農学校・工業学校の新設と発展

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更級郡では明治四十年(一九〇七)、義務教育が六ヵ年に延長されるのを機に、郡会に乙種農学校設立の気運が高まった。郡長に委嘱された創立調査委員は、県内外の農学校や中学校を視察して、全国的な調査結果を提出した。その結果、県下八番目の農学校として四十年四月、「更級郡乙種農学校」が、郡役所所在地の塩崎村字唐猫に開校された。他の農学校が郡立・町村立・組合立で設立されたのと同様、郡立で設立されているのは、地域の有力者や先覚者らを中心とした、地域の要請に立脚した学校であることを示している。翌四十一年三月には、学校名を「更級郡立農学校」とし、県下の学校に先がけて乙種名を取りさった。

 入学資格については、意見が一致しなかったことから、尋常科卒業者を対象とする修業年限三年の第一科と、高等科卒業者を対象とする修業年限二年の第二科がおかれた。県内各地の講習会の講師として招聘(しょうへい)されていた、東京帝国大学助手矢田鶴之助が校長として、他の七人の職員とともに着任した。創立当初の諸規定によると、募集定員は第一科第二科合わせて男子のみの二〇〇人であった。初年度の入学生は一〇〇人で、内訳は三十九年に設立され四十年三月に廃止になった、組合立篠ノ井乙種農学校からの二科二年編入一八人、二科一年五一人、一科一年三一人であった。品行・学業・実習の優良者には郵便貯金の賞を与えて奨励している。授業料は月二〇銭であった。

 学科目は、第一科も第二科も実習以外で週二六時間、理科(第二科では物理・化学)・算術(同数学)・国語・作物・養蚕・園芸などに重点がかけられていた。実習では教師の指導を受けて、共同であるいは分担して、統制のある整然とした実習がおこなわれた。創立当時の実習のための農場は、篠ノ井乙種農学校から移管した一一アールであったが、その後桑園・蔬菜(そさい)園・果樹園四〇アールを増やし農場は五一アールに、ほかに水田を川柳村に借用していた。その後、民有地や郡有地を借用して拡張し、創立三年目には農場は二・三七ヘクタールとなり、豚舎・鶏舎・蚕室・温室・農具室などの建物も設置され、農場としても充実していった。

 学校予算は五四四〇円弱のうち、県費補助はなく、国庫補助金五五〇円にたいし郡内町村分担金四四七〇円余であった。教職員も全員で分担して、郡内の経済・農民生活の実情・郡伝統・稲作・園芸・養蚕などの調査研究にあたっていた。また、生徒や卒業生の家事への取りくみの指導の意味もあって、家庭訪問は養蚕期や稲作の収穫期におこなわれていた。郡内の農業進展にかける教師の意気ごみのあらわれであった。また、卒業生と学校との接触をはかるため、開校記念日の運動会や登山に卒業生を招いたり、卒業生と学校職員による運動や視察をした。そのほかつぎのようなこともして、卒業生への働きかけをしていた。①卒業生にたいする養蚕の資料の配布、②農産品評会の開催、③校長らによる卒業生の家庭訪問、④卒業生講習会への勧誘、⑤講演会や修養会への勧誘、⑥農事の調査研究と報告の要請などであった。

 大正九年(一九二〇)四月には県立に移管され甲種に昇格して、「長野県更級農学校」と改称された。県立移管にさいし、①従来の校地を維持する、②稲荷山町に招致する、③篠ノ井町にする、の三案があったが、県の指定により篠ノ井町に決定した。地価や広さなどから現在の唐臼地籍に決定された。新校地の工事は湿地のためはかどらず、十年三月に、五間半・四三間の二階建て本館がようやく竣工して移転がおこなわれた。理化室・養蚕室・寄宿舎・雨天体操場等が新築され、武道室(旧雨天体操場)・農産製造室(旧理化室)・記念館などは移転改築された。校地や実習地が湿地で病害虫が多発し作物の生育も悪く農場での実習などは困難なため、教職員と生徒が一丸となって四五~六〇センチメートルの盛り土をおこなって改良につとめた。また、校友会と卒業生会合同会誌『更農』が創刊されたり、稲荷山・松代方面への懇親的遠足や南信・近県あるいは関東方面への旅行などもおこなわれた。昭和八年(一九三三)には移植民専修科が新設され、海外発展教育が徹底しておこなわれるようになった。


写真109 明治末年ころの更級農学校校舎と正面蔬菜園での農業実習
(『更農70周年記念誌』より)

 上水内郡組合立東部農学校は明治四十一年四月、吉田・朝陽・柳原・古里・若槻五ヵ村の組合立として吉田村大字吉田字町東に設立された。大正十二年四月になると、中等教育充実の動きのなかで、県立に移管され長野県上水内農学校となった。当初の生徒定員は男子一五〇人で、入学資格は一二歳以上で尋常科六年卒業程度とされ、修業年限は三年であった。校舎は東部高等小学校を併用した。教科課程は修身・国語・算術・理科・地理歴史・手工図画・体操のほか、農業関係は表75のようであった。県立移管三年後の十五年には、生徒定員が本科三〇〇人、専修科五〇人となっている。昭和三年には、併置されていた県立実業教員養成所の拡張とからんで廃校案も出たが、郡市民大会が開かれたり、市長・村長・同窓生らの陳情書が提出されたりして存続されることになった。


