婦人会・婦人団体の活動

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明治四十年代から昭和初期までの長野市内の婦人会・婦人団体は、長野婦人会・愛国婦人会長野幹事部(のち長野分会)・長野丙申婦人会・淑徳婦人会・明照婦人会・日本赤十字社篤志看護婦人会長野支会・キリスト教婦人矯風会長野支部・長野婦人報恩会・信州婦人社母の会・長野家庭副業組合など、さまざまな組織があった。

 明治四十年(一九〇七)七月の『長野市長野婦人会戦時誌』には、鉄道での軍隊の輸送・傷病兵の護送にあたって愛国婦人会員は長野駅で奉仕につとめたことを記したあと、「而して愛国婦人会員は一面は長野婦人会員なれば、実は本会活動の権化たりとも称し得べし」と書いているところから、長野婦人会員の多くは愛国婦人会員でもあった。また、長野市長丸山弁三郎の夫人丸山ふみ子の場合は、大正十二年(一九二三)当時には長野婦人会常務理事であるとともに長野丙申婦人会員であり、さらに長野家庭副業組合の組合長でもあった。ふみ子の立場上、愛国婦人会の会員でもあったと考えられる。ふみ子は『信毎』記者に「長野婦人会と丙申婦人会は、ある時期がきたら必ず合同しなければならないと思います。互いに母子のような関係ですから」と語っていた。

 長野丙申婦人会は、明治二十九年十一月大本願の上人を会長にして市内の商家の女性を中心に創設された。主として大本願上人の法話や軍人・警察署長の時局の講話を聞き、文庫を設置し、高等女学校卒業生などを中心に処女会を新設して、琴・三味線・茶の湯・生け花・裁縫などを教授し、自彊術講習会を開いたり映画会を催したりと、女性の知徳の教養を高め親睦をはかることを目的として活動した。

 長野婦人会は種々の事情によって大正五年から休会状態になっていたが、七年一月二十日に倉島あきを会長とした長野婦人会が発足した。月刊機関紙『信州婦人』をもって自主的運営と自由主義的活動をつづけたこの長野婦人会は、十四年には会員数三六二人に達していた。長野婦人会は大正十年に、城山商品陳列館で呉服・化粧品・小間物類・金物・陶磁器・履物類などのおおがかりな社会奉仕特売バザーを開いた。翌十一年には長野婦人会と信州婦人社は、合同して信州婦人夏期大学を創設し、小県郡別所温泉常楽寺で住職半田孝海夫妻の協力によって、一〇〇人ほどの出席を得て第一回を開講した。こののち夏期大学はおよそ一〇年間にわたり毎年八月に四日間ほど開かれ、大正期には有馬頼寧(よりやす)・山田わか・富士川遊・市川房枝・帆足理一郎と妻みゆき・山高しげり・高島平三郎・塚本はま子など、進歩的な講師を招いての講演が多かった。夏期大学のほかに、修養・女性解放の学習・料理・手芸・生活改善・演劇など多彩な活動をした。


写真126 昭和3年7月10日の『仏都新報』に掲載の信州婦人夏期大学の案内

 長野市周辺の郡部でも自然発生的な婦人会のほかに、郡役所からの働きかけに応じた町村長や小学校長の勧誘によって、愛国婦人会が町村ごとに結成された。こうした事情から、表87でみるように婦人会長を村長や小学校長が兼ねたり、地域の名望家の男性がなり、事務局を小学校内において、幹事を女子教員がおこなう例が少なくなかった。


表87 現長野市域市町村婦人会等一覧 (大正14年現在)

 朝陽村婦人会の創設については、大正七年一月一日の新年会の席上、村長丸山寅吉・小学校長山岸嘉十郎が発起人となって村内有力者の賛成を得て、村会議員を加えた創立委員会を組織して準備を始めた。委員会は①二〇歳以上の主婦、②会費は一回一〇銭、③服装は木綿服、④村会議員が会員募集をおこなう、という協定事項を決めて会員募集をし、二月十一日に新会員三〇〇人を集めて発会式をおこなった。会則七ヵ条を定め会長に小学校長を選んで発足した。年二回総会を開いて講演を聴き、浪曲や講談で楽しいひとときを過ごしたり、会員への物資の斡旋(あっせん)をおこなったりした。

 小田切婦人会も小学校長斉藤順孝のよびかけによって、明治三十八年に塩生・山田中を中心区域として発足した。会のおもな事業は、当初は講演会・兵士の送迎・裁縫・染色・割ぽうなどの講習、遠足(布引観音・三水観音・久米路橋・野尻湖)、遊戯練習、余興の福引き・浪曲・蓄音機(レコード音楽)などであった。

 塩崎村の場合は表87には塩崎村処女会だけ載っているが、処女会は婦人会の一部として設けられたものである。婦人会は大正四年十一月十日に創立総会を開き、学校長を会長として発足した。おもな活動は講演会、七〇歳以上を招いての敬老会、裁縫・毛糸編み物・洋服・洗濯・真綿加工などの講習、遠足などであった。

 芋井婦人会の場合も、大正七年夏の学校での講習会を機会に、小学校長早野竹蔵がのちに会長になった金沢れいに婦人会の設立と会則作成を呼びかけたことから始まった。翌八年三月二十日に学校長を会長として、学校を卒業したばかりの娘から若妻・主婦・老人まで幅広い構成員で組織して発足し、毎年三月二十一日に総会を開いて村長や学校長の話を聞き、会員の歌や寸劇で楽しく過ごした。これがやがて、愛国婦人会に組織替えされ、昭和八年(一九三三)からは金沢れいが会長となった。芋井村では十一年からは主婦会が組織されて、地区ごとの念仏講とかねて主婦貯金がおこなわれた。


