女子高等教育機関の新設と発展

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第一次世界大戦による経済発展のなかで、国の高等教育拡充方針もあって、女子高等教育の重要性が顧みられるようになり、女子の高等女学校への進学者は増加をつづけた。

 そのようななかで、長野市立長野実科高等女学校は、大正八年(一九一九)四月文部省の認可を得て開校した。初代校長守屋喜七はのちに、創立のいきさつを『創立二十周年記念誌』に、「元々この学校の前身とも見るべき学校は、夙(はや)く後町小学校内に併置せられてあったのでありまして、私の前任者三村安治君によって設けられた実科女学校と呼ぶ私立の学校がそれであります。高等科卒業の女子で女子師範学校入学の志望ある者や、之(これ)といふ志望は定まらなくとも普通学科や裁縫、技芸等を補習して見たいといふ者のために、昼間教授をして居ったのであります。」と書いている。当初は、女子教育の充実を願う気持ちから、私塾的に授業をおこなっていた「実科女学校」であった。これを公立学校としての認可を受けようとし、守屋校長は女子向けの昼間の実業補習学校では満足せず、実科高等女学校としての設立をすすめたのである。

 守屋校長はちょうど、長野市の小学校を一校に統合する問題の検討を委嘱されたのを機会に、市内各小学校に併設されていた実業補習学校も、一つにすることを描いていた。統合によって生みだされる財政的余裕に、市の費用一〇〇〇円か一五〇〇円を加えることによって、実科女学校設立の予算的見通しを立てていた。校舎は、後町尋常小学校の西の端の二階建て校舎をあて、教室は二階の四間・五間の教室三つに、畳と裁縫用の机・いすを入れて、普通教室兼裁縫室、ときには作法室にして使用する計画ですすめた。そのほか、家事教室と洗濯室を増築、音楽・体操などの特別教室は後町尋常小学校と共用、かまど・割烹(かっぽう)用具などは新調している。

 学校の教育理念は、「家庭生活を中心にした、体験に基づく教育」にあり、温良・貞淑・質実・勤倹な日本女性を育てあげようとしていた。その授業内容は、家事実習・被服製作の実技習得科目のほか、国漢・修身・算術・習字・作法・体操・洗濯・農業であった。勤労と奉仕の精神を養うため、くくり桍(はかま)で手ぬぐいをかぶり鍬(くわ)をかついで、信濃教育会図書館西に借りた農場に出掛けたりもしている。また、当時の後町尋常小学校には、子守教育所や幼児保育所・盲唖学校が併置されていたので、生徒は中村多重から育児の実習を習ったほか、マッサージの実技指導もうけられる恩恵があった。

 学年の構成は、尋常小学校高等科二年卒業が入学資格とされる、本科一学年二学級、二学年二学級と、卒業生が進級する、一年ないし二年を修業年限とする補習科一学級が設けられていた。補習科を二年間修学すると、卒業のさいの臨時検定により、小学校専科正教員への道が開かれており、教育界へ進出したものも多かった。昭和二年(一九二七)からは、高等女学校卒業を入学資格とする、修業年限一年の専修科が設けられて、菊組を編成した。同六年には、補習科二年を希望するものの増加等のため、補習科・専修科卒業を入学資格とする研究科(桐組)が設置されている。八年以降、本科一・二年各二学級、補習科一年二学級、二年一学級の学級構成が確立した。

 昭和十二年九月、川端に新設される小学校に、実科高等女学校向きの校舎が併設されたことにより、後町尋常小学校から川端に移転し、のちに徳間に移るまで存続した。車で運ぶ大きなもの以外は、生徒一人ひとりが大ふろしきに包んで、背負って運んだこと、腰丈もある庭の草取りと地ならし、床板などをおからでつや出ししたことなどは、卒業生の語り草となっている。十三年には、創立二〇周年記念事業の一つとして、茶室がつくられ、校歌も制定され、庭園も完成している。十八年には学制改革により、長野市立高等女学校と改称されている。二十年三月には、東部軍に校舎を貸与して城山小学校で仮授業を始めたが、八月の終戦にともない再び川端の校舎に戻っている。

 大正時代の長野県の高等女学校には、高等小学校二年修了者を高等女学校の三学年に編入させるという、県独自の制度があった。これは「新三制度」とよばれ、数少ない高等女学校教育の振興をはかり、農村の便宜をはかろうとしたものであった。大正十二年ごろになると、この制度は実科高等女学校・高等女学校が普及したことや、授業進度のうえから支障が大きいなどの意見により、十三年度は縮小され十四年度から廃止された。

 松代町では明治三十九年(一九〇六)七月、町立松代農業学校が開校した。四十一年四月には、殿町に約六〇〇〇円をかけた校舎が新築されたので、移転するとともに商業科を併設し、町立松代農商学校と改称した。大正六年には女子部の併設が認可され、町立松代実業学校と校名を改めた。九年には、同校に併設されていた女子部は独立し、修業年限四年の町立松代実科高等女学校となったが、松代実業学校への併置がつづいた。十一年には雨中体操場兼講堂を新築し、施設も充実していった。


写真112 明治41年4月に殿町に新築された松代農商学校
(『思い出のアルバム長野』より)

