県水平社の創立と差別撤廃の運動

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上水内郡大豆島村の浴場や理髪店での被差別部落の人々への差別問題にたいして、被差別部落の青年会の代表は大正十一年(一九二二)九月十八日に上水内郡役所へ行って、郡長代理原書記らと面会して、依然として入浴や理髪を一緒にさせない差別があるので、このさい徹底的に弊風打破のために善後策を講じてもらいたいと要求した。さらに県社会課へも行き、同様の要求をした。県社会課の広瀬県属がただちに村にはいって、斉藤郡長も加わって轟村長と問題解決にあたったが、こじれて問題は長引いた。要求はすぐには通らなかったが、同年十月に青年会代表は同志と共に「今後の改善方法及び差別撤廃の理想に向かって驀進すべく」ひそかに善光寺平に散在する被差別部落の人たちへ檄をとばして協議会を開いた。青年たちは自覚して、差別撤廃に取り組み始めたのである。

 また、大豆島村では、火葬場の使用からも排除されていたが、同十五年に組役員の宮澤千万之助他三人と轟小八郎村長・竹内助役・中村方面委員・町田共同惣代・清水巡査の立ち会いのもとで、火葬場の合同使用の決議をおこなった。さらに、浴場の使用については、昭和二年(一九二七)にいたって宮澤組惣代他一四人と久保田勇太郎村長・北村助役・東方面委員・小田内巡査の立ち会いの上で、役場内において手打ち決議をして解決した。これらの差別事件は解決したが、その後も大豆島組有財産の管理規定四条を盾に、耕作権などを除外した。この差別の撤廃を要求しつづけたが、これについてはなかなか解決にいたらなかった。

 大正十二年一月に埴科郡雨宮県村において、ドンド焼きで被差別部落のこどもたちを一緒にさせないできた差別問題が提起された。これは村長・小学校長の斡旋(あっせん)で解決し、この年からドンド焼きを合同でやることとなった。

 上高井郡綿内村では十二年一月になって、前年六月に開通した河東線綿内駅前の被差別部落が開発に差しつかえるからと、村長が被差別部落住民の了解を得て、村はずれの地を用意して移転することを考えた。被差別部落のみ移転するのは差別ではないかと問題になったようで、県社会課三樹課長は、奈良県畝傍山(うねびやま)中腹の洞部落の移転の例をとりあげて、「もしもこれを排斥するの結果、他への隔離するといふ様な不純な考えをもってするならば、之は即ち差別撤廃どころかむしろ待遇の逆転ともなって、甚だ面白がらざる現象である。綿内村の意志はいずれにあるか分がらぬが、記事よりみれば社会的事業として模範的に移転せしむるといひ、将来融和渾一の日の来るを待つといふ真純の動機にあるとせば、あへて非難するには及ぶまいと思ふ。」(『長野新聞』)と語っていて、差別移転ではないかという危惧(きぐ)も示しつつ、綿内村の処置を認めている。家屋の移転・新築や共同浴場・共同作業場・神社の新設がすすめられ、五月に完成した。しかし、水害にあいやすい土地であったためか、一六戸のうち移転したのは九戸のみで、七戸は東京・横浜・松本・上田・小布施の親戚(しんせき)などを頼って移住していった(『信毎』)。

 同十二年一月三十一日の『信毎』の論説は「ベルサイユ講和会議にあたって率先して人種平等待遇案を提唱せる日本の内地に在って、今尚いわゆる部落民に関する差別待遇の問題が存在するは、まことに大きな皮肉といわねばならぬ。(中略)いわゆる部落民なる呼称を一掃し尽くすにあらざれば、われらの住めるこの日本は、文化線上になおまだ頭角を出し得ざるものと知るべきである。あえていふ、われらは今日に於いて此の如き問題が論議されなければならぬことを深く遺憾とせざるをえない」として、理性に基づく良心によって差別感情の克服を訴えている。大豆島村では同年三月の青年会春季総会からは、二〇~三〇歳の青年は全員青年会入会となり、地区からも評議員一人、理事一人を選出するようになった。

 大正十一年三月三日、解放や団結を訴える看板や旗が立ちならぶ京都市岡崎公会堂において、全国水平社創立大会が三〇〇〇人の参加を得て開かれた。南梅吉が議長となり、阪本清一郎が経過報告をし、西光万吉が起草し駒井喜作が提案した①自身の行動での絶対の解放、②経済・職業の自由の要求と獲得、③人間性の原理の覚醒と人類最高の完成、の三ヵ条の綱領と「人の世に熱あれ、人間に光あれ!」と結ばれた宣言が満場の拍手で採択され、各地の代表の演説がおこなわれた。この創立大会出席者は、感動を胸に抱いて地元に帰り、それぞれの地で水平社結成に向けて動きだした。

