明治四十年以降昭和初期にかけて、現長野市域に存続・創設された幼稚園は表81のようである。
明治三十年代から存続していた旭幼稚園を除くと、どれもこどもの指導(保育)にあたる保母が一、二人で、保母一人が一五~二五人を預かっている。入園できる年齢は三歳以上、一日の保育時間は四、五時間、父母の払う費用は一ヵ月四〇~五〇銭であった。保育内容も遊戯・唱歌・談話・手技が共通して取りあつかわれている。昭和初期に開設された幼稚園には、指導内容として観察・会集が共通してみられる。松代幼稚園の植物栽培が異色の内容であった。
昭和五年(一九三〇)に設立された松代幼稚園は、園児五二人、園長と保母三人で出発している。一日平均の出席率は、九〇パーセント前後であった。ここでは当初から母の会が結成されており、医師による講演会・婦人伝道師によるキリスト教講話と親睦茶話会・マッサージ講習会・園児との遠足などがおこなわれ、半数近い出席があった。毎月の支出は保育料や入園料等だけでは賄えず、大部分をミッション(伝道団体)からの補助にたよる状態であった。
市立長野高等女学校(現長野西高校)では明治三十九年(一九〇六)、創立一〇周年を記念して、女子教育の一環として学校内に保育所を開設した。これを四十三年九月一日から幼稚園とするため、七月長野市長鈴木小右衛門名で、幼稚園設置申請を県に提出した。それによると、当分のあいだ箱清水の県立(四十二年四月に県立移管)長野高等女学校内におく。名称は私立長野幼稚園とし、敷地・建物は長野高等女学校の校舎を一部借用する。定員は五〇人で、次年度入学するものとそうでないものの二組に編制し、保母をそれぞれ一人おく。経費は一人毎月五〇銭ずつ七ヵ月の保育料一七五円と、設備費名目で入園児童で保護者から集める寄付五〇円の計二二五円でまかない、保母二人の七ヵ月分給料一四〇円と園費八五円にあてている。同園の規則によれば、幼児の心身の健全な発育をはかり、善良な習慣を身につけさせ家庭教育に役立てる目的となっており、遊戯・唱歌・談話・手技を週二五時間の在園時間にあつかうとしている。児童の年齢は満三歳から入学までの幼児となっている。
鈴木市長から知事に提出した校舎借用願いにたいして、学校側の意向を問われた長野高等女学校長渡辺敏(はやし)は、「本校教育ニ多大ノ利益アルモノト信ジ」るので許可してもらいたいとして、つぎのような意見書を知事へ提出した。①保育は女子の天職であるので、将来妻や母になる人を教育する高等女学校においては、幼児保育をじっさいに練習させる必要がある。②女子教育が隆盛になり見聞が広くなると、保育をおろそかにする弊害も出てくる。そのようなことのないようにするには、保育の練習をさせて、豊富な知識とこまやかな注意と恩愛の情によって、はじめてよくできる貴重な責務である。③従来の家庭での保育習慣には、改良すべき点が多くある。そのために女学生時代に幼児をじっさいに取りあつかって、理由を知ることが大事である。④女子の職業として、保母は小学校教師・裁縫や音楽の師匠よりもふさわしい仕事で、しかもやりやすい仕事である。いざというときには、独立してできる仕事である。⑤高等女学校に付設したい希望をもっているが、「高等女学校令」では認めていない私立幼稚園を設置することができれば、生徒が直接保育の仕事にはつかなくても、つねに保育のようすを観察する機会があるので、後日子女教養に大いに役立つと信じている。この申請にたいして、いずれは増築を要することになるとみた県は、審議を十分にするためとして認可を保留した。しかし、保育所はそのまま継続されている。
学校に付設された保育所もあった。明治二十七年以来長野尋常小学校(現城山小)内に設けられている子守教育所に、幼児保育所が設置されたのが、その始まりである。それは子守児童の教育効果を上げるために、背中の幼児の保育について、手立てが講じられるようになったものでもあった。大正二年(一九一三)の「救済事業調査表(幼児保育)」によれば、市立長野幼児保育所の起源および沿革の大要には、およそつぎのように記されている。