 大正十三年十二月十二日、松代実業学校の生徒が海津座でおこなわれた講演会に出掛けているあいだに、ストーブの煙突の過熱から火災を起こしてしまった。火は天井へ燃えひろがり、間口二二間・奥行き五間の二階建て本館を焼失した。幸運なことに、当日は水道消火栓の通水試験中であったことから、出火と同時に消火栓が利用され、校舎は二階部分の焼失にとどまった。町では、焼けのこった雨中体操場・農具室等を修繕して臨時に三教室をつくり、授業再開に備えた。あわせて工費一万円で、前の校舎の北に間口一五間・奥行き四間の平屋建て一棟三教室を建てることとなった。また、これを機会に、周囲の実業学校の教育情勢を検討して甲種昇格を申請し、十四年三月には認可を得ている。

 松代実科高等女学校も、昭和三年三月、社会情勢にあわせて高等女学校昇格を、町会で議決し文部省へ認可申請を出した。四月一日からは、松代高等女学校と校名を改めて存続している。

 中学校や高等女学校が設置されていない更級郡では、中等教育機関設立の要望が高まっていき、設置を要望する意見書が郡会で採択され知事に提出された。県では、各郡市から提出された意見書をもとに、中等学校整備計画を立て、中学校の新設や高等女学校・実業学校の県立移管をすすめていった。長野県更級高等女学校新設については、当初の計画にはなかったが、大正十年度に県会で議決され、十一年十月文部省の認可が出て、十二年四月から篠ノ井町に開校されることになった。

 学校建設にあたっては、郡費からの五万円、篠ノ井町からの時価三万円相当の敷地七〇〇〇坪をふくむ五万七四〇〇円、隣接一五ヵ村の寄付四万二六〇〇円が地元負担として集められた。県は大正十二年から十五年までの四ヵ年計画で校舎の建築や設備の設置を計画した。建設費の総予定額は一八万二六〇〇円であった。

 生徒の定員は一学年一〇〇人(二学級)、四年制であったので合計四〇〇人、十二年四月、第一学年生徒を迎えて入学式と開校式を、仮校舎である通明小学校の雨天体操場でおこなっている。入学者一〇〇人の内訳は、尋常小学校六年卒業生が六六人、高等小学校一年修了生二九人、二年卒業生五人であった。翌年以降尋常小学校六年卒業生の割合は八〇人台となっている。生徒の出身地をみると、ほとんどが更級郡・埴科郡の全域から集まっていたが、通明・稲荷山・中津・下氷鉋(ひがの)・屋代・埴生の各学校出身者がやや多かった。生徒の家庭は、この地域が農業地帯であったことから、大半が農家で、より広い耕地をもつ自作農や地主層であった。

 学科目は、修身・国語・外国語・歴史・地理・数学・理科・図画・家事・裁縫・音楽・体操で週時数は三〇であった。授業料は月額二円五〇銭(のち大正十五年度に一円値上げ)、受験料は一円であった。


写真113 大正12年の県立更級高等女学校鉄筋コンクリート校舎とテニスをする女学生
(『思い出のアルバム長野』より)

 校舎建築について、県は都会地のコンクリート建築の校舎の研究をすすめ、安全性・耐久性・経費や敷地の節約等の観点から、当時としては最新の鉄筋コンクリート建築と決定した。十二年四月に着工された建設工事は、関東大震災の余波を受けて二ヵ月ほど遅れたが、十二月二十三日教職員や生徒の力で引っ越しがおこなわれた。その後、運動場の整備(十三年)、割烹(かっぽう)室(十五年)・音楽室(昭和二年)・洗濯室・作法室(三年)・寄宿舎(四年)が完成し、設備が整っていった。

 生徒の服装は袴・着物姿が一般的であったが、十三年の校舎落成式と同時に、県内の高等女学校でも初めての制服(写真114)が定められている。スカートは現在のキュロットスカートのようなもので、値段は一円五〇銭であった。第一回の卒業生たちの進路は、上級学校進学一三人、家政科進学二一人、就職一一人、家事四三人などであった。


写真114 創立のころの制服(着物姿は教師)
(『篠ノ井高校70年史』より)

 篠ノ井では、大正十四年三月に篠ノ井町・栄村学校組合から、更級実科高等女学校の設置申請が出されている。申請によると、女子高等普通教育の補充機関として必要であるとして、修業年限二年の本科一〇〇人、一年の補習科五〇人を定員とし、四月一日通明尋常小学校に併設して開校しようというものであった。

 学科目は、修身・国語・数学・理科家事・裁縫・図画手芸・唱歌・実業・体操・教育であり、入学試験は志願者が募集定員をこえたとき、国語・算術・裁縫の三科目でおこなわれた。授業料は月一円五〇銭で、職員は学校長(兼任)・専任教諭(男二・女二)・教授嘱託五であった。

 学校経費については、隣接関係村は実業補習学校を合同して一つの組合立補習学校を設置し、更級実科高等女学校へも生徒を送ることから、毎年度決められた金額を、学校組合へ寄付する協定書を取りかわした。大正十四年度の各町村の負担金は、つぎのようであったが、以後毎年この金額以上を学校組合へ寄付するとされている。

 二七九円四五銭 東福寺村  二四七円三三銭 御厨村  五二六円七七銭 中津村  三五九円七四銭 共和村  三三七円二六銭 信里村

 文部省の認可を得て、大正十四年四月一日に開校した当初の、学校組合町村別入学生は表76のようであった。その後、昭和の経済不況のなかで財政的に支えきれなくなり、昭和八年三月三十一日をもって廃止となった。在学生徒は篠ノ井高等女学校の相当学年に編入された。


表76 篠ノ井実科高等女学校入学生数