義務教育延長と師範三校問題

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就学の義務年限は、明治十九年(一八八六)の小学校令で四年と定められていたが、明治四十年四月改正して六年となり、四十一年四月から実施されることとなった。あらかじめ三十三年に小学校令を改正して、尋常小学校(四年課程=義務教育)と高等小学校(二~四年課程)のほかに、両課程を併せて一校とする尋常高等小学校を設ける制度を定めて、尋常科を六年に延長して義務教育とすることができる体制をつくった。そして、尋常高等小学校が広く市町村に設けられる情勢をみて、政府は四十年に尋常科六年、高等科二年として、尋常科の課程を義務制としたのである。

 長野市は、早くから子守教育所や働く男児の夜学所を設けて、就学歩合がつねに県下において優等の位置を占めていたが、「現在欠席するもの百余名」にのぼるということから、鈴木市長が発起人総代となって、「県の準則に基き学齢児童保護会を設立」した。そして、対象の児童に「応分の補助を与へ、出席を督励し、就学の義務を終わ」らせるように、「有志の募集に着手」したと、四十三年十一月『信毎』が記事を載せている。

 明治四十一年度には尋常科五年が義務制に移行し、四十二年度には六年が義務制になるが、行政上問題となったのは就学奨励と教育費であった。学齢児童を全員就学させるには、心身に障害のある者の就学の猶予と免除するものを除いて、貧困家庭の対策や保護者の啓蒙が必要で、県は市町村にたいして学齢児童保護会の設置をすすめたのである。また、市町村では学級増加の施設と教員配置の対策を講じ、県は教員養成を急がなければならなかった。移行時の県下小学校教員数の増加をみると、延長の初年度四十一年は前年度より三五二人、四十二年には三四〇人増加している。そして教員の資格は当時、正教員がおよそ五割、無資格の代用教員が三割となっている。長野市では、四十三年度「なるべく有資格者を採用する方針をとりつつあり」、しかし「全国中首位を占むる奈良・水戸等に比すれば未だ遜色あり」と『信毎』は報道し、表90の統計を載せている。


表90 教員有資格者の割合(明治43年度)

 文教政策上、義務教育の延長にさいして問題となったのは、教員養成の拡張と教員の質を高めること、つまり正教員の充実であった。そこで文部省は、明治四十年四月師範教育令に基づいて師範学校規程を定め、本科二部制を実施することとなった。その趣旨は、尋常小学校の六年延長にともない、「優良ナル小学校長・教員の養成」と、教員の「不足補充」を図るためであった。師範学校の本科は、従来入学資格が予備科または小学校高等科三年卒業程度で、修業年限は四年であった。長野師範には予備科がなかったので、高等科二年を卒業したのち、長野市の中野塾(東町・塾主中野保)や更級郡牧郷村・南佐久郡臼田町・下伊那郡飯田町などに設けられた臨時教員養成所で修業して、師範学校本科を受験したのである。この改正で、これまでの本科を第一部とし、第二部を新設して中等学校卒業者を入学させることになり、修業年限は五年制の中学校・女学校の卒業者は一ヵ年、四年制の女学校(長野県など)の卒業者は二ヵ年であった。このように第二部は、教員不足に対処して正教員養成の道を開いたもので、短期養成の財政的に有効な制度であり、「土地の情況ニヨリモウケザルコトヲ得」という、第一部本体の養成制度であった。

 しかし、長野県は第二部を重視して、長野高等女学校長渡辺敏や前城山小学校長村松民治郎など教育界の有力者は、二部本体論を唱えた。そして県は、第二部の修業年限を大正七年に一年四ヵ月、十二年に二ヵ年に延長したが、これは全国ただ一つの例で、十四年の改正にさいして、長野県も二部を一ヵ年とした。この改正で一部は五ヵ年となり、入学資格は小学校高等科二年卒業程度となった。なお、信濃教育会は師範学校を修業年限三年の専門学校程度とすることを提唱していた。

