の米騒動にも、被差別部落の人々が参加していたといわれている。米騒動や国際連盟での人種差別問題の取りあげや大正デモクラシーの人道主義などの影響があって、被差別部落の人びとは、人間の誇りと勤労者の自覚を強めてきた。九年二月には『信毎』に、碧生の名で「血を吐く手記」という、部落差別を告発し差別撤廃と部落住民の自覚を訴える投書が、二回にわたって掲載された。

 上高井郡では大正八年(一九一九)四月二十日、郡内被差別部落の改善と差別撤廃をはかるため、差別撤廃協議会を開き、上高井平等会と命名して活動を始めた。下高井郡にも十年四月に日野覚醒会という組織ができて、差別撤廃にむけて動きだした。

 上田市においては大正九年九月、塩沢好文(明治大学の学生)の設立提唱を受け、成沢伍一郎(市議会議員、のち市長)・小根沢義山(本陽寺住職)・成沢勇(家畜商)・中野夢影(北信毎日新聞記者)らが県内の有志を集めて、上田市本陽寺において部落改善組織の創立準備会を開いた。三回の会合を重ねて、十月十七日午前九時から上田中学校講堂において正式発会式を開き、ここに信濃同仁会が成立した。「同胞融和シ一視同仁、四海兄弟ノ意義ヲ実現シ」という考えで、同仁会の同仁は一視同仁からとった。趣意書には「我が国ノ現況ヲ看ルニ、同胞ノ一部ニ対シソノ人格ノ基本的価値ヲ蹂躙(じゅうりん)シ、言ウニ忍ビザル賤視観念ヲ以テ之ヲ冷視シ、剰(あまつ)サエ之ヲ排斥シ差別スルノ偏見因習ニ囚(とら)エラレタル者ソノ数決シテ少ナクナイ。ソノ偏見因習タルヤ、正ニ自己ミズカラヲ汚(けが)スノミナラズ、同胞ノ一部ヲ脅威シ、ソノ精神ヲ自屈ニ堕(おと)セシメ、ソノ自然ノ進歩発達ヲ阻害スル人道上・社会上ノ一大犯罪デアル。同胞ノ大多数ハ、コノ不合理ナル因襲的感情ニ囚虜(しゅうりょ)ナルコトニキヅカズ、無意識的ニコノ大罪悪ヲ犯シツツ来タノデアル」とある。人道主義を背景として、融和運動を進める理念があらわれている。発会式には上田市、小県・南北佐久・更級・埴科・上水内の各郡から一〇〇〇人ほど集まり、大集会となった。被差別部落の人が大部分であったが、部落外の青年や本陽寺の檀家の人も多く参会した。

 翌年からは、月一回十五日発行計画で八~一〇ページほどの機関紙『同仁』が発行された。信濃同仁会本部や支会の動向、講演会のようすや講演の内容、融和団体の有力者の寄稿や会員の投稿などを載せた。


写真102 機関紙『同仁』2~4号 (中山英一所蔵)

 この創立大会に、更級郡中津村の青年同志会員も参加した。青年同志会は大正五年十一月二十七日に創立、会長は武(たけ)森太郎であった。同志会は、六年の共和村水害の見舞い、八年今里村火災の見舞い、十年の南条小学校の火災見舞いと殉職した中島校長の遺族への義援金、十五年の小松原の大火の消火・見舞いなどには、積極的献身的に活動した。

 青年同志会や信濃同仁会の動きに対応したのか、大正十年一月一日の中津村役場・中津村尚武会軍人分会・中津村青年会共催の新年会に同志会員が招かれ、一五人が参加した。青年同志会記録簿の末尾には「是ニテ本村トシテ吾々部落民ト共ニ平等的ニ酒会ヲ開クコトハ、実ニ青年会創立ノタマモノト云フベシ(此ノ新年会ハ本村トシテモ初メテノ催デアリマス)」と記されている。また同年十二月四日中津村尚武会軍人分会は、歓迎会に青年同志会を招待し一一人が参加した。同記録簿には「是レ此村ニ於テ平等的故、当青年会員大ニ改善スベキヲ乞フ」と記されている。

 青年同志会は、同年一月二十八日に中津小学校において、成沢伍一郎・中野夢影・成沢勇・小宮山五九重警察署長・佐藤小学校長らを招き、部落改善教育講話会を開いた。そして、同年四月二十六日に、青年同志会員一〇人が信濃同仁会本会に入会した。同年四月五日に、芹田村の平坂岩吉の尽力によって、同郡青木島村に綱島東部青年会が設立され、会員三〇人は信濃同仁会に加盟した。この発会式には、理事中野夢影・武森太郎、柳島村長、馬場小学校長、武井篠ノ井警察署長代理ら一三〇人ほどが出席し、中野夢影の講演がおこなわれた。

