長野市の商工業の発展にともなって、市域の内外からの流入人口が多くなった。なかには生活の維持にこまった農村や町の住民の子女の一部が、町の商家や工場へ住みこみの奉公人や工女として働きにでていた。それらのうちには、義務教育の学齢該当者もあったが、就学しないものもいた。このような事例が各地にみられるようになり、長野市では先にみた明治二十七年(一八九四)の子守学級の設置につづいて、四十二年には夜学学級、大正十年(一九二一)には半玉のための学級を設置している。
市内の芸妓置屋には、下地っ子・半玉仕こみとよばれる、雛妓(すうぎ)雇少女の学齢該当児がいた。これらの児童たちは、就学して義務教育を終了することもなく、営業が盛んになった料芸関係の店に働く芸妓たちの雑用や、一人前の芸妓になるための稽古事で日々を過ごしていた。このようなこどもたちにたいして、松本市ではすでに明治三十三年に特別学級を開設し、大正五年十月には料芸組合の出資で、下横田町(東筑摩郡)に松本小学校裏町特別学級をおき、一日二時間毎週一二時間、専任教員が松本小学校から出張して授業をおこなっていた。それにならって長野市でも、これらの児童に、①就学の便をはかり、普通教育の普及をすすめる、②社会環境の改善をはかる目的のもとに大正十年、長野尋常高等小学校鍋屋田部校に特別学級を設け、四月二十六日から授業を開始した。この学級は「柳の組」ともよばれた。担任は事務担当の牧野があたった。長野尋常高等小学校の学校要覧によると、大正十年度の就学児童は、三年三、四年九、五年六、六年一一で合計二九人であった。一週間の授業内容は、修身一、読み方四、書き方二、算術四、珠算一、地歴一、裁縫四、作法一の計一八時間で、教育上つぎの四点に留意していた。①普通学級より一時間始業を遅らせる、②家庭での生活を考え、週授業時数一八時間に短縮した、③とくに修身・作法等に留意し、裁縫の修練に力を注ぐ、④料芸組合と連絡して適当な注意を加える、であった。
この学級のようすを参観した『長野新聞』は、大正十一年十二月「畳に座って寺子屋風に、学業にいそしんで居る特別学級の生徒、鹿児島から視察に来た女教員を笑ふ」と題して、「教室は便宜上権堂町秋葉神社境内の公会堂楼上に置いている。在籍児童数は二八名で、内訳は尋常二年一名、三年五名、四年八名、五年八名、六年六名である。尋常二年以下は普通の学級に編入し、半玉仕込み等でも、雇い主の希望によって普通の学級におる者も多くいる。雇い主の中には特別学級の名前を嫌って、普通学級へ入学を希望する者もあるという。授業は午前九時に始まり、ほとんど休憩時間もなく授業が進められ、午前中限りで帰宅させている。これらの児童は、営業の関係上毎夜遅くまで起きているのであるから、普通学級のように画然といかないのは、無理のないことと思われる。学科は修身・国語・算術・裁縫・作法の五科目を主とし、地理は旅行体のもの、歴史は模範人物とか昔話などを教材とし、理科は生理・衛生に関する事項、特に人体生理に重きをおいている。受持教師は主任が久保田女史で、ほかに五味部長ほか男性教師一人が指導にあたっている。授業は、畳の上に低い机を置き昔の寺子屋風で、書き方にいそしみ静粛に学習していた。五味部長によると、この学級の特徴は、①各学年を同室に集め一人の教師で指導するので、児童の個性をよく見いだして個人教育ができる、②児童は環境のせいもあろうか、比較的ませている、という。五味部長はさらに続けて、服装も普通の児童と異なるところはない。これらの児童は頼るところがなく、やむを得ない運命の下に置かれたものであるから、この児童たちを軽蔑するのでなく、人類愛の立場から同情を寄せるべきである。世の中の紳士たちが、からかって猥褻(わいせつ)な言動をするのは、好ましくないことである」と報じている。視察の女教師を笑ったというのは、鹿児島県から視察にみえた数人の女教師が、白粉をごてごてつけていたから、教室にはいってきたのを見たとき、児童がいっせいに笑いだしたので、受持教師も参観者も、皆顔を赤らめたということであった。
明治二十七年に後町尋常高等小学校に設立された子守学級は、その後社会に受けいれられ、三十九年二〇人、翌年からは二六人・二〇人・二七人となり、四十三年には四一人になるなどひろがりをみせるようになっていった。四十二年度からは幾分広い教室を得たことも、子守児童数がふえたり内容の整備がすすんだりすることに、つながったようである。
明治四十二年二月には内務省から子守教育所にたいし、慈善救済事業の成果をたたえ、いっそうの向上を期待して、奨励金が交付されている。取材に訪れた『長野新聞』の記者に、三村校長は抱負をのべるとともに、担当者の業績をたたえて、「子守教育所設置のねらいは、下層社会の環境の改善を図ると同時に、就学率を高めるという方針から出たもので、これは近年向上してきたので、今後は一歩進んで嬰児(えいじ)預かり所というようなものを設けたいと思う。夫婦共働きのものが働いている間だけ預かるようにしたら、よほど好都合だと思う。下付されたお金は、嬰児に与える玩具類の費用に使うよりは、暖炉や消毒機械のような教室の設備に充てたほうが有益であろう。いずれにせよ、多年にわたりこの仕事に従事している中村(多重)氏の労が、極めて大きい」と語っている。
