善光寺仁王門の再建

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明治二十四年(一八九一)六月二日、東之門町から出火し、周辺数ヵ町とともに善光寺大本願や仁王門も焼失した。とくにこの仁王門の焼失は、弘化(こうか)四年(一八四七)焼失、慶応(けいおう)元年(一八六五)落成からわずか二五年を経たばかりのもので、資金難のためすぐに再建にかかることは困難であった。翌明治二十五年とりあえず焼失あとへ仁王像のない仮の門を建て、同二十七年(午年)のご開帳はこの門で過ごした。

 しかし、一般の不評があり、同年九月、善光寺は仁王門再建のため高村光雲・竹内久一等に銅製の仁王尊像の雛型調製を依頼した。このとき、仁王像を木彫りでなく銅像で依頼したのは、当時西欧からの影響もあって彫刻界の風潮によるものと、加えて覆屋(仁王門)のない露座の銅像は資金面から得策であった。経費は五万円の見積りであったが、この計画は資金面と露座の銅像にたいする考え方の相違から一山僧侶の反対運動にあいたちぎえとなり、このあと再建問題はしばらく棚上げとなった。明治三十三年(子年)のご開帳にも、仁王門の再建はできなかった。これはけっきょく、市や信徒をふくめて善光寺を後援する組織がなかったためである。

 明治三十八年善光寺保存会が創設され、会長には県知事を依頼した。これ以後、仁王門の再建はこの保存会が全国的に資金集めをすすめることになった。しかし、仁王門建築費約六万円、仁王像彫刻費約六万円、計一二万円の資金集めは容易でなく、同四十五年(子年)四月のご開帳までには再建はならず、仮に四月木造黒塗り露座の仁王像(写真134)を焼失あとへ建てるにとどまった。この仁王像は、飯山の仏師清水和助が請負い、すでにあった仏像を職工十数人と共にわずか一ヵ月で修繕し造りあげたもので、像の丈一丈三尺五寸(約四メートル半)、木像の上に和紙をはり、さらに黒色の漆(うるし)を表面に塗ったものであった。


写真134 焼失した仁王門跡に明治45年4月ご開帳の折に建てられた露座の仁王像
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 善光寺保存会が仁王門再建の寄付金集めに苦心し、再建のめどが立たず困惑しているうち明治も終わりすでに大正をむかえていた。そんなやさき、突然思わぬところから朗報がとびこんだ。

 大正二年(一九一三)東筑摩郡山形村小坂の永田兵太郎が、仁王門建築費全額相当として所有田畑山林約五万円を善光寺保存会へ寄付するというのである。

 永田は、七福神を尊信し、妻帯することもなく、勤倹と商法の確固たる信念をもち、宅地田畑山林等の売買により一代にして大富豪となったものである。ところが、永田は寄付にあたって数項目の条件をつけてきたが、そのなかで一項目善光寺にとって難題があった。それは仁王門が完成した暁には仁王門の門柱に寄付者の姓名印刻を強く希望し、もしこの希望がいれられなければ寄付の意志をひるがえすというものであった。これにたいし保存会はこの条件だけは受けられないとして、永田との寄付交渉も切れようとしていた。善光寺側の論点は、仁王門建築のような莫大な費用を要する資金を、一篤志家の全額寄付でまかなうのか、それとも全国の信者による寄進でまかなうべきかの問題で、一山あげて協議を重ねた。しかし、資金難に苦しむ保存会では、背に腹はかえられないとして永田の意志を尊重し、別に寄付者の銅像を建てることに決し、永田もこれを了承して、ようやく仁王門建立の運びとなった。


写真135 善光寺境内に建てられた仁王門寄付者永田兵太郎の銅像 (風間紀提供)

 大正三年七月、保存会は永田の田畑寄付による土地の登記手続きや仁王門の設計作業をはじめた。八月には仁王門の図取りが決定し、九月一日には建設許可願いを県へ提出し、同月十九日に認可された。設計は前仁王門の形に似たもので唐破風のないものであった。予算は付帯工事等をふくめ約六万円、用材は欅(けやき)材とし主として越前(福井県北部)にもとめることにした。

 十月二十八日には、早くも用材の欅柱二本(長さ八間・幅二尺)が越前から長野停車場に到着した。このあとつづいて柱は冬から翌年の夏へかけて到着するが、平均周囲八尺くらいの欅を二〇〇本ほど伐りだすのであるが、越前のほか若狭(福井県南部)、能登(石川県)、越後(新潟県)などからも伐りだした。深山幽谷からもとめた欅もあって運搬上非常な困難に遭遇した。雪のなかを苦心惨憺(さんたん)わずかに山の中腹まで運搬した柱が滑って深い渓谷に転落したこともあった。他では得ることのできない欅であったから、村人に事情を話すとたちまち数百人の村民がミノカサ姿で出て「善光寺様の仁王門に使用する柱なら、力を添えれば功徳にもなる」と、援助して引きあげてくれた。