表75 東部農学校実業科目


写真110 上水内郡組合立東部農学校 大正12年に上水内農学校と改称される
(『長野の百年』より)

 中等教育機関が整備されていくなかで、工業教育の進展が立ちおくれていた。伊沢修二は日露戦争前の明治二十六年、第一八回信濃教育会総集会における演説のなかで、長野県は普通教育においては全国一位だが、工業・商業の教育ということにおいては、きわめて遅れていると指摘している。つづけて、アメリカの機械化農業の有利さと、長野県の農耕地の少なさによる農業の弱さを説明し、それよりも工業のほうが将来性があると述べている。さらに、動力源である石炭の産出の少ない不利はあるが、将来的には、豊かな水力発電を利用して工業を起こしたならば、世界に負けないものができると、工業教育の推進を推奨している。

 佐藤寅太郎も大正三年雑誌『信濃教育』に投稿し、工業教育について論じている。まずは、従来から発達してきている各種工産物の進歩・改善を促すとともに、工業思想を養って工業の素養ある人物を養成しつつ、県立の工業学校の設立を企画していくのがよいと述べている。県立の工業学校の設立については、土木・建築・電気の学科をおき、これに徒弟学校を付設して、木工・金工科をおくことを主張した。

 信濃教育会でも工業教育調査委員会をつくっている。委員の守屋喜七は他県の工業学校を視察した結果を、大正四年『信濃教育』に発表した。そのなかで、設置すべき学科として、本科には機械科・電気科・応用化学科を、建築科・家具科を別科としてあげている。

 県では、第一次世界大戦開戦の経済的混乱を経て好転した県財政や、県議会・県民有志による工業教育の振興気運の高まりの機会をとらえて、五年十一月の県議会に、長野市への長野県立工業学校設立案を上程した。南信選出議員の猛反対にあい難航したが、第九高等学校の誘致場所を松本市にするなどの妥協が成立し、十二月になって原案どおり可決された。

 大正六年八月には「長野県立工業学校」を上水内郡芹田村(現在の岡田町バスターミナルおよび八十二銀行本店敷地)に設置することが文部省から告示され、七年四月一日に開校することが認可された。当時の実業中等教育機関は、郡立(市立も)が当たり前であったが、工業学校は創立当初から県立であった点が特筆される。敷地約九八〇〇坪(約三万二三四〇平方メートル)は、長野市が約二万四三〇〇円で買収して県に寄付した。当初は修業年限四年で生徒定員は機械電気科三〇人・応用化学科二五人で計二二〇人であった。授業料は一ヵ月一円二〇銭で、遠くからの入学生のための寄宿舎も用意された。

 入学資格は、尋常小学校六年卒業の中学校や高等女学校と異なり、高等小学校二年卒業であった。これは、商業学校や実科高等女学校などの実業学校と同じであるが、修業年限が四年というのは、他県の工業学校より一年長く特色であった。そのため大阪の入学資格が尋常小学校六年卒業で修業年限が六年の都島工業学校とは、修業年限がそれぞれ四年と六年で異なるが、ともに、「西の都島、東の長工」としてもてはやされた。志願者は農学校などの実業学校からの転入者や、実社会に出てから再入学を志すものなど、各地から二二四人の受験者が殺到し、機械電気科が六・四七倍、応用化学科が一・八倍にもなった。同じ年の松本中学は二・四三倍、長野中学は一・五四倍、長野高等女学校は一・四六倍であった。そのため、志願者の成績・学校の経費・卒業後の需要等を考慮し、合格者は機械電気科五〇人、応用化学科二六人であった。これ以後は、定員が機械電気科五〇人、応用化学科二五人となった。機械電気科合格者の出身をみると、長野三三人・伊那八人・松本七人・上田二人と県下各地から集まってきている。そのため校庭内に寄宿舎が設けられ、毎年一〇〇人前後の生徒が集団生活をした。寄宿舎は昭和八年以後は長野市妻科加茂に移ったが、一五畳の部屋に八人くらいずつで、朝一時間の自習をはじめ、夜七時から九時までの自習、一〇時の消灯という日課で生活していた。

 設備も旋盤・平削り盤のブレーナー・歯車を削るミリングなど県下一の最新設備が備えられた。当時の金で建築費が約一七万七〇〇〇円、機械設備費が約一八万五〇〇〇円で、当初計画の約三倍であった。初代校長真多令治は「この工業学校を一つつくる金で、中学校は一七校もできるんだぞ」と新入生にハッパをかけたと伝えられている。


写真111 長野工業学校校舎
(『長工七十年史』より)

 大正九年には長野県長野工業学校と改称し、十一月には第一回の工場開放がおこなわれ、十一年三月には第一回の卒業生が巣立っていった。十二年になると土木建築科が増設され、生徒定員は機械電気科二〇〇人(各学年五〇人)・応用化学科一〇〇人(各学年二五人)・土木建築科一〇〇人(各学年二五人)の計四〇〇人となり、科学技術の進歩による国民生活の発展と国の工業振興策に合致した発展がみられた。十三年には四年生が、一九日間にわたる旧満州・朝鮮旅行を実施し、ガラス製品・耐火レンガ生産の窯業試験所・車両機械の製作修理の工場・紡績工場・撫順(フーシュン)の露天掘りのほか、日露戦争の激戦地旅順の二〇三高地などを訪れて、工業の発展に強い刺激を受け、将来に大きな夢と希望をいだき、心を高まらせて帰ってきた。