明治四十四年城山尋常高等小学校の子守学級では、毎日三時間ずつ修身・国語・算術・裁縫・育児法を主として、尋常小学校の全学科を指導している。児童は、雇いの子が五八・七パーセント、自家通学児童が四一・三パーセントとなっており、普通学級に入るべき児童を、子守をさせながら登校させていた親もあった。
大正二年(一九一三)の幼児保育所調査によると、入所児童は六歳未満三人、それ以上二二人、計二五人で、男子九人、女子一六人であった。一日平均の預かり人数は二一・九二人となっている。この調査では幼児保育所の効果として、①幼児の身体発達上の便宜があたえられ、また規律的習慣を養成するうえで希望がもてる、②夫婦共働きの市民のために幼児を預かることは働くものに歓迎される、③従来は幼児が同じ教室内にいるため、泣いたり騒いだりして学習の妨げになることが多かったが、幼児を別教室に保護したため、子守児童の学習上著しい便宜となって、学力・技能の進歩が顕著である、の三点をあげている。
大正十年の長野尋常高等小学校の子守学級は表77のようであるが、後町の第三学級は幼児保育で、城山の第二学級は補習科と幼児保育の混合であった。授業は尋常四年までは、修身二・国語八・算術五・裁縫二・唱歌一・計一八時間、五年以上には地理・歴史・理科各一時間を加えて、計二一時間であった。子守学級主任訓導の中村多重は、長年にわたって研究してきた嬰児の保育方法について、『子守の心得』という小冊子を印刷して、教材として修身・国語等の時間に扱っている。この内容は、①こどもをおぶうときの、帯の選びかたと締めかたやこどものおぶいかた、②こどもの泣きかたについて、それぞれのときのこどもの状態と扱いかた、③国内製と外国製のおもちゃの種類・品質・染料と、それらがこどもの衛生・知能・気質・性格等におよぼす影響などについて研究調査したものであった。児童は夏休み後に欠席者が多く、冬は遅刻者が多かったようである。
学校ではこれらの児童が、午後は家庭で嬰児の飲食や家事の手伝いのため、登校が規則的にできないということを考慮して授業はおこなわず、ときどき家庭を訪問して出席の奨励をおこなった。教室は幼児の糞便などの臭気によるため、採光・通気に注意をはらい、ぞうきんがけや消毒をおこなった。授乳後よく眠る嬰児を、児童の授業中は安眠させるため、教室のわきに寝台を設けて休ませ、冬はこたつをつくって採暖に注意をはらっている。さらに、目が覚めた嬰児を飽きさせないように、教室の天井・側壁等に鈴・色紙等をつるしたり、花・盆栽を並べたり、小鳥類を飼育したり、絵や写真を張ったりして、こどもの目を楽しませようとした。
このような子守教育設備の設置をすすめた学校は、ほかにもみられた。更級郡では通明(篠ノ井)・北原(川中島)・西寺尾(篠ノ井)・塩崎(篠ノ井)・吉原分教場(更府)の各小学校に、記録がみられる。上水内郡では柳原・長沼・吉田・若槻・三輪の各小学校が、設置の稟請(りんせい)書を提出した。
また、長野市の商工業の発展につれ、家庭の貧困などにより、親や兄弟の仕事を手伝ったり、他の商工業者の徒弟や従業員として仕事をしたりするため、通常の就学ができない学齢児童も多かった。そのため長野市では、明治四十二年九月にはじめて鍋屋田尋常高等小学校に、夜間に授業をする特別学級を編制して、義務教育をおこなった。大正六年四月には城山尋常高等小学校にも増設し、九年四月の長野市小学校一校制実施にともない、両学級を統合して後町部校におき、翌十年四月には城山部校に移して複式編制にして実施した。児童数および授業内容は表78のようであり、学年がすすむにつれて人数が増加している。仕事を終えてからの毎夜の二時間は、児童にとって大きな負担だったとみえ、卒業者は少なく中途退学者が絶えなかった。そのため学校では、担任が家庭訪問をして就学をすすめたり、家庭の状況により筆・紙・教科書・ノートなどをあたえたり、そろばんなどを貸しあたえたり、とくに貧困な家庭の児童のためには、出席日数に応じて金銭や衣類などを給付した。また、尋常科六年の課程を修了した児童には、実業補習学校の予科一年に入学できる便宜もはかっている。通学する児童は商店の店員が多く、職工見習い児童は二~三人、自宅通学は一~二人にすぎなかった。この夜学の指導には、訓導丸山東一・和田地球治ほか四人があたっている。この夜学教育のための経費は、長野小学校の予算(市費)から八二五円があてられ、事務費や事業費に使われている。
松代地方では各製糸場で工女を養成したが、義務教育を終わっていない工女のための教育は、社員や学校教師・元教師の出張授業により学習指導がおこなわれた。大正五、六年に、特別教育認可申請を県庁へ提出しているのは、表79のようになっている。いずれも、工場内の一隅の倉庫などに、机・椅子・塗板・オルガン・そろばん・石板などをそろえて、授業をすすめている。授業はどこも週六日、一日二時間であり、期間は三月一日から十二月末までであった。ただし、工場の休日と六月一日から八月末までは休みとされていた。授業内容は、共通して修身・国語・算術であり、小池のところでは裁縫が加わっている程度であった。