新教育の研究学級

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大正六年(一九一七)から長野県師範学校附属小学校に、長野市内二〇人の児童を募集して研究学級が設けられ、翌年さらに一学級増置して、大正新教育の実験が開始された。新教育運動に深くかかわった小原国芳(成城学園)が参観して、「熱烈大胆な欲求から生まれた」「世界にめったに見られない貴いもの」と感嘆した試みであった。そして二〇年間六学級におよぶ長大な実験となった。

 新教育運動は、「児童の世紀」といわれた二〇世紀の初め、ドイツ・アメリカで起こり、日本では樋口勘治郎(諏訪出身・東京高師)が活動主義をとなえ、明治末年に新学校として帝国小学校と成蹊学園が創設され、大正六年長野師範附属の研究学級と同時に澤柳政太郎(松本出身)の成城学園が発足し、その後大正十一年自由学園と、のち昭和四年(一九二九)成城からわかれた小原国芳の玉川学園が設けられている。新教育は、国の強い統制を受けない私立と、教育の実験的研究を使命とする師範附属小学校で試行され、東京女子高等師範の労作教育、奈良女子高等師範の生活教育、明石女子師範の分団式動的教授、千葉師範の自由教育というように、多彩な試みがおこなわれた。いずれも大正十年の八大教育主張講演会(東京高師)前後にあらわれ、西欧の理論の導入に便乗し流行に同調したものであった。そのなかで長野附属の研究学級は、もちろん世界の潮流のなかにあって、県内と自校の長い教育研究にもとづいて内発的に独自に開始されたのであった。

 県内の研究の源流は、明治十年代の能勢栄校長の開発教授までさかのぼるが、直接革新の母体となったのは、四十四年から始まる長野・松本附属主催の県下小学校連合教科研究会であった。この研究会は県内小学校と教育会の自主的参加による全県研究で、一教科ずつ順次研究をすすめた。その過程で、伝統的な教師中心・教科書中心の知識の注入伝達と暗記による他律的・画一的な教育方法が批判されて、児童中心の個性の伸長と自主的学習への改革の機運が醸成されたのである。

 大正三年の修身・訓練研究会で、革新の原理となる人道主義にもとづく教育の目的や原理の変更が議題となって、『信毎』は「自我説と忠孝説の新旧思想の衝突」と報道し、論争は時勢の赴くところ新しい個人完成の教育に向かっていくことが印象づけられた。この研究会は三年には綴方(つづりかた)、四年には図画・工作の表現教科がとりあげられ、大人の文章の模倣でなく児童の創作作文へ、手本の臨画による大人の絵の模倣を廃して、児童の創作を重んじる児童中心の自由教育が主張され、山本鼎(かなえ)の運動に先がけて県内で自由画が始まった。六年には教科研究会にかわって児童研究会が設けられ、この年長野附属小学校に研究学級が発足したのである。

 長野附属小学校では、教科研究をすすめ、教生指導のため毎年「教授要項」を発行改定してきたが、国定教科書による教育の枠内の研究はすでに限界に達して、附属学校の使命とする新しい教育の進歩・創造のための研究は「行きづまり」となった。教科書・授業時間割による教育を脱皮して、児童の生活を根拠とした教育へと改革し、根本的に教育の内容・方法を再構築する必要を痛感して、その実験のため研究学級を設けることが職員間で模索された。訓導のなかには、白樺派の一志茂樹・矢嶋麟太郎らがおり、首席訓導の斉藤節や西山敏一らの理解者がいて、来年度入学の一年生の甲・乙・丙組のうち丙組を研究学級にあてることとなった。問題があれば「自分等の俸給を割いて新たに訓導を一人ふやそう」とまで決意したという。

 研究学級の担任には、田中嘉忠(大正四年長師卒)が選ばれて赴任し、児童は男一〇人・女一〇人を募集した。知能・身体で選ばず、家庭は各種の職業をふくみ、ただ六年間在学中転出しないよう希望した。また、父母には「どんな試みをやっても差しつかえないか」と念を押したという。教室は北校舎二階西端の広い一室で、大正六年四月発足した。「別になんら主義主張があってやったのではなく、まったくこどもに教えられて、したがっていく」という方針であった。そのこどもの生活は遊びであり、遊びは野外であるから、野外が教室であって、校舎は休憩所であり雨天の学習の場であった。当初教室は机がなく、ござが敷かれていた。翌年入学の丙組も研究学級として二六人が入学し、担任は淀川茂重(大正四年長師卒)であった。

 理論的指導者としてカリフォルニア大学で心理学と新教育を学んだ杉崎瑢(よう)が大正五年に来任していて、研究学級の顧問に委嘱され、七年附属の主事となった。杉崎はモンテソリーとディウィの理論を担任訓導の要望でいっしょに研究した。研究学級は、ふつう「丙組」とよばれ、県内では「特別学級」とよびならわされていたが、特別学級の名称は、当時工女や子守などの働く児童の教育に用いられる用語で、新教育の実験学級には適当でなく、学会その他公的な発表には「研究学級」が用いられた。

 研究学級の教育のじっさいは非公開で、「参観謝絶」の札がさげられていた。来県した小原国芳も参観を拒絶されたが、例外として参観、信濃毎日新聞主筆の尾崎隈川も特別許可されている。尾崎は大正八年二月二日から十日まで「長師附属小学校特別教育参観記、特別教育-日本で初めての試み」を九回連載している。この学級の自由教育の特徴を比較的よくつかんだもので、各回のタイトルは、①「要は理解と愛と-教師其人を得るに在り」②「子供から学んで行く-極めて自由に放任して」③「魂と魂との接触が-生み出す人格的教育」④「教わったじゃない-自分で覚えたとの信念」⑤「唱歌教授の一例-一挙して総ての訓練」⑥「形態と色彩から-文字に行かせる手段」⑦「触覚から実生活へ-教えず覚えさせる」⑧「数の観念を-明瞭に目覚めさせる」⑨「子供の持つ広い世界-大人の想像だにも及ばぬ」のようであり、児童を中心とした自主的な学習、教科に分けない総合的な生活経験の学習の状況が伝えられ、児童の世界の発見などについて写真入りで紹介されている。

