日露戦争後の地方改良政策は宗教政策にもおよんだ。明治四十年(一九〇七)五月県の訓令では、一町村内に村社以外の神社が多数あるときは、崇敬の実があがらないから、小規模神社の統合合併と村社境内への移転を指示した。また、前年の三十九年に出された「神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)」の公費支出の規程にのっとり、県社以下の神社の存続・統合・移転・維持財産造成法を、長野県は管下の市町村に通達した。
県が通牒(つうちょう)した神社維持の基準年収は、県社で三〇〇円以上、郷社で二〇〇円以上、村社以下で一〇〇円以上であり、そのうえ年収の半分が基本財産からのものでなければならない、というものであった。また、行政指導では一町村に一社であったが、町村合併のしこりや長い伝統の違いから、この指導は不可能な面があり、一大字(おおあざ)に一社、旧町村に該当する部落には一社を認める郡が多かった。
長野県の統計は、明治三十六年の神社総数九四四六社が大正三年(一九一四)には三六六四社に激減していることを伝えている。実に、六〇パーセント以上の神社が統廃合された。大字には社格は低くても伝統的に祭られた社が多く、この神社は祭りや行事と密着していたから、統合には反対が多かった。
更級郡布施村(長野市)では、五明組の布制神社が村社に指定され、他の村内五社は統廃合されることになった。基本財産があれば存続が認められると、寄付で神社財産の拡充をはかった部落もあったが、村内他の組や部落の反対があり、泣くなく明治四十一年に春祭りを期して、四月十九日に布制神社に合祀されることとなった。
しかし、布施村高田区三社の氏子たちは、産神(うぶがみ)様にお別れだと四月十八日の夜に大神楽(かぐら)を出し獅子舞を踊ったが、そのおり獅子舞を舞ったら獅子(しし)の耳が落ちた。氏子たちは、産神様は合社がいやなのだといって騒ぎだした。翌十九日の合祀の祭事では、三社の祭神を乗せた輿(こし)がなかなか出発せず、氏子の抵抗は最後までつづいた。村長が三社の氏子総代と話しあい、やっとのことで御幣を輿ではなく三方に乗せて運び、五社そろって動座の儀を執りおこなったのは翌二十日午前一時であった。
同じ更級郡塩崎村(長野市)には、室町時代から篠井庄の庄宮であった「篠井庄神社」があった。この神社は無格社であったので、整理の対象になった。無格社とはいえ由緒ある庄宮八幡社として信仰をあつめていた。まして、明治時代に入って神仏分離以後、村民によって再興整備され、地区の生活の中心であったから、地区民はあげて社格の昇格を願っていた。しかし、明治四十年にいたって村長は氏子総代を説得し、氏子の区民が知らないあいだに上篠ノ井の村社軻良根古(からねこ)神社への合併を強行した。不満の氏子は一つの社殿に合祀し他の神と同座されることに異議を申したて、本殿を二つにすることを要求した。社殿は二つだが神社は一社として経営するということになった。指定村社といっても経営は苦しく、ましてや無格社や指定もれの末端村社は国家神道の体系に組みこまれても平常の経営は苦しく、寄付や賽銭(さいせん)、ご祈祷(きとう)やお札授与などの宗教活動で収入をあげ、神職の給与を確保した。
国家神道とは別に、教派神道として格づけられた一般神道は、伊勢神宮の系列とは違う神社であった。出雲大社もこの一般神道にはいるが、多くは明治維新期に創唱されたものが多かった。すなわち、習合神道や仏教・修験道系列の民間宗教である。長野市でも天理教・金光教・惟神神道の修成派と大成派などがひろまっていた。教派神道は明治二十年代まではお札の配布や守札の販売は禁じられていたが、三十年代に入って国家神道が確立すると、その系列に属さない宗教として宗教活動を許されていた。
神道天理教(天理教)は、きびしい弾圧統制の歴史をもっている。明治四十年十二月の県下の警察署の天理教取り締まりは、礼拝祈祷による医薬禁止(信者はご祈祷により、薬を飲むな)という弊害の禁止という側面をもっている。また、みだりに信徒に寄付させるという弊害の防止もあった。大正期の長野市の天理教は山名分教会に所属していたが、昭和期には名京大教会の分教会・支教会もあった。
明治四十年十一月の長野支教会を見ると、教会長の長坂長寿郎が責任者で、安茂里布教所の所長は樋口喜三郎であった。前述のように天理教布教弊害調査がおこなわれその回答は、警察部長から内務部長におくられたが、そのなかの川中島宣教所に関しては、「信徒は総代男三、教師男三、信徒男五一三・女五七五、合計一〇八八人。敷地七畝強。建物四五坪三合」と記されている。
大正四年の長野支教会は、会長が長坂長寿郎で、信徒総代は千野鶴吉であった。千野は市会議員をつとめた商人で、天理教も実業者を中核に成長していた。大正五年には川中島宣教所は篠ノ井町布施高田に移転した。大正十二年に天理教理生会長野県分会が活動した。翌十三年川中島宣教所に集まっていた青年は、天理教青年会名京分会の長野支部から分離し、川中島支会を組織した。昭和三年(一九二八)の役員会では神様の大御心にそって大和魂を磨きあげるために、毎月一回会合し教理を語りあうと決めている。