 長野県師範学校の校舎は、長野県庁と隣接して西長野町(現信州大学教育学部校地)にあったが、たまたま県庁舎とともに明治四十一年五月火災となった。師範学校は翌六月再度火災があり、県庁は妻科村幅下(現在地)に新築移転し、師範学校は義務教育の延長にともなって拡張し三校とする議案を、大山綱昌知事は四十一年十一月の通常県会に提出した。この三校案は、松本女子師範学校を上田に移転し、この跡を男子師範学校として、男子は長野・松本の二校に分設する計画であった。提案理由として、県下の正教員充足率が全国府県中三〇位であること、生徒定員(一部三七〇人、二部四〇人)が一校として大きすぎると述べている。これにたいして県会は反対論がつよく、一読会・二読会とも否決を重ねたが、これを受け入れない知事の態度は「非立憲」であると非難して、不信任案の緊急動議が出されるなど対立を深めた。知事は内務・文部両相の指揮を要請して原案執行にふみきり、女子師範の校舎を上田町鍛冶町裏(染谷丘)へ着工した。そして四十六年四月授業開始の見込みをもって、四十三年六月十四日の県告示で松本師範学校の新設と、松本、女子師範の上田町移転を公表した。これにたいして県会は、上田校舎建築三年目の大正元年十一月、増設廃止と移転中止の議案を上程した。この間、知事は大山から千葉貞幹に、首席視学は与良熊太郎から佐藤寅太郎に交替し、文部省は三校案の継続を指示したが、県会と世論の大勢によって廃案の結末となった。そして上田に新築された女子師範の校舎は、県立上田高等女学校の校舎として使用されることになり、明治四十一年十月提案された師範三校制は、八年後大正五年七月廃案となるのである。

 この問題にたいして明治四十一年六月『信毎』は、当初、トップ記事の「師範学校の拡張」で評論して、「普通教育の進歩を以て鳴り、現に全国の首位を以て許され」る長野県が、師範学校を拡張して正教員の不足を補うことは当然で、「我が県の将来に於いて重要」と県案に賛成した。いっぽう同紙は同年十二月、男子師範分設反対論の長老長野高等女学校長渡辺敏の「師範学校分設の提案について」の投稿を受けて、元老の人格を尊敬するためといって自社と異なる見解を連載している。この提案は、同時に『長野新聞』にも連載されたが、三校案は早急な「火災後の善後策」で、現時の師範教育のあり方を深く考えたものでなく、「県下教育一般の得失」を熟慮していないと批判して、県当局と議会に慎重な対応を迫っている。そして、男子師範の分設には、新潟・兵庫に問題の先例があり、その実情を調査して、中等学校長会・郡視学会・信濃教育会などに諮問すべきであると、県の軽率な手続きを指摘して、三校案の撤回を要望している。かれは、義務教育が延長され、中等教育が普及した現在の教員養成のあり方について見解を述べ、二部本体論におよんでいる。さらに、大正元年十一月の同紙に渡辺の「師範三校問題」を連載し、「一県の教育を完全に統一しようと思うなら、男女の如何んに関わらず二校・三校に分散して置く」ことは「断じて不可」と論じて、「小学校も一町村一校制、師範学校も一県一校制」にすべきで、近ごろドイツでは「一校長制度が盛ん」で、小学校には「一郡に一人の校長を置いて好成績を収めている」例があると紹介している。


写真129 長野師範学校校舎

 教育界では、信濃教育会の雑誌編集主任村松民治郎が、明治四十一年十月の『信濃教育』に「本県師範学校の将来に関する卑見」を発表し、分設を非とし、拡張の必要なしと主張している。県下一般の世論は、上田の田中救時(元県議)などの三校案賛成論もあったが、将来の教員人事へ禍根を残さぬよう否定的な意見が多く、実施にふみこんだ県の三校案を世論が葬り去ったかたちとなった。