補習教育から実業補習学校へ

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文部省は、小学校卒業後の補習教育と実業教育のため、実業補習学校規程を明治二十六年(一八九三)十一月公布した。中等学校へ進学しない大多数の在村勤労青年を対象とした学校で、小学校に付設するものであって、旧来の村落に設けられた青年夜学会や小学校に冬季付設された裁縫専修科を再編制して、学校教育として整備することとなった。実業教育を重視する文部省は、三十二年二月実業学校令を制定して、小学校の種類であった実業補習学校を実業学校に組み入れ、同年県下で最初に設立されたのが、上高井郡井上村私立福島実業補習学校(設置者竹内源之助)であった。つづいて公立の七校が上水内郡浅川村と、北佐久郡小諸町・岩村田町・芦田村、諏訪郡湖東村、上高井郡高井村・都住村に創設された。これが二〇世紀の初頭で、以後急速に増設されて四年後には二〇〇校に達した。実業科目は農業が主で、商・工(農産加工・裁縫)兼備の課程が多くみられた。

 明治三十三年十一月夜学科を学校体制に改編して、後町尋常小学校に長野商業補習学校が発足した。規則によれば、「小学校教育の補習」と「商業に必須なる知識技能」を授けることを目的とし、甲科二年・乙科二年・丙科三年の課程で、冬期は毎週夜一二時間と定めている。教科中商業科の教授内容は、「商店売買・商業習慣・運輸・交通・保険・銀行・倉庫・興信所」であった。


 翌明治三十四年十二月一日、長野工業補習夜学校が、後町尋常小学校に付設された。同校の規則によれば、「小学校教育の補習を為すと同時に、工業に必要な知識技能を授」けることを目的とし、一三歳以上の尋常科卒業者を入学させる。予科は普通科目のほかに用器画(製図三時間)、本科は修身・算術・幾何・英語のほか、「機械学・工場用具論・蒸気機関学・用器画(製図)」を教授し、月曜から金曜まで、毎夜七時から二時間授業をおこなうと定めている。商工両校の生徒数は、三十五年に商科二一七人(六学級)・工科一〇七人(三学級)で、年間授業七七日、出席率は七五パーセントであった。三十九年には両校を併合して長野商工補習学校とし、鍋屋田尋常高等小学校に付設された。


写真108 長野商工補習学校の大正2年度第1部工科卒業生 (鍋屋田小学校所蔵)

 特別教育として、補習教育に類する製糸工女の教育で名があるものに、松代町六文銭合資会社の工女夜学校がある。社長の小山鶴太郎が工女教育に熱心で、これを参観した記事が明治三十五年二月『長野新聞』に連載されている。それによると、夜学校の規模は盛大で、女生徒一六四人(尋常科八八・補習科七六)を擁し、松代小学校訓導三人が嘱託されて、二人の訓導が読書・算術・習字を、長岡訓導が唱歌・体操を受けもち、午後八時から二時間強、月間三度の休暇のほかは、日曜日でも休まない。ときには講師の修身講話会を催しており、生徒の「規律がなかなか厳正」だと記し、さらに生徒の作文では、「真情自然」で「天真爛漫(らんまん)」だと感じ、同社の製糸が「近来年毎に横浜市場の最高値を占めるようになったのは」「社長が業務に熱心」であるだけでなく、「此多数工女が教育の恩に報」いようとした結果だと所感を述べている。

 実業補習学校の県下の普及は、明治三十年代末の生徒数二万人から四十四年に三万人となり、翌大正元年(一九一二)には四〇三校で全市町村数三九四を上まわり、大正六年には生徒数六万人をこえ、翌七年の学校数は最多の四三六校に達した。四年の知事訓示で本県の学校数は全国の「一六分の一」、生徒数は「一割強」であると伝え、学校体制の整備は明治三十八年の「施設要項」以来大正期にはいって大きくすすんだ。各郡も振興策を講じていたが、とくに先んじて熱心であったのは上水内郡で、県に先だつ大正三年十二月郡役所は「青年補習学校改善案」をまとめて郡下に訓令している。すでに明治三十五年に郡費をもって各校予算の三分の一を補助したが、県も大正八年一月補助規定を定め、専任教員給の四分の一など、教員給を対象として助成している。強調されたのは専任教員の強化で、県は大正七年四月実業教員養成所(芹田小中御所分教場を仮用)を開設した。なお、これよりさき明治三十九年長師附属実業補習学校が茂菅に設けられている。

 大正期の拡充策は、第一に就学の準義務教育化で、上水内郡の提唱を受けて県も大正八年施政方針に準義務教育を掲げ、学齢を小学校卒業から男子満二〇歳の丁年(兵役義務)まで、女子は一八歳(婚期)とし、課程を予科(尋六卒)二年、本科(高二卒)男子四年・女子三年とし、研究科二年と定め、季節制を廃して通年制・昼間教授を奨励した。

 実業補習学校は、明治四十年の小学校令改正で尋常科が四年から六年になって、義務教育が延長されたことにともない、補習教育の学齢が一〇歳から一二歳に変更された。しかし、日露戦争の戦後経営期から第一次世界大戦にかけて国運の進展をみて、補習教育の必要が認識され、明治末年から大正初年にかけて各校から生徒の定員増や課程の改善などの学則改正の伺(うかが)いが県へ提出された。県も提出の伺い中、学則の授業料徴収の条目は削除するなどの行政指導をおこなっている。


表73 実業補習学校創立期3年間の設置状況(現市域)