 こうして大正三年十一月五日には、仁王門起工式と地鎮祭を大勧進と大本願がそれぞれ古式豊かに挙行した。起工式はすんでも、季節はすでに冬を迎え、そのうえ用材の大部分はいまだ到着せず、基礎工事の開始は翌年の春であった。

 これよりさき、善光寺内に思いがけない問題がおこっていた。長野高等女学校八木貞助教諭等により、善光寺境内の松の木や金堂の柱に白蟻(しろあり)が発生していることが発見され、その絶滅対策を指摘されていた。被害は金堂瑠璃壇(るりだん)の柱はもちろん虹梁(こうりょう)にもおよんでいた。そのため、全滅をはかるには柱全部を改造しなければ完全を期すことができず、この白蟻問題を放置して何ら策を講じない姿に、改造論をとなえる少壮連は憤慨し、仁王門再建も必要であるが、それよりも白蟻の絶滅に力を注ぐべきが当然であると主張した。この問題はかなり善光寺内部で論議をよんだが、白蟻対策とは別に仁王門再建工事は進めることとなった。

 大正四年三月三十日、仁王尊像二体と三面大黒天、三宝荒神の木像彫刻につき、大勧進、大本願の両執事代理と鈴木小右衛門、原山、荒井両理事による協議の結果、彫刻は、前回銅像の雛型調製を依頼した高村光雲に決定し、同氏と契約することにした。この契約にあたり高村光雲は、「自己一代の傑作を試みるはこのとき、我が意のままに経費も要するだけ支出するというのであれば、東洋における名刹善光寺として、世に比べ恥ずかしくないものを制作する」という条件を提示した。これにたいし善光寺側は、高村光雲を除いてはほかに適任者はないとして、この条件をいれ依託料として、仁王尊像二万五〇〇〇円、他二体像一万五〇〇〇円、その第一回支払いとして金三〇〇〇円を五月に渡すとして契約した。高村光雲は、東京駒込吉祥寺町に制作工場を建て、木曽の檜(ひのき)良材を使用して彫刻することにし、パートナーの米原雲海とともに仁王尊像の制作にかかることとなった。

 大正四年六月には、欅柱用材など全部が到着し、また仁王門の台石は、東筑摩郡本城村の信濃磨石藤森石材部が請負い、西条停車場に事務所を設置して製材加工にあたった。

 同年十一月二十六日には仁王門建前祝いがおこなわれたが、この柱建てのまっさいちゅう、十二月にはいり突然仁王門の設計変更がだされた。理由は目下進行中の門は、焼失前の仁王門そのままの設計で、屋根も四方が葺(ふき)下げになっており外観上からも模様がえをするべきだという関係者の説が出てきたためである。そこで内務省社寺局に意見をもとめたり、善光寺一山とも協議の結果、いずれも異議なく設計変更に決した。変更ヵ所は門の出入り口両面の屋根に唐破風を設けるというものであった。この増設に要する費用は三五〇〇余円、用材は新たに求めず従来のもので足りる見込みであった。

 突然の設計変更でたいへんではあったが工事はすすみ、五年五月から六月にかけて四寸厚みの瓦(かわら)葺きをおこなった。この瓦の製造と葺きかえ工事は神谷喜三郎(真島地区)が請け負った。

 こうして仁王門工事について棟梁(とうりょう)の仕事は大半が終了したが、仁王像の完成がおくれていたため、仁王門の竣工式は延期となりそのまま放置して、これから約一年半先おくりとなった。

 大正七年の春を迎え、この年(午年)は善光寺御開帳の年である。何とかご開帳までにはすでに完成している仁王門に、仁王尊像を安置して仁王門の上棟式をすませたかったが、結局仁王像は間にあわなかった。しかたなく仁王像のないまま、同年三月三十日落慶式(上棟式)を実施し、ご開帳をすることになった。


写真136 大正7年3月30日善光寺仁王門落成する 仁王像は製作中であった

 大正八年五月ようやく仁王像が完成して長野停車場へ到着し、仁王尊像二体と三面大黒天三宝荒神の安置作業がおこなわれた。

 同年九月、焼失以来二八年ぶりに待望の仁王尊開眼式である。この開眼式の挙行については、大本願と大勧進のあいだにそれぞれ伝統的な様式があり、本式執行の主張がはじめからことなり、保存会役員や長野市長牧野元などにより、「両寺が同日同時に開眼式を挙行するよう」申しいれていたが折りあわず、それぞれに日をかえて挙行することになった。十三日午前一一時三〇分より仁王尊大本願開眼式、十四日午前一〇時三〇分より仁王尊大勧進開眼式、十五日より三週間は仁王尊開眼供養会であった。

 こうして三日間におよぶ儀式が終わり、仁王尊も同日より幕がのぞかれ参詣人も自由に門内の通行が許され、これ以降のご開帳は、仁王門も整った伽藍(がらん)の善光寺でおこなわれるようになった。