長野盲唖学校と遅進児の教育

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明治三十三年(一九〇〇)、楽善会の経営による長野盲人教育所が開設され、目や耳の不自由な児童の教育は、明治三十九年四月には私立長野盲唖学校の設立へと発展した。この学校は、盲生・唖生ともに各一学級・定員各三〇人で、後町東尋常高等小学校内に開設され、学則はつぎのようになっている。目的は「小学校の課程に準拠して盲唖の子弟を教育し自活せしむべき基礎を作る」であり、教科は「分かちて本科技芸科の二とす。但し唖生に於ては当分技芸科を欠く」とされていた。教科目は表80のように修身・国語・算術のほか、盲生本科では講談・唱歌・体操および解剖・生理・病理の大要・鍼治(しんじ)・按摩(あんま)を各学年二七時間であった。唖生本科では図画・体操および手工(男子)・裁縫(女子)、国語は読み方・綴り方・書き方・筆談・発音を、一年二二時間、二、三年二六時間、四、五年二八時間であった。盲生技芸科では解剖生理病理の大要・鍼治・按摩を各学年一八時間と定められていた。修業年限は本科は五年、技芸科は三年であった。そのほか授業料を徴収しないこと、卒業後二年以内の温習・補修を認めること、寄宿舎に入るものの寄宿料は、一ヵ月およそ五円以下とすることなども定められていた。


表80 長野盲唖学校の指導教科と時数

 学校運営のための歳入は、県からの補助金一〇〇円、市からの補助金三〇〇円など五三〇円でまかなっていた。歳出は二人の専任教員と一人の嘱託教員の俸給に四〇八円、盲生用点字用紙・唖生教授用具・木炭・紙などの消耗費などの校費九九円、雑給二三円にあてている。

 明治四十五年(大正元年)の事業報告書によると、在籍児童は盲生部本科男子二〇人(うち入学児童四人)・女子四人、技芸科男子一人、唖生部本科男子一一人(うち入学児童二人)・女子四人(うち入学児童二人)、技芸科〇、合計四〇人であった。これを校長小林照三郎、訓導花岡初太郎ほか一人、専科二人、准訓導一人、嘱託一人、医師一人が指導にあたっていた。学校では四十五年、共済会を組織して貯蓄を奨励した。卒業生には鍼按業が一三人おり、平均一八~九円の収入を得ていた。なかには、県町で按鍼療院を設立して業務をおこなっており、評判がよく業務を拡張し、月収一人三六円内外を得ているものもあった。盲唖学校の教師となったものも一人でている。唖生部卒業生のなかには、農業・売薬業のほか補習をするものもいた。盲生部児童が増加したため一学級をふやし、教室もせまくなったため、後町小学校南校舎二階に一教室をかりて移り、畳を新調して実習室を設けている。県の補助金がふえたのを機会に、新田町に二階建ての八畳間五室をもつ家屋を借りいれて、寄宿舎としている。児童一〇人が舎監の准訓導とともに生活し、訓練の実績をあげている。

 長野盲唖学校の教育について、『信毎』は尾崎隈川の「盲生と唖生の教育」という記事を、一一回にわたって掲載している。それによれば、学校の指導のようすや特色は大要つぎのようである。

 唖生の普通科では、算術は五年になれば分数を習得し、女は通常衣服の縫いかた・裁ちかたまでできるようになる。技芸部はなにより先に訓育・訓練ということに重きをおいている。それは親たちが、あわれに思ってわがままに育てておく向きが多いから、入学すると同時に学科を教授しようとしても、不可能であるからである。何事によらず、物体と文字を結びつけて教授するのである。そのために盲唖学校には、うりや柿やなしや各種の模型が教室に備えつけてある。唖生については、容易に発音できる生徒とできない生徒を区別して、発音主義と文字主義とを折衷した教育を実施している。


写真118 長野盲唖学校校舎新築まで7年間ろう唖部の教育がおこなわれた山王小学校 (長野ろう学校所蔵)

 盲生にたいする教育は点字によっておこない、指頭がすこぶる鋭敏で記憶力のよい生徒になると、イロハ四八文字を一ヵ月くらいで覚えこむという。点字の利用で、通常の本で一〇〇ページあるものなら、五〇〇ページから一〇〇〇ページにも達するが問題にはならない。何事によらず点字タイプライターで点字を打ちだし、本を作って教授している。

 大正十二年(一九二三)には、勅令により盲学校・聾唖学校の設置が義務づけられたことから、十三年三月には市立長野盲唖学校となった。盲生には初等部六年、普通科・音楽科・鍼按科からなる中等部四年、別科二年が設けられた。聾唖生には初等部六年、普通科・図画科・裁縫科・工芸科からなる中等部五年が設けられた。同年五月には県立代用校となったが、県立に移管され長野県長野盲唖学校となったのは、昭和八年(一九三三)であった。


