実業補習学校教員養成所の設立

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実業補習学校は、生徒が従事する実業についての知識・技能を習得させる初等教育機関として、明治二十三年(一八九〇)の「小学校令」によって設置された。学校数は、大正六年(一九一七)度には長野県下で四三五校に達していた。しかしながら、実業の指導を担当できる教員の確保ができず、小学校教員の兼務で当座をしのぐ状況であった。そのため指導内容も小学校課程の補習程度にとどまることが多く、実業教育の進展はあまりみられなかった。長野県は、実業教育の充実をはかるためには、ふさわしい教員を確保することが必要と考え、「実業補習学校教員養成所」を設置することにして、大正七年度から二〇人の生徒を募集した。

 入学資格は、小学校正教員の資格をもち、身体健全・品行方正なものとされ、在学中は一ヵ月一〇円の学資を給付されることになっていた。初年度は小学校に人的余裕がなかったことなどから、一八人の入所生しか確保できなかった。「長野県実業補習学校教員養成所規程」によると、養成所は県庁内におかれ、専任教師が一人配置され、入所生は一年間の修業年限内に、倫理・教育・法制・経済・農業の学科と農業実習を受講することとされた。学年は四月から八月末までの一学期、九月から十二月末までの二学期、一月から三月末までの三学期にわけられている。実地の修練を積むため、普通農事に関しては上水内郡芹田村にある県農事試験場に通い、そこにおかれた特別の担当者から指導を受けることとされた。しかし、学科を学ぶ仮校舎は長野市にある師範学校の旧寄宿舎であり、実習のためには芹田村まで通うことから、時間の浪費でもあるという意見が多くなった。

 翌八年度からは、芹田村に設置される「長野県立農事講習所」を校舎とすることに改定された。「長野県立農事講習所規程」によると、「農業技術員又ハ実業補習学校教員タラムトスル者ニ対シ農事ニ必要ナル講習ヲナスヲ以テ目的トス」とされている。第一部は農業技術員養成科で、第二部が実業補習学校教員講習科であった。第二部の講習科目のうち、倫理・法制経済・教育・農業実習は七年度と同じであった。前年度の「農業」のかわりに、土壌・肥料・作物・病虫害・園芸・養蚕・畜産・林業の八科目の学科が取りあげられるようになり、農業関係の内容が細分化されて指導されるようになっているほか、林業へも目が向けられるようになっている。八年度の二部生一四人は、芹田尋常高等小学校中御所分教場を仮校舎として受講し、実習は芹田村に借りうけた民有地七反歩でおこなった。

 講習生は指定の宿舎への寄宿を義務づけられ、八年度は長野市石堂町の民家が仮寄宿舎となり、二部生一四人が集団生活をした。講習生は一ヵ月一〇円の学資の給付を受けるが、修了後二年間は、実業補習学校教員として勤める義務を負っていた。実業補習教育の振興改善のため、優良な専任教員の確保が急務と考えられ、九年度になると、志望者助成措置として入所志望者には、県費に加え郡費一五円、町村費一〇円の学資助成をし、修了者には学資の補給を受けた町村に就任する義務を負わせる計画を立てた郡もあった。九年度には長野市幅下の民家二棟を借りうけて仮寄宿舎として使用し、学校へはより近くなった。学校としての形が整い始めるのは、八年の通常県会で敷地と校舎の建築費の議決を待たねばならなかった。

 大正九年の「実業補習学校教員養成所令」が翌十年四月に施行となり、さらに十二月には「同施行規則」も定められた。これによって県は十年四月、「長野県実業補習学校教員養成所規程」を定めた。規程では目的を実業補習学校教員養成とし、長野県農事試験場に併設、修業年限は一年で変わりなかったが、生徒の定員は四〇人と増員されている。入学資格は施行規則に準じ、①小学校本科正教員、②尋常小学校卒業程度を入学資格とする修業年限五年以上の実業学校あるいは同程度の実業学校を卒業し、一〇ヵ年以上実地の教育に従事したもの、③修業年限五年以上の実業学校・中学校の卒業者、④小学校専科正教員の免許状を有するもの、⑤修業年限三ヵ年以上の実業学校を卒業し、二ヵ年以上実業に関する経験を有するもの等とされた。学科課程は表74のようになっている。創立当初の学科にくらべ、社会学と遺伝学・園芸・畜産・林学などの農林業関係の学科がふえているが、社会学以外は八年の学科と同じである。実験実習を除いて、各学期に毎週二八~三〇時間の授業を受けている。


表74 学科課程および毎週教授時数表

 大正十二年になると、修業年限が一年から二年に、生徒の定員は四〇人から七〇人に改定された。その背景には、それまで主として入所させていた本科正教員の資格あるものの成績が良好といいきれないことから、入所資格の中核を修業年限五年以上の甲種農学校卒業程度としようとしたことがあったといわれている。それにあわせて学科目も刷新がはかられ、遺伝学がなくなり、国語・数学・物理・化学・英語・体操が加わり、教員としての資質の向上をはかろうとしている。しかし、じっさいの入学許可者は十三年から十五年まで、三十三、四人であった。卒業後の状況は、十年度から十四年度の四回の卒業生(十二年度は修学年限延長のためなし)一〇四人のうち、実業補習学校教諭四一人、実業補習学校助教諭一三人、小学校訓導三七人となっており、ほとんどが教職についている。

 大正十五年三月になると、県令により併設場所は長野県農事試験場から、吉田広町にある長野県上水内農学校に改められ、十月には新校舎が完成して移った。校舎はその後、昭和二年(一九二七)に農場事務室・畜産加工室・牛舎・養蚕室・穀物加工室などが増築されている。四年四月には、生徒の定員が七〇人から一二〇人にふえている。あわせて学科課程も一部では、尋常小学校卒業程度をもって入学資格とし、修業年限五年以上の実業学校または同程度の実業学校を卒業したものを対象としていた。二部では、中学校卒業者または小学校本科正教員の免許状所有者が対象とされていた。学科課程は、一部では既習学習を生かした農業や、幅広い学識を身につけるための数学・理科の学科に、多くの時間数が割りふられている。二部では、既習学習を生かし深めるための、修身・法制・経済・教育・国語漢文・歴史・地理などの学科目や時間数が多くなっている。なお、二部制は七年度で廃止された。

 昭和十年四月「青年学校教員養成所令」が公布されたことにより、実業補習学校教員養成所は「長野県立青年学校教員養成所」と改称され存続していく。