保育法研究の一端として、本校の子守教育所に幼児保育所を併設して、学齢児童以下の幼児を集めて教育的に遊戯などをさせるようにすれば、このごろの幼稚園における教えこみすぎの弊害を改め、幼児の成長に有益であろうというのは、本校の長年の希望であった。たまたま明治四十二年二月十一日に、内務省から本校の子守教育所に奨励金三〇〇円が交付されたので、その一部を割いて幼児保育所の設備を整えてきたのが完了し、明治四十四年五月からようやく実施することになった。幼児保育所設置の目的は、①子守するこどもを背負ってくる児童の身体を健全に発達させ、併せてよい習慣を身につけさせ、家庭教育を補う、②夫婦が共に働いているものの幼児をあずかり保護する、と考えていた。また、入所対象児や保育料は①後町小学校子守学級に通級する子守児童が連れてくる五歳以上学齢未満の幼児を保育する。②兼ねて全家族労働に従事するものの足手まといとなる五歳以上学齢未満の幼児を預かり保育する。③保育料は徴収しない、などであった。
大正二年十二月時点の後町尋常高等小学校では、中村多重を代表として兼務訓導一人、有給の補助教員一人が保育にあたっており、年間預かり延べ人数は五三七三人、一日平均二一・九二人にのぼっている。このときの保育児童は、三歳以上六歳未満三人、六歳以上二二人、計二五人、内訳は男子九人、女子一六人であった。これらの児童を、後町小学校子守教育所内に設けられた八坪の保育室で保育している。あつかい方は大要つぎのようであった。
一 更衣 出入りごとに衣服をかえさせることはしない。
一 入浴 浴室を備えており、ときどき入浴させる。
一 間食 午前・午後各一回、菓子果物などちょっとした間食を与えることがある。
一 戸棚 幼児の所有品・携帯品を、自分から整理するようにさせるため、小引きだしをつけている。
一 恩物 年齢等により、与えたり貸したりして楽しく作業させるため、積み木や色板を備えている。
一 運動用具 晴天のときはできるだけ戸外や校外の適当な場所へ行って遊ぶ。雨天や炎天下等で外出ができないときは、室内で運動させる。主な運動用具は、ぶらんこ・金棒・渡り木・シーソー・輪投げ・陸上ボート・小旗・帽子・球・飛輪・綱引き・進馬・バスケットボール、ときどきは表情遊戯や競争遊戯をする。
一 玩具 家庭教育の参考にするため、最新式の玩具の研究をしようとして、東京フレーベル館三越呉服店内玩具研究部等より、自動車ほか七五点を購入。
一 庭園 小規模で未完成だが築山的庭園を設け、細かい砂を敷いて砂細工の便宜をはかった。一時中止をしたが、再び計画している。
市立長野幼児保育所では、成果としてつぎの三点をあげている。①身体発達上や自治・規律的習慣養成上有望である、②夫婦共働き市民のため歓迎されている、③子守児童の学習を進めるうえで学力・技能の進歩が著しい。
長野尋常小学校の子守教育所をうけついでいる。城山尋常高等小学校幼児保育所の入所児童は、明治四十四年時点では、数え年五歳六人、六歳一三人、七歳二四人、計四三人、男子一四人、女子二九人であった。入所の事情は、子守児童が背負って登校する幼児二四人、共働きや営業上こどもの保育に手がまわらない家庭の幼児一九人であった。城山小学校では、入所の幼児が年々増加し、昭和二年(一九二七)には「保育部」と格上げし、八年には「幼稚部」とかわり、二十一年には「城山保育園」となっていく。
県は、大正十年(一九二一)に設置された社会課が中心となって、十三年には各郡市町村の自治体や、愛国婦人会長野県支部などの団体にたいして、児童保護対策の実施を働きかけるとともに、補助金を交付して篤志家に常設保育所の設置を奨励した。また、幼児を遊ばせる広い敷地をもつ寺院などにも、施設の開放をすすめたり保育所の設置を奨励した。これに応じて愛国婦人会長野支部が中心になって、児童保護の講演会、児童の健康相談や衛生展覧会が開催され、農村部で農繁期の季節託児所が開設されるようになった。
