明治四十年(一九〇七)小学校制度が尋常科六年、高等科二ないし三年と定められ、それまで四年の義務教育が四十一年は五年、四十二年からは六年となった。この義務教育年限の延長と、長野市の発展にともなう人口の増加により、長野市の小学校児童数は年々増加の一途をたどり、大正五年(一九一六)には明治四十年の一・三五倍になっている。さらにその後も、小学校児童数は増えつづけ、大正十一年には一・六〇倍に達している。それとともに、学級数も大正五年には明治四十年の一・二二倍、十一年には一・三二倍に増えてきている。とくに尋常科は、就学年限が四年から六年に延長されたことにより、学級数は明治四十二年までの二ヵ年で一・五二倍、大正五年までには一・六五倍となっている。そのため、明治四十一年には高等科の学級減により対応できた施設・設備面も、それ以後もつづく学級増により教室も不足するようになった。
市では後町尋常高等小学校中央校舎・鍋屋田尋常高等小学校体操室・茂菅分教場建築に一万二九〇〇円(明治四十年)、鍋屋田尋常高等小学校敷地増買・教室建築一万二六〇〇円、城山尋常高等小学校体操室建築ほか三七〇〇円(ともに同四十二年)、城山・後町・鍋屋田三尋常高等小学校建築費二七〇〇円(同四十三年)、城山・鍋屋田両尋常高等小学校営繕一〇〇〇円(同四十四年)、城山尋常高等小学校教室建築六〇〇〇円(大正五年)などを市債によってまかなった。その他、後町尋常高等小学校湯飲み所・廊下建築(明治四十一年)、鍋屋田尋常高等小学校便所等建築(同四十三年)、後町尋常高等小学校敷地増買(大正二年)なども予算を計上しておこなってきた。教室増築などでは対応しきれなくなった市では、加茂尋常小学校を新設開校することとした。敷地二八七三坪余の購入(五二六二円余、そのほか地ならし工事費八八六円)と三六間・五間半の二階建て校舎等の建築(一万四八六〇円)を大正二、三年に、一二間・七間の体操室建築(三二一一円余)を四年におこなっている。
また、教員は代用教員を減らし、正教員の数を増やすことにつとめたことや、貧困家庭の児童を就学させるために保護者を啓蒙する就学奨励費もかさんだこともあって、教員給や施設設備費・就学奨励費などの小学校費は、表72のように毎年市財政の半数近い支出割合を占め、市財政改善の課題とされた。
市政の改善をはかるため、大正六年一月に設置された市政調査会では、小学校制度の調査研究が進められることになった。市政調査会では、当時全国的には例の少ない小学校一校制をとっている松本市(明治二十五年より実施)や上田市(大正八年五月実施)を視察したり、一校制と多校制の比較検討をおこなったりして、八年四月には調査報告書をまとめた。報告書では①一校制度とし、尋常科五年程度までの児童を収容する部校を設け、尋常科六年以上を一校に収容する、②六年以上の男女共学を廃止する、の二点を答申した。一校制の根拠として、①真に一致団結して市の発展をはかる市民が育つ、②すぐれた校長により一つの方針で校外の感化ができる、③学校と家庭の連絡も一つの方針で出せるので有益である、④青年会・婦人会・講演会等の連絡も統一してできる、⑤補習・特殊教育も統一がとれて効果を上げることができる、をあげている。また、学校管理上からも、①学級数の節約になり経済的にも有利である、②一つの方針で施設設備を整える実績が上がる、③理科機器や標本も完全に整備できる、④教員の配置や待遇が公平にいく、⑤学識・人格ともにすぐれた信望ある校長による感化が大きい、⑥校務が簡捷化できる、などをあげている。
大正八年三月時点では、児童の進級とともに転校させる場合に就学率が落ちるとして慎重論をとっていた小学校長にも、五月には意見が求められた。七月には守屋喜七(後町)、中澤照琳(城山)、清水謹治(鍋屋田)、山崎弥生(加茂)の四小学校長連名でつぎのような意見書を提出している。①長野市教育の現在や将来の発展を考えると、一校制はすこぶる時宜にかなっている。全市児童・青年男女の思想統合の基礎を与え、やがて長野市の統一発展に貢献させるのが根本である。経済上の利益はむしろ第二義と考える、②尋常科六年生以上を一校に集めるのは教育上不利な点がある。むしろ高等科生徒を一校に集め、他の各部校には尋常科六年までを収容する施設を望む。それによって義務教育の完成をはかる、③男女共学・別学については、教育上の問題で学校統一とは関係が薄いので、学校当事者の方針に任せてほしい。