写真127 愛国婦人会のたすきの形式

 松代町には松代婦人協会のほかに、寺院ごとの婦人会や製糸会社の工女を主体にした六工社婦人会・白鳥館婦人会・窪田館婦人矯風会などが存続していて、それぞれ総会で地元名士や僧侶・教員の講和・訓話を聞いたあと、音楽や落語などの余興を楽しんだ。

 愛国婦人会長野幹事部は明治四十一年に第一回総会を開いて、会の拡張につとめるとともに軍人遺族救護・廃兵(傷病兵)慰問・災害義援をおこなった。さらに、大正期にはいると知名の士の講演会や長野市教育会と合同しての通俗講話会を城山館で開催し、音楽会や慈善市を催し、日本赤十字社篤志看護婦人会と協力して看護法の講習会などを開いた。大正九年のシベリア出兵にさいしては、一個一円相当の慰問袋を三〇〇〇個作って送り、留守家族の慰問をおこなった。十年からは児童保護の活動をはじめ、端午の節句を児童愛護日と定めて児童愛護週間を設け、翌年から健康幼児審査会も開いて健康幼児の表彰をおこない、昭和六年からは四歳から学齢までの幼児大運動会も開いた。

 この愛国婦人会は、大正末ごろには郡ごとに連合体組織が作られた。十四年九月二十六日に埴科愛国婦人会が結成され、同年十一月十九日に上水内愛国婦人会が城山運動場と城山館で発足し、翌年四月二十五日に更級愛国婦人会が篠ノ井高等女学校で開かれた。愛国婦人会員は対外戦争などの機会に会員が増加して、郡市別の会員数は表88のようである。愛国婦人会長野分会では、とくに満州事変・日中戦争では他の婦人会と合同し、銃後活動として兵士への慰問袋作成送付・兵士の歓送迎・遺族救護につとめた。


表88 愛国婦人会会員数の推移

 明照婦人会は大正三年六月十五日に創設し、小坂しげを会長として事務所を大本願明照殿内におき、浄土宗本山僧正や大本願上人の法話に学んだ。淑徳婦人会は八年十月八日に創立し、長野愛国婦人会幹事部長を経た早川鎰子(いつこ)を会長にして、講演会を開きさまざまな講習をおこなった。

 キリスト教婦人矯風会長野支部は、大正十四年十月二十八日に発会式をおこない、廃娼・禁酒・平和を運動の中心にして精力的に活動した。とくに女性の人権獲得のために、廃娼運動と婦選運動に力を尽くした。その一人である小笠原嘉子は昭和三年(一九二八)二月に「女性の問題は女性同志が手を取り合い一つになって解決せねば、ほんとうのものは生まれないということを、切に思うに至りました」「力がほしい、権利がほしい」「今全国に向かって声を大にして叫んでいる婦選獲得同盟も、きっとこの婦人方の涙の結晶であることを私は信じることができるのでございます。ほんとうに仕事をなし終せるには、権利がほしいと思うことは、むしろ当然すぎるほど当然なことではございませんでしょうか」と『信濃の十年』に書いている。同年三月十七日には婦選獲得同盟主催で、信濃毎日新聞社の講堂で婦人問題講演会が開かれた。講師演題は市川房枝「婦人参政権について」、秋山花子「昭和の女性に望む」、金子茂「婦人問題と婦人運動」、竹内茂代「育児と性教育」であった。『信濃婦女新聞』は同年三月十五日付けで「婦人に自治参与権及び国政参与権を速かに与ふるの可否」のアンケートをとった。回答者二一人のうち、長野市の村松としは「被選挙権はともかくも、選挙権は今すぐでもよい」「資格は二五歳以上の婦人」と述べ、小笠原嘉子は「婦人に自治参与権は一日も早く与えていただきたし」「資格は二一歳以上」と答えている。翌四年十二月十日、小野秀一県会議員を通して廃娼案とともに婦選意見書を県会に提出したところ、廃娼案は通らなかったのに婦選意見書は委員会を通過し、本会議において満場一致で可決されて、その後の運動の大きな励みとなった。

 大正十五年には長野市社会課の呼びかけで、市内の婦人会の歩みよりの方向が生まれ、十一月七日城山館で長野市連合婦人会創立総会が開かれ、高橋県知事夫人が会長に選ばれた。翌昭和二年四月二十三日、城山蔵春閣に八〇〇人を集めて長野市連合婦人会総会を開き、高橋会長を議長に宮下やす子が経過報告、倉島あき・小笠原嘉子などが意見発表をおこない、正木不如丘「愛児のために」の講演を聞いた。

 県内他地方の女性との関係では、長野市で開かれた信濃毎日新聞社主催の「全信州婦人大会」がある。大正十二年四月十五日に四〇〇人を集めて第一回大会が開かれ、婦人平和協会の井上秀子の講演のあと、信濃毎日新聞社の社屋やその他の見学がおこなわれた。翌十三年四月十三日の第二回大会では、協議題「現代男子に対する婦人の要求」をすえて、倉島あき・宮下やす子・小笠原嘉子が意見発表をした。

 大正期には婦人会を母体として、処女会・同窓会・少女会などと称する未婚女性を中心とする組織もつくられるようになった。大正十四年の「上水内連合女子青年団沿革概要」によると、婦人会のみが九ヵ村、婦人会と同窓会(または処女会)並存の村が七ヵ村、同窓会のみが一〇ヵ村ある。