 武森太郎、平坂岩吉たちは、支会設立に動き更水支会を発会させたが、会の発展上分離したほうがよいということになり、同十年五月十二日両者協議のうえ長野市・上水内方面を長水支会、更級郡方面を更級支会とした。そして五月二十二日午前一〇時から更級郡役所内において、本会から成沢伍一郎・小根沢義山・中野夢影の三人、郡内から飯尾六郎更級郡長・小宮山警察署長はじめ郡内各地区代表八七人の集まりを得て、信濃同仁会更級支会を結成し、幹事・理事を決定した。同月二十五日には理事会を開いて、常任理事として武森太郎、朝倉八重作、小山實之助、後藤喜作の四人を選んだ。この時期の信濃同仁会には、この二支会のほかに上小・上高井・下高井・北佐久・南佐久・中信・南信の七支会が設立されている。

 信濃同仁会・両支会の役員は表71のようになっており、信濃同仁会の組織は、岡田忠彦長野県知事・竹井貞太郎内務部長を顧問にすえ、被差別部落出身者のほかに郡長・町村長・学校長・警察署長・軍人分会長・新聞社関係者なども役員に加えた、半官半民の融和団体であった。


表71 信濃同仁会本部および長水・更級支会役員名簿(大正10年6月)

 信濃同仁会第二回総会が、同十年五月八日九時から上田中学校講堂において開催された。招かれて前日から上田市に来た帝国公道会会長大木遠吉司法大臣、酒井秘書官、阪井陸軍中将、松本公道会幹事、東京日々新聞社篠原記者の一行を迎えて講演会を開いた。聴衆は一〇〇〇人をこえ盛会であった。この総会では、①部落改善事業に従事する職員中へは被差別部落の適任者を加えられたいこと、②各市町村の区有財産にたいする権利を被差別部落にも平等にするよう留意されたいこと、③消防組・青年会・婦人会・その他の団体等においてまだ根本的合同のできていない処は当局の御留意を願うこと、④神社氏子としての融和を徹底させるよう留意を願うこと、の四ヵ条の建議案が採択された。

 一行は午後長野市に移動し、当日午後六時から長野市城山蔵春閣で開かれた、信濃同仁会主催の部落改善に関する講演会に臨んだ。会場には長水地区の主だったものが集まり、立錐の余地がないほどであった。

 翌十一年一月二十一日午前一〇時から中津小学校において、東京から同愛会会長有馬頼寧(よりやす)(伯爵・貴族院議員)一行三人、上田から成沢伍一郎・中野夢影を迎えて、信濃同仁会更級支会発会式をおこなった。午後一時からは更級郡役所において、約二五〇人の集まりを得て講演会を開催した。半田孝海(常楽寺住職)は「仏教道徳の基礎」、有馬頼寧は「社会と自分」という演題で講演した。このあと有馬頼寧一行は長野市に移動し、午後六時から大本願明照殿で講演会を開いた。信濃同仁会長水支会常任理事池田三松の挨拶(あいさつ)のあと、半田孝海・有馬頼寧は更級支会と同じ演題で講演をおこなった。あいにくの雪降りにもかかわらず、女性も一〇〇人ほど参加した。有馬頼寧は同夜芹田村平坂岩吉宅に宿泊し、翌日は大豆島村を訪問して上田市に移動した。

 信濃同仁会中津支部・古里支部・大豆島支部・元善町支部は合同して差別撤廃と平等を訴える宣伝隊を組織し、自筆のポスター(模造紙四ッ切)約八〇枚をつくり、同年三月十四日にそれぞれの居村および長野市一帯に張った。本部からは成沢初男が応援にかけつけ、中津支部からは六人が参加して中心になって活動した。

 さらに同年八月二十八日午前九時二五分から城山蔵春閣で、大木遠吉司法大臣を迎えて出席者三二八人による長野県主催の地方改善懇談会が開かれた。岡田知事が議長となって、午前は、①一般の同愛観念を振興するためもっとも有効適切な方法は、②部落の生活改善上もっとも急施を要する事項およびその実行方法は、の二項を議題とし、信濃同仁会の小根沢義山は「部落改善のもっとも有効なる方法は、まず差し当たり世人の同愛観念を振興するをもって急務とする故に、社会全員がこれにたいして自覚するよう一大運動を起こす必要あり」と意見を述べた。午後は、③地方における融和の実情およびその成績に鑑(かんが)みとくに留意すべき事項は、の一項を議題として四人の意見発表をおこない、最後に公道会の活動報告と大木大臣の講演を聞いた。

