明治中期の教育思想が大きく転換する兆しをみせたのは、明治四十年(一九〇七)代であった。日清戦争前の二十三年(一八九〇)に公布された「教育に関する勅語」は、国体にもとづく国民道徳の大本を示すものとして、これを教育原理として国定教科書がつくられ、国民教育がおこなわれてきた。日露戦争後四十年代に入って新理想主義哲学の影響をうけて、長野県の教師たちは「自我の自覚」・「自我実現」を教育の理念として、個性を重んじ、個人完成を人間形成の原理として、教育の革新をめざしたのである。
こうして大正期の信州自由教育は発足したが、大正期の考え方の一つに「教育は人である」という主張があった。後町小学校にいた首席訓導手塚縫蔵が発唱したといわれる、新しい人間の自覚にもとづく主張であったが、信州教育の伝統的な人格主義と結びついて、県下にひろがった。後町の手塚(後町小)と城山小学校の斉藤節の提唱によって、東西南北会が明治四十四年ごろ結成された。この会は、一流の人格者に接して人格を高めることを目的とし、資格・職業を問わず、「来る者を拒まず去る者を追わず」という自由な結社であった。三宅雪嶺の主宰する雑誌『日本及日本人』の読者欄「東西南北」からとって会名とし、参加したものは南安曇の岡村千馬太をはじめ、県下にわたって主に教師で、基督者あり、仏教徒あり、哲学を愛好するもの、国粋主義者もあって多士済々であった。
東西南北会は、講師として三宅雄二郎(雪嶺)・杉浦重剛・古島一雄・犬養毅(木堂)らの名士を招いて講演会を開催した。長野市では明治四十五年六月五日、長野市教育会と東西南北会主催で、三宅雪嶺の講演会を城山館蔵春閣で開いた。聴衆は八〇〇人、教師や長野師範の生徒や『日本及日本人』の愛読者などで、演題は「総選挙と教育」、選挙は人物本位、選挙思想の進歩は教育の力にまたねばならないと説いた。東西南北会は、大正二年(一九一三)九月二十六日にも犬養毅(総理・国民党)の講演会を城山館蔵春閣で開催している。明治期の教育会は、講師として文部省視学官や大学の学者を招いていたが、大正期に入って東西南北会以後、講演会に天下の名士を招く風潮となったのである。
東西南北会が弾圧を受けたのは、大正四年二月の長野県師範学校長星菊太の排斥事件であった。その前月の一月一日から五回にわたって『長野新聞』に螳螂生(とうろうせい)のペンネームで「萎微振るわざる師範教育敢えて校長星菊太氏の猛省を促す」の一文が掲載された。小県郡泉田小学校訓導長坂利郎(後年鍋屋田小学校長)が投稿したものである。論旨は、長野県教育の源泉である師範教育が、校長の権力的なおどしによって職員・生徒を萎縮させ、「表面上おとなしい教師」をつくる「去勢教育」になり、師範学校が教員の「形式的な機械製造所になっている」と憂えたものである。学科試験を重視して「哲学文芸を厳禁し」、人間を探究して「ベルグソンやトルストイを読む者を蛇蝎(だかつ)視して、ついには学校より放逐せんと迄威嚇」して、青年の欲求を抑止し、気魄(きはく)のある教師を養成しようとしない教育方針を批判し、星校長の猛省を促し、世論を喚起しようとしたのである。
第一〇代校長星菊太が、校風の自主的な伝統に反して、当時新しい文芸運動に共鳴して哲学や文芸に親しむ生徒をきらい、反信州的な師範教育をおこなっていることとその教育方針を問題として、東西南北会の有志の教員が、大正四年二月二十日善光寺裏の燕の湯に集まった。二市八郡から五〇人が集会し、長野県教育の将来のため星校長に辞職を勧告することを決議した。一二人の代表が選ばれて、翌二十一日星校長に面接してその教育を難詰し、辞職を迫り、午後は在校生に学友会を開かせて意見を交換し、生徒の発奮を促している。
県はこの排斥の当事者一二人にたいして、教員として穏当でない行動をとったとして各一ヵ年の休職を命じた。処分を受けたのは、長野市の松本深(後町首席)・平林宇喜(鍋屋田)・小山林太郎(城山)、県下では宮坂亮(南小川)・岡沢竜太郎(豊科)・長坂利郎(泉田)・斉藤節(小諸)・松岡弘(玉川)・増田武雄(宗賀)・小松進(高家)・西山敏一(会染)・三沢英一(松本)の、有力なメンバーであった。このあと長野師範では二月、学友会の会則を改正して自治制を復活し、星校長は九月静岡師範の内堀維文校長と交替するのである。
東西南北会は、この事件後表面的な活動はみられなくなるが、多くの人材がいて長野・安筑から県下にひろがり、県教育界の主流となっていく。なお、県の当事者はかねて文部省から「本県教育者側には比較的社会主義的思想が弥漫(びまん)し」ているから、「絶対にこれを取り調べるよう厳達」されているというような話が、渡辺敏校長(長野高女)の談として『信毎』が伝えている。こののちも県の首脳者は、「南北派」と「白樺派」を自由教育の元凶とみて、学務課の改造人事をおこない、東西南北会の「嵐の時代」をむかえる。岡田知事は、大正十一年三月、視学の三村安治を大町中学校長に、同小山保雄を埴科中学校長(現屋代高)に転出させ、九月には首席視学の岡村千馬太を埴科郡長に発令した。岡村は県の意図に抵抗して、いったん赴任して辞職した。県は学務課の幹部を広島師範系に切りかえて、県下の自由教育の弾圧にのり出し、そして十三年の松本女子師範の川井訓導事件がおこり、行政当局と教育会の対立が深まるのである。