信州白樺派の運動と村民による排斥

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明治末年に台頭した白樺派の文芸運動は、長野県において教育運動となり、関係教師を「信州白樺派」とよんだ。文芸雑誌『白樺』は、明治四十三年(一九一〇)武者小路実篤・志賀直哉・里見淳・有島生馬・長与善郎らによって創刊され、人道主義・理想主義を標榜(ひょうぼう)して、文壇の流れは自然主義から交替する。創刊の翌年、『白樺』の愛読者赤羽王郎(本名一雄)と笠井三郎が更級郡中津尋常小学校で同僚となり、埴科郡五加小学校の中村亮平と三人が信州白樺派の先駆となって、かれらによってさらに稲荷山・松代・後町小学校などへ初期白樺派の活動が移行していく。


写真130 雑誌『白樺』

 先達となった赤羽王郎(東春近村出身・東京美術学校中退)は、明治四十四年中津村(長野市川中島町)へ代用教員として赴任し、そこに前年長野師範新卒の笠井三郎(稲荷山出身・一時松井姓)がいて、同僚の吉村万治郎とともに白樺派の同志ができる。かれらは進歩的な教育を試みて、謄写版刷りの児童読み物を副教材に使用し、これが後年県下に普及する。また、児童中心の学習形態としてグループ学習を始めている。王郎は、担任の二年生のクラスの被差別部落の児童の手を洗わせて、手をつないで遊戯をさせ、教室の座席もみんなと一緒にさせた。差別的取り扱いを廃してから、このこどもたちの成績がよくなり、成績のよかった有力者から、社会主義者と誤解されて排斥をうけ、玉川小学校(校長赤彦から手塚縫蔵)へ転任する。翌大正三年(一九一四)王郎の意見で諏訪教育会の泰西美術展が開かれ、来会した武者小路と王郎の結びつきができて、以後白樺派の芸術運動が県下に展開することとなった。

 中津の笠井三郎は、大正三年稲荷山尋常高等小学校へ転任し、首席訓導となり、情熱的な授業ときびしい訓育で、模範クラスといわれ、澄んだ印象の教師で担任以外の児童からもしたわれた。後町小学校(守屋喜七校長・藤森省吾在職)では、中津以来の辞書使用の自学による能力主義の学習形態をとり、借家を「妻科塾」といって、稲荷山の前途ある卒業生と寝食を共にした。笠井は南箕輪でも児童の魂に食いいる児童中心の教育をおこなって、教え子は「言わず語らずの触れ合いによる薫陶(くんとう)」だったと語っている。真摯(しんし)な基督(キリスト)者であったが、学校図書購入に関して同僚の策動により、村の青年の排斥をうけた。

 五加(埴科郡)の中村亮平は、松代尋常高等小学校へ転任して、大正七年武者小路が人類愛の理想郷の「新しき村」を宮崎県へ建設する計画をたてると、長野県支部の責任者となった。入村の希望者は第一種会員、協賛後援者は第二種会員とする会員制で、入村したのは中村夫妻と塚原健二郎(東条村出身・信毎記者・のち童話作家日本児童文学者協会長)、入村しなかった田中嘉忠(長野附属第一回研究学級担任)・宮本正彦(更級村・師範生)ほか四人、第二種会員は十一年までに一九人あり、松代小学校の島田茂穂(支部長代理)と馬場源六、そのほか松島八郎(宗賀小)・一志斐雄(伊賀良小)・松川伊勢雄・市川慶蔵などの名が記されている。中村亮平は在村一年八ヵ月で失望し、離村して朝鮮にわたり『朝鮮童話集』を出し、東京へ引きあげて美術関係の解説書を多数著している。

 県内白樺派の芸術運動は、諏訪教育会の泰西美術展を最初として、武者小路と知己を得た赤羽王郎ら同志の手で、県内各地で白樺同人の講演会や美術展・音楽会が開かれた。長野市では笠井三郎の周旋で大正六年五月十八日柳宗悦(むねよし)の講演会「神に関する種々なる理解道」が城山館でおこなわれ、七年六月八、九日には草土社美術展と岸田劉生の「自然の美と芸術の美」の講演会が長野商業学校で開かれ、この講演筆記が笠井によって『喜びの日』と題して出版された。なお、稲荷山でも八年十二月十三日ロダンの版画展が開かれ、赤羽と笠井が来場している。

 白樺美術館建設資金募集のため、アルト歌手柳兼子(宗悦夫人)の独唱会が、大正七年県内四会場で開催され、長野市は九月二十九日城山蔵春閣でおこなわれた。笠井が司会して曲の解説と紹介をしたが、これを先立つ二十一日松本女子師範講堂で開催された独唱会で、田島清(長野附属小訓導)が書いた「柳兼子リサイタル演奏曲目解説」には、ワグナーの「タンホイザー」、シューベルトの「汝こそ我がやすらひ」「野ばら」「デアドツベルゴンゲル」、ロッシーニの「セミラミデ」、ケルビニの「アヴェマリア」、メンデルスゾーンの「ベニス風のゴンドラの歌」、ブラームスの「子守歌」「サッフォー風の歌」、トーマスの「ミリオン(ガヴォット)」が掲載されている。蔵春閣の独唱会では原語が主で、訳詩でも歌ったという。

 大正十年には有島武郎(たけお)を招いて、ホイットマンの詩集〝Leaves of Griess〟をテキストとして講習会が開かれた。アメリカに留学して、直接ホイットマンにふれて帰国した有島を、下水内郡常盤尋常高等小学校山本武雄(北佐久・御代田出身)と鍋屋田尋常小学校の北村英一郎(上高井・豊丘出身)が要請したもので、「草の葉会」といい、参加者は県下七十余人であった。アメリカから原書を取りよせて、第一回は八月二十一日から五日間野尻湖の弁天島に泊まり、第二回は十月三十日戸隠中社の久山家で、第三回は翌十一年八月十八日から四日間野尻湖畔であった。この会は十二年有島の自殺で終わっている。

 県下の白樺運動は、大正八年二月の戸倉事件のあと、退職となった王郎が我孫子のバーナード・リーチの窯を手伝い、火災で帰県して同人雑誌『地上』を発刊する。つづいて一志茂樹が文芸雑誌の『創作』を出し、師範学校の生徒も『向日葵(ひまわり)』など『白樺』の地方誌を発行した。県内には倭・南箕輪・中沢などに白樺教員の排斥事件があって、八年をピークとして白樺運動は下火となった。児童を熱愛し、「自己を生かす」個性を伸ばす教育は、大正期の革新的な自由教育の一つの実践の表徴であった。しかし、その進歩的な思想と行動が県民の理解を得られるまでにはいたらなかった。その後、長野市内に白樺派以外の音楽会が信濃毎日新聞社などの主催でひんぱんに催され、美術展覧会もおこなわれるなど、白樺派の活動は市民の芸術への開眼と児童中心の学校教育への転換の大きな契機となった。


写真131 同人雑誌『地上』 (中村一雄所蔵)