その先駆となったのが、大正十二年八月の「大豆島村託児所」の開設である。これは大豆島農会によって開設・運営され、こどもにふさわしい木馬や遊転木などの玩具や間食は託児所で用意した。こどもをあずける願い書を出した農家は、ふとんとおしめ各一、二枚を持参して、二、三歳のこどもをあずけた。一年目の報告書では、嘱託医が三日に一回くらいずつ巡回して、健康状態を診察したり注意を与えたりしたので、一人の病人もなかった。そればかりか、規則的生活もあって、みんな活発で楽しそうであり、人にもなつき独立心も出ているという。十四年度では、受けもち巡査の夫人ら二人の保母が、一歳から五歳までの幼児一日平均三七人を保育している。開設期間は、農繁期の六月一日から十月末日までの五ヵ月間であった。大豆島村の成績から、郡の農会は農繁期の託児所の設置を、町村農会に奨励すると新聞は報じている。同年度の収支をみると、収入は、県補助二〇〇円、郡農会補助一〇〇円、村農会二〇〇円で計五〇〇円。支出は、職員給料三二〇円、家賃六〇円、医師五〇円、玩具間食等七〇円、計五〇〇円であった。ついで十四年六月には東福寺村、十五年八月には綿内村にも開設されている。昭和五年には、県が農繁期託児所開設促進の通牒を出してすすめたので、以後は田植え期・稲刈り期・養蚕期などを中心に、農繁期託児所が増えるようになった。
いっぽう、常設保育所は昭和二年一月に、長野保育園が長野市北石堂町(山王の職業紹介所の隣)に設立された。この時期に開設されている常設・季節の保育所は、表82のようである。長野保育園の経営主体は市の方面事業助成会で、七人の職員が三歳から七歳までのこどもを午前七時から午後五時まで、一ヵ月一円三〇銭の保育料で保育にあたった。定員七五人のところ、一日平均七二人の出席がみられた。このほか三年六月には、吉田児童保護会の経営による吉田保育園が吉田町に設立された。ここでは職員二人が、三歳から七歳までのこどもを、午前七時から午後六時まであずかり、保育料は一ヵ月一円五〇銭であった。定員は三五人であったが、一日平均三四人が出席している。六年一〇月には、長沼村に聖徳保育園が設立されている。
このようにこの時期に設立されている保育所は、有志の団体や寺院等の民間人によるものが多く、公立の保育所はあまりみられなかった。しかし、民間の経営ではあったが、県や郡市町村等の補助によって経営が支えられていた。保育時間は長時間ではあったが、遊戯を中心に楽しく安全に過ごすなかで、躾(しつけ)もおこなっていた。
季節保育所や常設保育所の開設がすすむにつれ、保育にあたる保母の養成が必要となり、大正十四年八月には更級郡東福寺村で、県下で初めて「託児所保母養成講習会」が開催された。講習会の定員は五〇人であったが、二〇歳前後の若い女性が、県下各地から推薦されて集まったため、六十余人が受講している。『信毎』は「東福寺託児所は専精寺住職海野貞純氏・元長野小学校で子守教育に専念した中村多重氏・酒井元川柳小学校長夫人の酒井キクノ氏の三人が面倒をみて、最近専精寺に設置された」と報じている。また講習は、東福寺託児所専精寺と東福寺小学校を会場としておこなわれた。
郡役所からは、翌年各町村長あてに保母養成講習会を終了したものの氏名などを掲げ、採用するようにすすめている。長野市域では、長野市に丸山いちえら七人、清野村に伊熊芳美ら二人、松代町に池田好子ら三人、塩崎村に宮崎夏枝ら二人、篠ノ井町に依田はつ子ら四人、東福寺村に中村婦みら三人、ほか稲里村・栄村・川中島村・共和村で各一人、県下で合計四二人の名前があがっている。これ以後も、昭和二年以後毎年「保育事業研究会」が、長野県社会事業協会により開催され、保母の養成と資質の向上がはかられた。