長野市教育会の通俗教育

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明治四十年(一九〇七)信濃教育会では、社会教育事業に関する施設をつくり、ひろく教育の普及をはかろうとした。その計画実施のために、渡辺敏・細川周太・三村安治・太田秀穂・木幡忠・松下金六らを通俗講談取調委員に委嘱した。四十五年には、県から通俗教育奨励資金七五〇円が交付され、信濃図書館内に通俗図書館を開設した。大正元年(一九一二)十二月後町小学校准訓導中村多重と上伊那郡宮田村の岸本與(あたえ)の二人を、地方における通俗教育の普及をはかるため通俗教育幻灯師として委嘱し、中村はおもに北信地方を、岸本は南信地方を巡回講演させた。また、童話作家の久留島武彦が長野に来たのをうけて、長野県師範学校と同附属小学校・長野高等女学校の三ヵ所で久留島の通俗講演会を開いた。

 長野市教育会では、明治四十年五月制定の「長野市教育会則」に長野市教育の普及改良および発達をはかることを目的に、事業として講習会の開設や教育に関する演説会・談話会・討論会を開くことをあげている。また、一般の人たちのための通俗講談会をひらくこともうたっている。これを受けて時の名士を招いて講演会や講習会を開いている(表89)。これらは、総会や定期集会・常集会・臨時講演会などの機会におこなわれ、内容としては、視察報告・学術研究関係・教育技術関係・哲学・宗教・倫理関係から、芸術に関するものや時局に関するものまでさまざまなものであった。いっぽう通俗教育は、市町村民の知的水準向上のために青年会や婦人会を中心としておこなわれた。学校や教育会では、通俗教育の方法として教育品展覧会や巡回幻灯会などを開催した。


表89 長野市教育会通俗講演会

 大正三年(一九一四)七月五日夜、長野市城山館(じょうざんかん)西館広間では、東京講談幹部委員の柴田馨による通俗講談がおこなわれた。「長野市教育会日誌」の記録によると、教育会主催または信濃教育会との共催等による通俗講演会は、表89のようである。招かれた講師の顔ぶれは、童話作家(久留島・巌谷・松)・陸軍少将(伊豆)・日本力行会会長(永田)・東京商業校長(嘉悦)・義士研究家(小林・福本)・漬け物研究家(大原)・フランス飛行大尉(重野)・早稲田大学講師(永井)・海軍中将(上泉)・報知新聞記者(関)などと多彩である。講演内容は、聴衆の層にあわせて、時局講演会から青年の夢や婦女子のあるべき姿や世界のようす等、さらに生活一般まで多岐にわたっている。大正六年五月三十一日城山館で開催した通俗講演会は、講師に童話作家の久留島武彦をむかえ、「世界に於ける蜘蛛合戦」と題しておこなわれた。午後二時三〇分からはじまったが、この会は、長野市教育会の常任委員会の決議では市内の各小学校尋常六年以上の生徒を聴講させるようになっていたが、予定以外の小学校生徒や各中等程度の学校生徒および各学校職員や市内有志等の参集もはなはだ多く、蔵春閣内は立錐の余地もないどころか、周囲の縁側や廊下等に聴衆があふれ、その数は約一七〇〇人から一八〇〇人にもおよんだ。

 また、学校などの主催でおこなわれた通俗講演会のうち、大正五年五月三日城山尋常高等小学校体育館の教育幻灯会では、午後七時よりはじまり、尋常科四年生以下は保護者同伴とし、午後一〇時までおこなわれた。解説者には岸本與があたり、入場者は多く体育館は満員になった。

 大正七年十二月六日長野市教育会では、普通教育部と社会教育部を設置し、委員の委嘱をおこなった。普通教育部には守屋喜七・山崎作治・中沢照琳・森豊馬・土屋慶一郎・尾崎逢太郎・小池清之助・杉崎瑢(よう)・山崎弥生の九人とし、社会教育部には、春日賢一・安達貞太・赤沼万次郎・丸山弁三郎・小林小四郎・北村長次・宮下友雄・七沢清助・鈴木績の九人を委嘱した。十日の打ち合わせ会では、通常会の講話は教員に聞かせることを中心として講師を選ぶ。一般市民の会員にたいしては、別に通俗講話の機関をおく、として別だてに開くことを決めている。

 大正八年六月十六日の委員会では、通俗講話の開催だけでなく、青年会の設置や体育的施設についても話をし、青年会については、市長から各区に青年分会を設置するように働きかけ全分室が設立されたときに長野市青年会の発会式を挙行することとした。また体育的施設の面では、長野公園内に相撲場をつくり、秋の県社祭日に青年相撲大会を開催することにした。こうして、通俗教育の普及のために青年の組織化もあわせてすすめていった。通俗教育はこのあと大正十年には社会教育と改称された。


写真128 通俗教育調査委員会では、通俗図書や幻灯・活動写真フィルムの目録を作成した