キリスト教の動向

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キリスト教は、エディンバラでの世界宣教大会以後、世界の全教派の全教会が協同で伝道する機運となった。日本メソジスト長野教会は、明治四十五年(一九一二)五月二十日(月)から二十五日(土)まで、新田町の聖公会の講義所と協同して連夜説教会を開催した。毎夜七時半から、上田、松本、屋代、須坂の牧師・司祭を弁士として集会をおこなった。午後は婦人たちが路傍伝道を試み、伝道のちらしを各家に配布した。毎夜一五〇人もの集会者があった。

 大正二年(一九一三)七月には海老名弾正が長野に招かれた。招聘(しょうへい)のお膳立(ぜんだ)てはダニエル・ノルマン宣教師であったが、伝道のため呼んだというより、地方改良運動の一環としての来長であった。長野到着の午後は商業学校で講演し、それから市内財界人と懇談し、夜は日本メソジスト長野教会で「人格の宗教」という講演をした。この講演にも、県の学務課長や教育関係者が多数出席している。翌日午前は長野師範学校で全生徒を前に「奉公」という題で講演し、忠君愛国を説いた。あわただしい日程で、精力的に講演をこなしているが、この時期、海老名や留岡幸助らの同志社卒業の人びとは、地方改良運動の一環で各地をまわり、勤倹貯蓄や精神修行を説いていた。


写真137 ダニエル・ノルマン宣教師一家 (写真集『長野の百年』より)

 同じくこの年の十月三十一日、聖公会の聖堂で日本基督教会長野教会と日本メソジスト長野教会の三派が合同で「天長節祝日礼拝」をおこなった。このとき、東京YMCA(キリスト教青年会)から東大、一高、立教の学生伝道隊が長野に来ていた。

 翌大正三年一月二十八日から連合説教会が開かれた。二十八・二十九日は問御所町聖公会講義所で、三十・三十一日は日本メソジスト長野教会で開会した。講師は聖公会のハミルトン主教、水野長老、岡崎伝道師、メソジスト教会はノルマン長野部部長、北沢銕治牧師、森島兵市鉄道ミッション講師、日本基督教会は木村熊二牧師であった。

 同年十一月には北信協同伝道が実施された。この協同伝道も長野市の日本基督、メソジスト、聖公会の三教会合同の伝道であった。十一月十四日(土)には午後二時から日本メソジスト長野教会で婦人大会が開かれ、明治学院総理井深梶之助、婦人矯風会の三谷民子が講演した。

 また、平行して千歳座(現相生座)で青年大会が開催され、田川大吉郎、宣教師デビソンが演説した。同日午後七時から千歳座で大演説会を開き、井深梶之助、田川大吉郎、三谷民子が演説した。聴衆は四〇〇人であった。

 明治四十年に日本で三派に分かれていたメソジスト教会が合同し、毎年の年会は東部と西部の二年会に分かれて開催されていた。日本メソジスト教会第九回東部年会は大正五年(一九一六)三月十六日から二十三日まで、日本メソジスト長野教会を会場に開催された。参加者は教職四九人、信徒代議員八人、教職試補五人の合計六二人であった。遠くは北海道、青森からの参加者もあった。

 十八日夜七時半から日本メソジスト長野教会教会堂で矯風演説会が開かれ、宣教師マッケンジーが「欧州に於ける禁酒運動」、銀座教会牧師鵜飼猛が「国運発展の基」、根本正が「福音と矯風」と題して講演した。会衆は一二〇人余であった。

 二十日(月)の夜は長野部主催の歓迎晩餐会(ばんさんかい)が城山館でおこなわれ、六二人の年会員のほかに、知事代理の学務課長、牧野長野市長、藤根警察署長、和田信濃銀行支配人、山本信濃新聞主筆等の来客があった。ノルマンがあいさつし、北沢銕治牧師が食前の感謝を捧げた。デザートコースに入ると、監督平岩愃保が感謝の辞をのべ、来客を意識してかキリスト教の社会的な側面、活動的である点、積極的な性格をもっていることなどを述べた。