 上水内郡主催の地方改善懇談会も、翌十二年一月二十九日に長野市愛国婦人会事務所で開かれた。各村から六~一〇人の代表者が出席して講演と他県を例にとっての地方改善の方法についての協議がおこなわれた。改善の大要は「衛生設備と風俗の改善、年中行事差別撤廃および消防組・産業組合・青年会・婦人会・貯蓄組合・農事組合・農事小組合その他すべての団体的結合へは一般民と同様となし、役員の如きも同様選出せしめ、さらに区別を設けざること」を求めることとした。県は「部落改善補助金」を計上して、申請されたなかから八ヵ所選んで、住宅改良・飲料水改良・浴場建設などの補助をおこなった。また、育英事業も開始して、中等学校入学者五人にたいして補助を出すことにした。

 大正十二年二月二十八日には、中津村の南部消防組から入会するようにと申しこまれ、相談の結果二人を出すことに同意し、蓮香寺で開かれた入会式には二人に武森太郎が付きそって参加した。このあと、消防組へはいるものが増えていった。武森太郎は同志会で推されて三月二十五日の農会総代選挙に立候補し、村内三〇人中一〇位で当選した。

 翌大正十三年二月二十四日に更級郡役所大広間において、信濃同仁会主催による喜田貞吉(歴史家)、徳川義親(侯爵・貴族院議員)の講演会が開かれ、中津村青年同志会からは七人が参加した。喜田貞吉は「差別撤廃」、徳川義親は「生物学について」という演題で講演をした。

 同年四月二十三日には長野県水平社創立大会が小諸町高砂座において開かれ(次項参照)、差別撤廃・人間礼讃の叫びとともに、①信濃同仁会を速やかに解散せしむるの件、②本県水平社未開地を開拓するの件を協議決定した。それは「信濃同仁会は自力をもって立つことなく、県当局その他の力を借りている。同じ人間からの恩恵や同情は対等の人間には無用である。このような団体は、水平社同人の精神に反するので解散すべきである」という考えからであった。そして五月八日に県水平社の朝倉重吉ほか四人の幹部が、信濃同仁会の成沢伍一郎・小根沢義山の二人と懇談して解散を要求したが、激論の結果物別れに終わった。水平社は信濃同仁会の解散を県にも要求したが、県当局は、私的な団体である信濃同仁会にたいして解散を命じる権能を有しない、という態度であった。これらにより、長野県水平社と信濃同仁会の問題が、新聞にもしばしば取りあげられるようになった。

 大正十四年一月三日に上高井郡保科村研盛青年会主催の青年弁論会が開かれた。中津村の青年同志会にも招待状がきたので、武森太郎・武信太郎の二人が参加して「感想」の題で三〇分の演説をおこなった。参加者が多く盛会であった。三月十五日に中津小学校で中津青年会の総会が開かれ、青年同志会員全員が参加した。

 同年五月十六日・十七日に東京市において開かれた中央社会事業協会主催の全国融和事業大会に更級郡からは、東山範明、高橋市太郎、武森太郎、共和村光林寺西沢住職が参加している。

 大正十五年一月十八日午後一時半から川柳村上石川公会堂において、信濃同仁会更級支会主催の講演会を開いた。本部から成沢伍一郎、小根沢義山、東山範明、更級支会から小出一男、宮入源之助、武森太郎が出席し、中津村からは五人参加した。翌二月七日午後二時からは中津小学校において、更級支会主催の中津村融和懇談会を開催した。来会者は約一五〇人で、本部から成沢伍一郎、小根沢義山、西沢梅雄主任、東山範明融和主任、更級支会から小出一男、宮入源之助、後藤喜作、武森太郎の各常任理事、篠ノ井警察署から二人、郡役所から清水郡書記が出席して盛会であった。講演会のあと、会費制で懇親会を開いた。

 同年中津村では、武森太郎たちが申しいれていた南部区に七月から加入できるようになって、消防ポンプ購入代も負担するようにし、九月には世茂井(よもい)神社の祭礼への合併が認められた。従来の三町とともに祭典係・年行係の二人を選出し、十月九・十日の祭礼に参加するようになった。

 本部の小根沢義山の場合、追悼集『不惜身命(ふしゃくしんめい)』によると、寺務・会務のなかをぬって大正十年から昭和五年まで一〇年間に県内各地や学校で七九回の講演会、五回の懇談会を開いて国民融和と差別撤廃を訴えている。