このような経過をたどり一校制は、大正九年一月には市政調査会総会で満場一致で可決された。市当局は小学校長と協議して成案を練り、市政調査会・学務委員会に諮り、市会の議決を経て実施されることとなった。『信毎』の報道によると、多校制と一校制はつぎのように比較検討されており、財政面の必要性から決定されていった感が強い。九年度予算だけでも多校制の場合は、①加茂尋常小学校尋常六年生が高等科にすすむので、男女別となり二学級新設が必要となる、②後町尋常高等小学校では、併設されている実科高等女学校の新入生を収容する余地がなく、校舎の増築が完成するまで、寺院等を借りて授業をしなくてはならない不便さもある。こうしてみると、予算的にも非常な増額となる見込みである。一校制に改正すると、①高等小学生は一、二年を問わず全員を同一校舎に収容するので、一五学級を一二学級に節約される、②教員の俸給だけでも年に一七〇〇円を減らせる、③体操・理化学機械費ほか備品費消耗品費も大幅に減少する、④専科教員の融通も、補充教員の繰りあわせもつく、⑤校舎増築も九年度まで延期できる。後町尋常高等小学校に新校舎を増築するとすれば、子守学校教室や雨中体操室を他へ移転して、その跡地へ五間半・三四間の二階建てを建設するとして、経費が四万六七〇〇円もかかる、としている。
大正九年二月の市議会に、つぎのような六点を内容とする小学校組織変更案が提出されて議決され、四月一日から小学校の全市一校制が実施となった。①後町部は尋常科各学年三学級ずつと子守学級二学級(ほかに幼児保育所の特別学級一学級を加える)とし、高等科は全部を収容して中心部とする、②城山部は尋常科各学年五学級ずつと子守学級二学級とし(ほかに幼児保育所の特別学級一学級を加える)低能学級を廃止する、③鍋屋田部は尋常科各学年四学級ずつとし、特別学級は後町部に移し実業補習学校専攻科は廃止する、④加茂部は尋常科各学年三学級ずつとする、⑤茂菅分教場は尋常科四学年までを収容し、尋常科五、六年は加茂部に通学させる、⑥実業補習学校は一校にして後町部に付設し、分室を茂菅分教場に置く。発足時点の学級数は尋常科・高等科を併せて、後町三三、城山三〇、鍋屋田二四、加茂一四の一〇一学級、総教員数は新しく赴任した一七人を加えて一一八人であった。校長には守屋喜七(前後町)、各部長には後町に高田吉人(前南安曇郡視学)、城山に清水謹治(前鍋屋田)、鍋屋田に五味開次郎(前上高井郡視学)、加茂に山崎弥生(同)が就任した。この一校制にともない高等科全員・実業補習学校・実科高等女学校は、すべて後町部校に併設された。
こうして一校制へすすんでいるあいだにも、市内の児童数は増加をたどり、市会議員の多数は、将来を見通し市西南部に小学部新設の必要性を主張した。その結果、大正十二年度から山王部が新入生三学級一五二人と校舎一部改築による城山部校よりの五学級・後町部校よりの三学級を加えた一一学級で開校し、五月二十七日校庭で開校式をおこなっている。
大正十二年吉田町・古牧村・三輪村・芹田村との合併問題がおこると、学務委員会や市政調査会でもいろいろ対応策が議論されたが、最終的には丸山弁三郎市長の意向もあり大正十二年一月、合併後も小学校は現状のままという方向が定まった。六月には県の学務当局も「合併後も当分のあいだ現状のまま、市一校制、四校独立(合併する四町村)。近い将来一校制撤廃、各部校を独立校に。」と述べるようになって、七月一日の合併実現となった。合併後は一町三ヵ村の事業を引きつぎ、二月の火災で焼けた三輪尋常高等小学校の校舎再建や、古牧尋常高等小学校の新校舎の建築などをすすめた。このような動きのなかで、大正九年に始まった市小学校一校制は、六年間の実施で終わりをとげ、大正十五(昭和元)年度からは九小学校が独立することとなった。それにともない、長野市教育の指導監督のため長野市視学が置かれるようになり、昭和二年二月渡辺坦平が就任した。
全市一校制については、県当局も廃止の意向を固め、十三年八月には長野・松本・上田の三市にたいし、一校制廃止・部校独立に関する諮問を出している。