 長野県では、埴科郡雨宮県村の小山薫が住民を説得して、同年十一月十日雨宮小学校に三〇〇人ほどを結集して、水平社発会式をおこなった。集まった人は、被差別部落と部落外とが約半々であったといい、平林村長・宮下小学校長などが招待されていた。中央から泉野利喜蔵・平野小劍・村岡静五郎・小林綱吉・栗須七郎などが応援にかけつけ、司会は小山薫・報告は朝倉重吉がおこなった。

 『信毎』(大正十一年四月六日付)に、飯島生の「立て部落諸兄よ」という投稿が載った。その内容は「いわゆる部落民を部落民なるが為に永久に虐(しいた)げていこうとする人々でない限りは、水平社の運動に対しても恐れを抱く道理はないわけである。(中略)水平社の運動は、与えられんとする運動ではなくて、取ろうとする運動である。それは虐げられた民族の権利の宣言である。この厳粛なる被抑圧階級の権利の宣言を聞いた時、吾々は粛然(しゅくぜん)として襟を正さなければならぬ。そして吾々の祖先が、彼等の上に不当に加えられた迫害に対して、衷心(ちゅうしん)から彼等の前に陳謝しなければならぬ。(中略)立て部落民諸君、戦いは近づけり。団結は力なり。全国三百万の同志を糾合して、真のデモクラシーの本義に達する途は、只諸君の自己意識に目覚めた熱烈の運動を待つのみである。」というものであった。

 全国水平社創立や関東水平社創立、雨宮県村の水平社運動などによって長野県水平社創立の機運が高まり、大正十二年三月の全国水平社第二回大会に出席した九人が中心となって、翌年四月二十三日一〇時三〇分から小諸町高砂座において、多数の警官の警戒のなかで約五〇〇人の参加を得て創立大会を開催した。中央から南梅吉・米田富・平野小劍・泉野利喜蔵・深川武・三輪寿壮・宮崎竜介・布施辰治たち、県内から林虎雄・野溝勝などが出席した。大会において綱領三ヵ条、①我々自身の行動によっての絶対の解放、②経済と職業の自由を社会に要求して獲得、③人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向かって突進、および決議三ヵ条、①我等に対して言行で侮辱の意志を表した時の徹底的糾弾、②解放運動の精神麻痺につながる教化運動の否定、③政府その他の侮辱的改善策と恩恵的施設を拒否、を決定した。

 大会の翌日の『信毎』は「人開礼讃高唱-長野県水平社創立 解放の叫びや協議で盛会」の見出しをつけて大会のようすを報じた。そして同紙は五月四日の論説「信濃同仁会と新成(ママ)水平社」では「生活利益とにおいて帰一なるべき筈(はず)のこれら期成(ママ)新成(ママ)の二団体が、何故今日相対して抗争の要あるかは、恐らく一般の疑問を露出することであらふ。(中略)信濃同仁会は旧来の陋習(ろうしゅう)からの解放とはいえ、県費の補助を受け、直接間接政府の恩顧に浴するところが、いわば不純粋的水平社団体である。信濃水平社が信濃同仁会の解散を要求せるは、かかる運動の進化途上に逢遇すべき当然の一過程と信ずるが故に、信濃同仁会は速やかに自ら解散すべきであると信ずる。信濃同仁会は、自らの使命を自覚すべきである。即ちその使命は、既に完全に果たされた。故にその運動の開拓者なるの名誉を担ふことを以て満足し、新成(ママ)の運動に後事を託すべきである。」と論じている。翌十四年九月には、臼田町において佐久水平社が創立された。


写真103 大正14年佐久水平社創立大会
(『差別とのたたかい部落解放運動30年の歩み』より)

 県水平社は大正十五年四月の南佐久郡臼田警察署の差別事件で、官憲相手に団結してたたかい勝利をおさめた。これは被差別部落の一青年にたいする臼田警察署の巡査の差別発言に始まり、署長の差別的高圧的態度に水平社が怒りをもって団結し、朝倉重吉らの指導のもとでたたかい抜いた事件である。県内外の水平社からの応援も受けつつ、①禁酒禁煙、②品行方正、③節倹、④戦略を洩らさぬ、⑤スパイ敬遠、という五項目の画期的な申し合わせのなかで、本部婦人水平社・少年水平社糧食部などの活動も加えて一糸乱れぬたたかいを続けた。そして、県警察部長との会見で「部下にかかる不徳の者を出したるを深く遺憾」とする発言と共に、巡査の転動・署長の退職をかちえたのであった。このたたかい方と勝利は、県内外の解放運動に大きな影響を与えた。


写真104 かがやかしい歴史をもつ瀬戸水平社の荊冠旗
(『差別とのたたかい部落解放運動30年の歩み』より)

 同年四月に更級郡のある村では、十人組差別事件がおこった。これは被差別部落四人をことさら組から取りだして、四人のみで組をつくらせ八年間経過した。ついに長年の差別待遇に我慢できず、組長が辞表を提出した。水平社の小山薫・高橋末次郎たちがかけつけての強い交渉の結果、①区有財産の分配は従前通り、②十人組組織は水平社同人四人と近所四人の計八人組として発足するということで解決した。