写真119 昭和9年12月15日に完成した長野盲唖学校
(同前所蔵)

 知的障害児の教育については、大正三年一月の「教育事蹟概要草稿」から、教育方針や指導方法がわかる(大正二年度城山小学校「内申 請求書綴」)。それによると、城山尋常高等小学校では、従来知的障害児を正規の時間のほかに、休憩時間や放課後に特別に指導してきたが、これらの児童の指導を長くつづけるには、学級を別にして特別に教育するよりほかにないという結論になった。そこで明治三十九年にいわゆる「低能学級」を、四十四年には「成績不良学級」を設置している。その学級編制にあたって学校では、「児童の体力・心力及び家庭経済の状況を考え、適切なる教育を施す」ため、尋常一年の終わりに知的能力に劣る児童は「低能学級」へ編入し、「成績不良児童」は該当児童のみを集めて一学級をつくり、特別に指導している。

 複式の「低能児学級」二学級では、個人教育によって、個性に応じて興味をもつ学科には力を注ぎ、また心身の訓練に重点をおいた指導をしている。いっぽう、単式で三学級設置されている「成績不良学級」では、基礎教材を反復練習するのを主とする指導をおこなっている。このように城山尋常高等小学校では、知的障害児と成績不良児を別々に編制し、学力・障害などの程度に対応した教育をおこなった結果、これらの学級を出て尋常科を卒業した児童が二一人、高等科を卒業した児童が八人いたと報告している。

 これにたいして、後町尋常高等小学校の大正二年十二月の「調査一覧表」によると、知的障害児の学力の差も大きかったというのは、知的障害児には算数や国語の学力で劣る児童、先天的原因・境遇や病気などの後天的原因による児童、注意力の欠如や怠学・晩熟・知的障害など、多様な障害の児童が存在していたためであった(『県教育史』⑬)。担当する教師五人は、「低能児研究会」をもち理論と実際指導の両面から研究をすすめている。理論面では、内外の書籍・雑誌の文献により研究をすすめている。実際面では、習慣的開口・体重急変・疲労調査・兄弟関係調査、夏季休業中の児童招集の検討、修身・算術・国語等各科の教授法の研究などをおこなっていた。

 大正三年二月の『低能科研究会誌』には、「低能学級の現状及改良の点」、「低能学級の利害得失」、「低能学級の真理・説の比較」などについて、校長と五人の担任が話しあったことなどが載っている。そのなかのおもなものは、つぎのようであった。

 改良すべき点として、①受けもちは新進の、信用厚く親切な人を選ぶ、②児童の人格を一層尊重する(勉強すればできるということを自覚させ、他の学級生と対等の権利を与える)、③基礎教材に重点をおいていることが、教案にみられるようにする、などをあげている。

 「低能学級」特設の利害得失を検討では、三人の担任が利点として、①心神に適応した教育ができる、②外部のものは低能学級を知らないから、普通と思っている、などをあげている。弊害として一人の担任は、つぎの五点をあげている。①少しくらい理解ができるようになっても、一生低能といわれる、②内外より生徒の人格を害する、③児童の父母は悲しがる、④ふさわしい受けもち教師が得られない。首脳(低能学級主任)についても同じ、⑤創立当時と低能学級の内容は異なっていても、名称が同じである。

 その後、この学級の設置存続について賛否両論があったが、学級編制は、普通学級を主とした編制法であるとされ、後町尋常高等小学校の「低能学級」が廃止され、城山尋常高等小学校の「低能学級」も、長野市の小学校一校制が始まる前の大正八年度で廃止された。

 学校教育とは別に、大正期には長野市でも県下各地と同じように、身体虚弱児童の夏季児童保養所や臨海学校が開かれている。保養所は不摂生な生活になりやすい夏休みに、健康を損ないやすい虚弱児童の健康保持・増進をはかるため、医師の診断を受け家庭の同意を得た児童が参加した。大正十三年の赤十字長野支部夏季児童保養所には、県下各地から尋常二年から高等科一年までの六〇人が参加して、七月二十八日から信濃尻小学校校舎で開かれている。琵琶島の林間学校・水泳訓練・遊戯などをおこなっているが、長野からは二六人・更級郡八人・埴科郡五人・上水内郡二人が参加している。臨海学校は谷浜で七月二十六日から一週間にわたっておこなわれている。希望者三六七人・付添教師五三人・医師と看護婦各一人が、旅館三・寺院二・民家五に分宿したが、谷浜だけでは確保できず有馬川も利用している。毎日六時起床、朝食後学科復習、昼食後の昼寝のほか、午前と午後一時間ずつの水泳があって、午後九時就寝という日課であった。費用は一日昼食付き八五銭と、長野から持ちこんだおやつの代金一〇銭であった。