青年会の成立と自治化への動き

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明治中期には、各区の青年は、さらに心身の修養と社会活動をおこなうために、自主的に青年会を組織し、三十年代には、たとえば若槻村田子の三余学会は学術演説会を開き、長沼村津野青年会は学術研究会をおこなっている。当時成立した青年会は、組織上四種の類型がみられる。それは、①区や集落の在地勤労青年の地域青年会で、大正期にかけて連合して町村青年会となるもの、②上級学校在学者で、在京部と郷里部の組織をもつ郷友会、③キリスト教信者の宗教青年会、④政党青年会の組織する青年同志会などである。

 第一の地域青年会は、町内や区内あるいは集落など小地域に設けられたもので、長野市は市制施行の翌明治三十一年(一八九八)に全市域の長野青年義会が設けられ、その活動をみると例会を開き、新設の茂菅発電所(明治三十年七月開業)へ遠足をおこなっている。市内では権堂町が青年交友会を設け、「若連」ではなく新しい名称に「青年」を用い、三十九年八月には第五回例会を秋葉神社の倶楽部で開催している。四十一年には安茂里村の小市青年会・小柴見青年会が記念会を催し、新製品の蓄音機で音楽を聴き、福引きなどをおこなっている。


写真122 大正10年発行の信里青年会報第1号

 長野県は青年会の発生に注目して、その育成のため、明治四十年には「青年会設置ニ関スル注意事項」を通牒し、小さい団体をしだいに統一連合して、市町村や郡あるいは全県で互いに連絡して、進歩発達をはかるよう指示している。

 市町村単位の青年団の成立を、「市制・町村制」施行による地方自治体発足の明治二十二年以降の長野市域と上水内郡・上高井郡・更級郡・埴科郡の全域について、年次別に創立数をみると表83のとおりである。これによれば、全県では明治四十年の行政指導以後急増している。長野市では、市制発足の翌年全市域の長野市青年義会が創立され、大正四年(一九一五)九月にも長野青年会が発足したが、八年十一月市内各地域の三七青年会による長野市連合青年会(七〇〇人)が、城山の蔵春閣で創立総会を開いた。各町村でも各区集落の青年会の連合体と、町村全域の単一体とがあった。


表83 創立年別の市町村青年会数

 現長野市域の明治末期の青年会設置状況を、旧更級・埴科地方について『信毎』の報道でみると、明治三十三年の上水内郡安茂里村と若槻村に倶楽部があり、芹田青年会・大豆島青年農会があり、つづいて三十八年に吉田村青年会、四十年代には埴科郡西寺尾村青年会・西条村青年会、四十四年に東条村が集落の青年会を統一して村青年会としている。

 第二の学生による郷友会は、二〇世紀をむかえる明治三十年代の初めに続出し、更級郷友会(明治三十一年)・松代青年会(明治三十二年)・上水内青年会(明治三十三年)・埴科青年会(明治三十五年)があった。そのなかの松代青年会は旧藩主を中核とし、東京部は真田別邸を会場として例会を開き、郷里部は明治三十二年の夏季大会を松城閣で開き、傍聴者が一〇〇〇人あったという。四十一年の郷里部大会は中町の梅田屋で開催し、演説・福引・詩吟・琵琶・歌を演奏した。郷里部は水泳場を千曲川に設け、会員が一五〇人あって、四十四年の夏季大会には遊泳会をおこなっている。大正五年には東京部でも、赤坂に水泳場を設け、水泳部・撃剣部をおき、郷里部は松代小学校の体操場を使って尚武の風をおこそうとした。上水内青年会は、第一本部会を東京の鳴子園で催し、埴科青年会は三十五年に二八〇人の会員があって、屋代町柏屋で総会を開き、翌年の東京大会には六五〇人が集まったという。なお、全県下の信濃青年団が四十三年に第一〇回秋季大会を開き、神田錦町の錦輝館で幹事会をおこない、東京帝国大学、早稲田・慶応・明治・日本・中央・法政・東洋・専修の各私立大学・高等専門学校の学生代表三十余人が集まっている。


写真123 松代青年会郷里部の水泳部全科卒業証明書 (樋口和吉所蔵)

 第三のキリスト教青年会は、明治三十年代初めに市内の教会で結成された。三十一年には日本メソジスト教会文学会が発足し、三十二年には日本基督教会講義所に基督教青年会が生まれた。三十七年には、旭町の日本基督教会、県町のメソジスト教会、西後町の日本聖公会が連合して、長野基督教会青年会が結成された。日本聖公会の活動では、三十八年に青年演説会をおこなっている。

 第四の政治同志会は、青年有志の政治活動の組織で、埴科郡につづいて上高井郡・長野市に設けられた。大正元年に陸軍の朝鮮師団増設に反対して、「憲政擁護・閥族打破」を叫ぶ政治運動のなかで組織された。埴科郡同志会は、立憲政友会系で同志二〇〇人が、大正二年六月屋代町生蓮寺で発会式をあげた。同会は四年に、政界での権威を高めるために、埴科倶楽部を合併した。上高井郡立憲青年党はずっと遅れて、大正十五年に創設された。「一党一派に偏しない」青年政治結社で、立憲政治のために活動する団体であった。前年十二月郡下各町村の前・現青年会長と郡連合青年会長を、須坂駅前桐屋旅館に集めて、最高幹部会を開き、党員二〇〇〇人をめどとして結成を協議した。一月準備会で、各町村支部の開設と党員募集を打ちあわせ、二五歳から三〇歳までとし、同日創立委員大会を開いている。党員は二〇〇〇人に達し、創立総会を須坂劇場で開き、政友・憲政など各派の本部から代表者が派遣されて、有力者を交えて意見を聴いている。つづいて同じ十五年十二月、長野市に長野青年連盟が発足している。前月準備委員会が開かれ、五百余人の会員で創立総会が城山の蔵春閣で開催された。選考委員会によって会長に矢島武が選ばれ、田中義一・鳩山一郎の祝電があった。発会式のあと、政党演説会がおこなわれ、四人の代議士が演壇に立っている。大正期には、政治熱が青年にも高まり、政治思想の普及がみられたのである。


写真124 昭和2年更級郡栄村青年会の第1回修道会が寺で開かれる


表84 更級郡(現長野市域)青年会 (明治44年末調)


表85 埴科郡(現長野市域)青年会