 県の学務課は、大正十年三月附属小学校に研究学級の教育内容の報告をもとめ、附属は学級がおかれて四年次までの状況を報告した。その内容は、『信毎』に「郊外」と題して報道されている。それによれば、新しい教育の試みは生活教育である。教科を設けず、生活経験を組織的に系統づけようとしたもので、「児童の生活する場所」は「郊外」にあり、この郊外における総合的な生活学習だと説明している。六年次の十二年一月には、同紙が「全部児童の手で成る童謡劇の公演」のタイトルで、「青い鳥の三百頁余の脚本」がつくられ、児童の手で「作曲やバックまで創作」されるという前例のない産物が、夏ごろ公開される予定だと知らせている。

 第一期研究学級二学級の教育の状況は、三年次にあたって信濃教育会の大正八年十月の雑誌『信濃教育』に編集主任島木赤彦の要請で「途上」と題して報告された。おなじころ県費補助申請のため提出された陳情書草案の「研究学級の実情」(仮題)がある。さらに、淀川学級終了の大正十三年六月、信濃教育会総集会で報告された「六年を顧みて」を、『信毎』が一三回にわたって分載している。そのなかで活動例として「郊外生活、自然にひたって社会を生み出す」「土まみれで鶏飼い、そこに数学あり、経済学あり、同時に共存共栄の社会発見」「長野市の研究、旭山で石器時代の生活実演、丹波島の帰りに大名行列」などがあって、生活経験のまとまり(単元)として、初め「郊外」、四年目に「鶏小屋」、五年で「長野市の研究」へ展開したことがわかる。県民は、この報道記事で研究学級の新教育のじっさいを、ようやく推測することができたのである。


写真132 『信毎』に分載された淀川茂重の「六年を顧みて」の一部

 この第一期の研究学級が終わって、杉崎教諭と淀川訓導は新教育と離別することになるが、『信毎』は大正十四年四月二十三日の社説で「長師附属に於ける子供の国の没落を悲しむ」を掲げている。「汗を喜び、疲労を喜んで、喜々として働く子供の国には」、「強制といふものがない」、働くのは「彼ら自らの心である」と前置きして、「子供の国」を「長師附属の特別学級によって、地上に見ることを得た」と賞賛し、ペスタロッチ学者の長田新(広島高師)の講評を紹介している。長田教授は「今日の信州教育を打開して行く材料を、最も豊富に持ってゐると思われるのが、この特別学級である。教育方法に就(つ)いての大胆なる研究施設は世界一といわれているコロンビア大学附属のリンカーンスクールを観た時と、同じような感じがしたが、或(ある)いはその真剣さに於(おい)ては、それ以上だということもできよう」と述べている。社説は、この「世界的に輝かしい附属の教育が、その人去ると共に滅びて終はらねばならぬかと思ふと、長大息の外ない」と惜しんでいる。

 研究学級はこれで終わったのではなく、第一期生が卒業したあと、新一年生を募集して担当者がかわり、第二期二学級が大正十二年四月から昭和六年三月まで、第三期二学級が昭和四年四月から同十二年三月まで合計二〇年間六学級約一六〇人の児童の自主的な経験学習が続行された。その設置状況は表91のとおりである。なお、教室はその後、旭町の桐畑(現市立図書館の地)の二寮の隣へ、さらに妻科寮の敷地内へ新設されて移転している。


表91 研究学級一覧

 研究学級は、カリキュラムの一部とか教育方法だけの部分的改造ではなく、教科カリキュラムから生活カリキュラムへの全面的改革であるうえに、あらかじめプランが作成されていたのではない。児童に教えられながら、児童生活の展開を模索しておこなわれた大胆な企画で、計画書がなく、また、実践の報告書もわずかつぎの四点にすぎない。①長野県師範学校附属小学校「研究学級の経過」(大正十四年三月)、②杉崎瑢「大正年間に於ける新教育の発足-長野附属小研究学級の経過概要」(大正十五年三月)、③淀川茂重「途上(研究学級の経過)」(総括昭和二十二年六月)、④矢口亨「プレスクール・エドゥケーションの実際」(昭和四年八月)

 なお、五回の矢口学級は、就学前五歳児から入学させて、幼児保育から小学校への「発達と教育」をテーマとした、特異のケースであった。

 研究学級は、新教育の先駆的実践として、県内の白樺教育や山本鼎の児童自由画などの自由教育運動に先行して開始された。これが非公開でおこなわれ、報告も半数の三学級程度で、一般への浸透や直接的影響は少なかった。しかし、終了にあたって『信毎』は、「輝かしい足跡を残し、長師附属丙組閉鎖さる 全国に注目された特別施設」の見出しで報道し、杉崎談として「丙組の教育が今日では教育界全般の常識と化した。」つまり「現実が接近した」ことが閉止の理由であるとしている。初期の淀川学級で学んだ小林春雄(八十二銀行顧問)は、『附属長野小学校百年史』の「刊行のことば」で、「児童の内から」教育を創造する教育が、その後入学したこどもや孫をみて、今日でも生きつづけていると感銘を述べている。