長野新聞主筆の山本聖峰は、大正の初期に逗子(ずし)の海でおこなわれた禊(みそ)ぎの会に出席した帰りに、鎌倉の円覚寺で座禅した。これが機縁となり両忘庵釈宗活老師を迎えて、大正七年(一九一八)六月に長野市で接心会(禅僧が禅の教義を示す会)を開催し、「長野両忘会」を結成した。信濃民報を振りだしに、信濃日報・志な野・長野新聞で記者編集長を歴任した矢ヶ崎賢次は、この最初の接心会から参禅し、以後この会の世話役となった。
明治四十四年(一九一一)から野沢中学校(現野沢北高校)の教諭となった鈴沢寿は、大正二年に出家を志したが果たせず、円覚寺で宮地宗海老師について参禅した。大正十年に鈴沢は松本高等学校の教授となり、その門下からすぐれた禅者和合恒男やのちに長野中学校長になった上条憲太郎が育った。東信明徳会は釈大眉(しゃくたいび)老師の指導するところとなり、大眉老師の禅道会の支部となり、北信禅道会と称した。鈴沢寿・和合恒男・上条憲太郎・矢ヶ崎賢次は、釈大眉の四天王といわれた。これらの人びとの活動で、教育者のなかに臨済宗系の禅宗が広まっていった。
日蓮宗系の信徒集団である法華会は、大正六年八月に長野市妻科原立寺を事務所に設立された。設立趣意書は、憂国の軍人・学者・実業家等によって東京に設立された「法華会」の流れをくむものと説明し、「日蓮大上人の唱導を讃仰し、各自の信念を涵養するとともにこれを普及する」ことを目的とする、と説いている。毎月一回各会員宅を持ちまわりで集会を開き、講演や講話を聞いている。
臨済禅が指導的立場の人に信奉されていったなか、長野師範学校の卒業生で出家した禅僧があった。長野中学校を卒業して長野師範学校本科二部にすすんだ戸谷英三は、数校の教諭を経て長野市鍋屋田小学校の教師となった。時は白樺教育のさなかで、刀剣や浮世絵を愛好し、白樺派の教師とよしみを通じたが、戸谷は仏教への関心を深め、京都で小学校教頭となり、信州に帰って北佐久農業学校の教諭から佐渡中学校教諭となり、恩給資格受領の一五日前に退職し、長野市松代町長国寺に入って僧侶となった。
大正期の教師のなかには、仏教・茶道(信濃不言会など)・短歌・キリスト教を学ぶものが多かった。純宗教的な活動でなくても、在家的仏教研究求道者が多かったのである。
善光寺では、明治四十五年(大正元年)にご開帳が開かれた。ついで大正七年と大正十三年に開催された。六年ごとの子・午の年にきちんとおこなわれた。大正七年は第一次世界大戦のさなかで、日本社会は好景気に沸いていた。
いっぽう、教派にこだわらないで伝道する団体も結成された。飯田の仏教幼稚園、須坂の上高井仏教護国団経営の上高井幼稚園がその典型である。長野市では善光寺という大寺院の指導のもとに、超教派の伝道はなかったが、ご開帳を中心に伝統的な仏教伝道が、国際的規模でおこなわれた。ご開帳は善光寺の中心的行事として、長野市の経済活動とも大きな関連をもって実施された。