 来客側からは白上学務課長が「現代社会の宗教的欠陥は信州人に共通するので、キリスト教に期待する」旨のスピーチをした。山本聖峯信濃新聞主筆は、教会は一週に一日だけ開けて他の六日は閉ざしている観がある。教会はよろしく門戸を開放して常に活動せよ、とスピーチした。長野市長はメソジスト教会の年会が開催されるのは当地未曾有(みぞう)の出来事である、教会が当市の宗教上道徳上に好影響をおよぼすことを期待するとあいさつした。

 大正三年八月の、監督平岩愃保の「信越巡回紀行」によれば、「青年の洗礼を受くる者輩出するようなれども未だ土地の人に多くの改心者を出すに至らざるを遺憾とするのみ」とある。裁判所、刑務所、県庁などの転勤者を中心とする転勤族が多い教会の体質は、明治期にくらべると変化してきていたのであるが、それでも監督の指摘を受けるようなところがあったのである。

 中等教育の拡大で、長野市の労働者も質的に変化してきた。鉄道の事務系統に勤めるホワイトカラーの労働者や銀行の行員、県庁の雇員などの青年層が、教会の青年共励会に集まるようになった。この人たちは、親が農業や商人で、中等学校を出たこどもらは親とは異なって「勤め人」になったのである。これらの人びとは、長野県内各地や新潟県に転任することがあっても、いずれ長野市に帰ってくる階層で、準土着人といってもよい人たちであった。

 米国美以教会(アメリカ北部メソジスト教会)は外国伝道を開始した百周年を記念して、五年計画の大伝道運動を開始した。日本メソジスト教会も母教会の一つであるこの米国美以教会の伝道に共鳴し、「日本メソヂスト百年記念大成運動」を展開することになった。この大成運動は大正八年六月一日から大正十二年六月までの満四年にわたって実施する計画であった。大成運動の目的は、信者各自の覚醒(かくせい)と信徒倍増の運動、教会自給、婦人事業の発展、基督教社会事業の振興などである。

 大正十年四月五、六日には労働組合運動、農民組合の組織者で時の人である賀川豊彦を招聘(しょうへい)して講演会を開催したが、市民の反響も大きく、五日は二〇〇人、六日は二五〇人の聴衆が集まった。

 日本メソジスト長野教会は明治の末年に建築した会堂を改築することにした。その費用は約八〇〇〇円を見こむ大規模なものであった。会堂修築費を助けるための音楽会が、大正十年七月十六日の昼夜二回蔵春閣でおこなわれた。ミス・ハミルトン、ミス・ノルマンのピアノ連弾、ヘニガー夫人のピアノ、シャイプリーの独唱、斎藤のヴァイオリン演奏、吉岡秀三郎の草笛演奏がおこなわれた。音楽会のプログラムは和文英文の双方で刷られている。この音楽会は二八三円の利益を生みだした。教会が負担する金額の二八パーセントを稼ぎだしたのである。

 大正十二年九月の関東大震災では、東洋英和女学校幼稚園師範科の学生と教師が、旭幼稚園に疎開してきた。この学生と教師は、翌十三年三月まで長野で勉学した。

 大正十四年十一月八日(日)に婦人矯風会の守屋東女史一行が長野市にきた。これを機に「少年禁酒軍」が組織された。ノルマンが禁酒運動に熱心であったので、守屋女史らもノルマンの斡旋(あっせん)で来長したのである。明治期には教会に少年禁酒会があったが、このとき教会外の禁酒運動と連動する組織の一環として設立された。少年禁酒軍設立と同じ十一月の二十三日(月)「廓清会長野支部」が発足した。廃娼運動は教会のテーマになってきていた。この動きは、日本メソジスト長野教会が長野県の公娼制度廃止運動の中心になる契機をつくりだした。